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高校の一級先輩にKという人がいた。ウチの陸上部は人格とか指導力とか頭脳明晰か否かにかかわらず、二年生の関東大会で最もいい成績を収めた者が主将となる慣例があった。で、この人はキャプテンだった。脚だけは速い人だった。
ある競技会の申し込み書類を、Kさんが部室で作成していた。横で見ていると彼が杜氏に訊ねてきた。
「おい、kura。Aの名前、何て言うンだ?」
Aとは私の同級で一緒にハンマーを投げていた男だ。日本エッセイストクラブ賞受賞実績がある、大新聞の記者の息子で、その名は「麦と兵隊」「肉体の門」で知られる火野葦平がつけたという。
「ウシオです」
火野らしい激しい命名である。因みに彼の兄の名付け親は、「さんまの歌」の佐藤春夫で、その名は泉という。これも佐藤春夫らしい。
と、Kさんが書いている書類を見ると、「牛男」と何の疑念も感じられない筆跡。
「違いますよ。シオです」
今度は思いッ切り「塩」
「それも違います。サンズイの・・・」
「ああ、わかった」
やっと「潮」とわかったのだろう。杜氏はやっと力を抜いた。
ところが競技会当日、潮クンと杜氏がプログラムに見た字は・・・、「湖」!
杜氏はこンな先輩を持っていることが非常に恥ずかしい。KさんはA山学院大学に合格したが、杜氏は密かに将来子供が出来てもA学院だけは受けさせまいと心に誓うのだった。
これには後日談がある。潮クンが円盤投の練習をしていると、Kさんが背を向けてゴールの脇の決勝台の最上段に座ってタイムを取っていた。そこに潮クンが投げ返した円盤が飛んで来て、Aさんの腰を直撃した。
「アッチチチチ!」
けたたましい叫びと共に、Aさんは決勝台を駆け下り、そのまま三〇メートルはダッシュした。誰も怪我のことなど心配しなかった。なぜなら、そのときのAさんのダッシュは、競技会のソレよりよほど速かったからだ。
潮クンが悪いなどと考えてはいけない。砲丸、円盤、ハンマー、やりはフィールドを飛び交う凶器である。しかも、投げ手の意図する方向に飛ぶとは限らない。だから、投てき競技者は安全確認のため、必ず合図を送る。このときも、潮クンはキッチリ合図を出していた。フィールドに立ち入る以上、凶器が飛んでくることに注意を払わない者の方が悪いのだ。でないと、投てき競技者は安心して練習が出来ない。
で、潮クンに、「おめェ、『湖』の仕返しだろ、あれ?」と言うと、ヤツはニヤッと笑っただけだった。
ウチの高校のウォーミングアップの柔軟体操に、地面に大の字に寝て行うものがある。長く憂鬱な冬期練習が終わり、春うららかで眠くなりそうな陽射しの中で練習を始めたある日、その柔軟の最中にけたたましい叫び。
「アッチチチチ」
Kさんが立ち上がって、やはり「競技会以上のダッシュ」を披露していた。季節が巡って四季折々の雑草が花を開かせるグラウンドにミツバチがたくさん姿を見せており、そのミツの収集作業の最中に、Kさんが背中で覆い被さったらしい。そりゃァハチだって刺すよ、そういう状況だったら。誰も同情はしなかった。横たわる場所を確認しなかった方が悪い。事実、そンなスットンキョーな目に遭った人は、母校一〇〇年以上の歴史でもKさん只一人だろう。同情はむしろ、刺したKさんの背中に内臓ごと針を残してしまい、死ぬ運命に遭ったミツバチに集まった。
枕が長くなってしまったが、ハチが刺すという行為には、因果を感じる。ミツバチが命と引き換えに敵を刺すのは有名であるし、シガバチの項でも触れた通り、カリウドバチの針は獲物を生きたまま保つ麻酔として機能する。大型のスズメバチ、アシナガバチの毒は、動物の体内に抗体抗原反応を仕掛け、度重なり刺されるとアンフィラニショック死をもたらすという遠大な罠となる。「北斗の拳」のケンシロウ氏の「お前はもう死んでいる」と似ている。
かく言う杜氏も小学校低学年の頃、アシナガバチにやられたことがある。痛かった。
当時、小学校のクラスに長谷川君という口がかなり曲がっている子(障害などでは決してない)がおり、杜氏が刺されたのは頬で顔が腫れてバランスが崩れてしまったために「長谷川君が二人いる」などと言われたものだ。長谷川君もエライ迷惑だったろう。
多分、そのときの抗体は私の中に築かれていうのだろう。だからハチには刺されないよう細心の注意を払っている。たやすいことだ。むやみに動かず、敵対する行動を起こさなければ、彼女ら(外で活動するハチはハタラキバチで生殖能力を持たぬ雌)は概して友好的に振舞ってくれる。ただ、アシナガバチ体験は杜氏の意識に「ハチは危険」という信号を深く刷り込んでしまった。
ここでやっと本題。タケトラカミキリというカミキリムシがいる。カミキリムシというのはスッキリした形状で、羽の柄などのバリエーションが豊富でなかなか好ましいものだが、このタケトラカミキリには変わった技がある。竹薮などによくいるこのムシは、停まっているときは黄色と黒褐色のツートーンカラーのカミキリムシにしか見えない。ところがひとたび飛翔すると、全く別種の恐ろしい昆虫と見分けがつかなくなるのだ。その恐るべき昆虫とは、杜氏の幼心に恐怖の種子を植え付けていったアシナガバチである。
たとえば、飛び立つ前のタケトラカミキリをタケトラカミキリと認識していたとする。それでも飛翔したソイツが近寄ってくると、手が出せなくなるどころか、その場を逃れるしか出来ない。多分、ハチの毒同様、人間の意識にまで深く「この形状、色彩は危険」という信号が作動するようなパスが出来てしまうのだろう。
実は自然界にハチに似たデザインを持つ昆虫は数多い。ウシアブの類の模様がそうだし、凶悪な肉食昆虫のトンボまで捕食してしまうムシヒキアブみたいなとても強い昆虫までもがハチに似ている。おそらく、ハチに似ていることが種を効率的に継承することに役立って来たのであって、何もムシの知恵で似せているワケでは決してない。その中でもこのタケトラカミキリの物真似芸は出色と言える。
野球なるスポーツはあまり好まないが、優れたピッチャーは大概ウィニング・ショットなる決め球を持つ。直球のタイミングで打とうとするスッと外に逃げる高速スライダー、突然視界から消えるフォーク・ボール、ナックル・ボール・・・。スプリット・フィンガードだのチェンジアップだのバリエーションに限りはないようだ。で、多分、打者の馬鹿ではないだろうから、経験で「次はアレが来るだろう」くらいは見当がついているのだろう。でも優秀な投手にかかると、「わかっているのに打てない」という結果になることが多い。
タケトラカミキリの飛翔は、頭に一直線に向かってくるのを思わず避けたら、大きく変化してストライクゾーンに曲がり落ちている魔球にも似ているように感じる。違うところは三振を喫しても、この昆虫のそういった生態を好もしく感じることだ。
誰ですか? スナックの可愛い子に会いたくて、毎日のように通って店の売上に貢献しているオレも、「わかっているのに打てない魔球の餌食だ」などと言っている人。そンなことは四〇年前に青島幸男が詞にして、植木等(クレイジー・キャッツ)が唄っている。経験に学ばぬ人は、やはり自業自得でしかない。
(Kさん、ごめんなさい)
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