

世の中には一目見ただけで有無を言わさずたちどころに心を奪われるようなものがある。風景、建物、芸術、人、花、昆虫、魚、・・・etc. 人はその正体がよく理解できないものだから、「華がある」などという曖昧な表現で、自分を魅了したものを誤魔化してしまう。
昆虫の中にはどうしてこういう色の組み合わせや造形が自然にもたらされたのだろうかと訝らざるを得ないようなものも多い。日本のカナブンやハナムグリにもメタリックな質感を備えたものが多く、なかなか美しいが、外国には全身これ金属で出来ているとしか思えないようなコガネムシもいる。しかもご丁寧に金銀二種類揃っている。ラムネ菓子についている子供の玩具(食玩というらしいが、日本語とは認め難い)
虫の色彩が美しいのは警戒色であることが多いことは確かである。警戒色は「食べると不味いゾ、毒だゾ」という生物が発する信号と説明されることが多い。間違いではないが、それは正確ではない。口にした捕食性の動物がそのために酷い目に遭い、その体験が経験から本能へと発展するのだと考えられる。ということは、犠牲となる個体あっての警戒色なのだ。そして、派手な色や柄を持った個体の生存率はそうでないものより格段と高くなり、遺伝子を次の世代へ継承する可能性も高くなる。その種の中で派手な色柄の形質は代を重ねるごとに濃くなってゆく。これが美しい昆虫がより美しく磨かれてゆくメカニズムであろう。逆に生活圏の土や樹木と似た地味な色彩の昆虫がますまず地味になって、背景色と親和してゆく保護色のメカニズムも同様であろう。
そこに動物自体のインテリジェンスはないが、自然という大きな流れがフィルタとなって紡いでゆく知性に似たものがある。それを「昆虫の生きる知恵」と人間が呼ぶのは勝手だが。
タマムシを生まれて初めて目にしたのは図鑑に親しんだ小学校低学年の頃だったろうか。図鑑で知っていたのか実際に見たのが早いか、微妙な時期である。とにかくタマげた記憶がある。シャレにもなっていないが、あのような虹が虫の身体に再現されたとしか思えないデザインがこの世に、しかも自然のものに存在するのが驚異だった。タマムシの造形も流線型で洗練されたものだ。コメツキムシがやはり似た体型を持つが、タマムシの方が遥かに大型であるし、あの紋様の奇抜さから圧倒的に堂々として見える。もっともコメツキムシには、外敵に襲われると仮死状態を装うだけではなく、引っくり返すと胸と腹の反り返しを利用して背面ジャンプして起き上がるという他に真似できないユニークな技があるが。
当然、玉虫厨子のエピソードにも感興をかき立てられた。何百何千枚もの美しい羽が合わさって作られた厨子はどれほどの美しさなのか。実物がどうあれ、そのエピソード自体が物語るものは、小学生にとってもロマンであり、それだけでドラマツルギーとして成り立ち得るものだった。中学の修学旅行で法隆寺を訪れた際に目にした実物は、想像通りむしろみすぼらしいものであったが、そこに潜むロマンは色褪せない。私は生まれて初めて見たタマムシを一度掴まえてから、放してやった時の、初夏の高い太陽に向かって飛んでゆく羽の輝きを鮮やかに記憶している。
「生まれついての華がある」というのは、タマムシに象徴される圧倒的な絢爛さを指して言うのであろう。
ところが、そうではないが魅力的なものも、この世にはたくさんある。教室の隅で大人しくしており、普段は少しも目立たない女の子と、何かの機会で接するようになった時、思ってもみなかった魅力に気づいて恋するようになることは、大概の男が経験していると思う。それまで気づいていなかっただけで、その魅力は初めから光り輝いて見えた教室のアイドルに少しも劣ってはいなかったりする。いや寧ろ自分で輝きを見出した子の方が、みんなのアイドルよりも光ってみえることに、男の子は気づく。それが一般的な男の子の成長というものだ。
俗な喩えだが、必ずしも見てくれを売り物にはしていない女性歌手が唄っている楽曲がヒットするにつれてどんどんきれいになってゆくことがある。人はこれを見られることによって本人の意識が磨かれてゆくためなどと説明したりする。そうかもしれないが、それだけではない気がする。ヒットにつれて露出度が増し、観る側が彼女を目にする機会を多く持つことによって、本人の本質に近い部分を窺うようになることが支配的であると思う。少年の「教室の隅の可憐な花症候群」と同じ現象である。
タマムシの一種にウバタマムシがいる。渇色を基調にした地味なタマムシだ。普通のタマムシと比べると最初は美しさの面では比較にならない気がする。杜氏もタマムシを見たのとそう遠くない日に初めてウバタマムシにも出遭っている。そしてあまりパッとした昆虫ではないと感じた。いや、タマムシの絢爛さを既に見知ってしまっているから、薄汚いタマムシだとしか思わなかった。要は子供だったのだ。
ところが、ウバタマムシを手にとってよく見ると、意外なほどに美しいことに気づかされる。タマムシの紋様は虹のような原色の幅を持った筋が走っているものだが、ウバタマムシのそれはもっと細かく、凹凸感を伴うものだ。字の褐色とは濃度が異なる褐色の紋様で筋というよりは精細な彫刻刀で丁寧に刻まれた印象なのだ。タマムシのように大胆に何の意匠も凝らさずに引かれた筋も力強さを感じさせるが、ウバタマムシの繊細な紋様にも繊細な陶芸にも似た味わいがある。そしてよく見ると、褐色にしか見えなかった筋がキラキラ輝いていることに気づかされる。決して金ピカなのではない。ちょうど未だ錆びていない十円硬貨が銅色の光を放っているのに似ている。決して真新しい銅貨ではなく、出回って数ヶ月、一年以内の適度につや消しされ深みを増した輝きといえる。
「何だ、ウバタマムシもきれいじゃン」 それが当時の率直な感想だった。そしてそれはより頻繁にウバタマムシを観察するうちに、タマムシにはない魅力として強く認識されるに至った。それが杜氏にとって、一見地味なものにえもいわれぬ魅力を発見した最初の体験だったと記憶している。
何でもない常緑樹の濃い緑が陽光に輝き、穏やかな東京湾の最も狭まった海域を大小の船が行き交う観音崎の風景。そこに何十年も住んでいる杜氏には当たり前の光景だが、そこにも美しさは見出すことができる。小学校の校歌に折りこまれるような凡庸なものに過ぎなくても、美は美である。人間とて同じかもしれない。
運動会の俊足スター少年でなくとも、陸上競技では色々な才能を発揮できる種目があり、その少年が競技を愛している限り競技場はいつか競技の成功を祝福してくれる時を用意する。オール5でスポーツ万能の神童ではなくとも、人それぞれの異なった能力が活かされる場はあるはずだ。その人に悪条件を克服する意志の強さと向上心さえあれば。悲しいことにそうはならないケースの方が多いかもしれないが、せめて杜氏が指導する陸上競技の場に集まってくる少年少女には、各々の輝きを見出すことのお手伝いを心掛けることにしている。少なくとも小中学生への競技普及活動は、強化目的でも未来のスター選別の場でもない。
小学校三年生から四年間、スクールに通っているのに一向に速くならない子がいた。いや、それは強化としての観点からしか子供達の成長を捉えられない人種の見解で、速くならないワケではなかった。それは他に比べて目立たなかっただけで、記録は確実に進歩していた。何より集合するときはいつも列の先頭にいて、私達の話に真剣に耳を傾けていた。その子は中学へ進むといきなり学年別の二〇〇メートルで、スクール同期で小学生時代全国大会へ出場した子と肩を並べて上位に入った。やがて棒高跳を始めた彼は、全日本中学選手権で入賞して表彰台に昇った。高校時代はやや不運だったが、そのことに倦むことなく大学でも強豪校へ進学し、ついに杜氏が競技していた頃は国内超一流の証であった五メートルクリアを、昨シーズン大学一年生十九歳で実現している。随分身体も大きくなって、逞しく成長しているのだろう。「未来のスター早期選別の場」だったら、彼のような人材を育てることはできない。また、彼が自分の能力を発揮する場を自分から切り拓くことをしなかったら、その成績は望めなかっただろう。
今でも、その子が列の先頭からこちらを見ているキラキラした瞳の光を思い出すことが出来る。そこには決してタマムシの「華」はなかった。だが、ウバタマムシの輝きを見ることが出来た。それぞれのウバタマムシの光を大切にしてあげようと思う。無論、杜氏自身のそれも含めて。
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