タマムシ

光あってこその影

 杜氏が小学生の頃、通学の途中で厚みのあるガラスの欠片を拾った。縁が尖った空飛ぶ円盤の環のようなものが欠けた一部で、縁の部分は三角形になっていた。これを通してものを見ると、皆虹色に縁取られた光景になった。プリズムのような機能だ。魔法の眼鏡のようで大切にしていたが、いつの間にかなくしてしまった。今でも、あれの正体は一体何で、どうして私が偶然に手にしたのか、どうしてなくしてしまったのか、不思議に思うことがある。

 デリケートな問題に対する議員の答弁などを、玉虫色などと言う。解釈によってはどうとでも取れるような言葉で、立場の違う複数の糾弾者を交わすテクニックである。タマムシの身体が、見る角度によって様々な色に見えることから来ている。タマムシは別段相手を煙に巻くためにそういう色をしているワケではない。とんだ濡れ衣である。タマムシは玉虫と綴られるが、本来宝玉に準えた命名であり、珠と呼んだ方が相応しいかもしれない。

 日本固有種なので、ヤマトタマムシとも呼ばれる。日本にとっても誇りに思ってもいい美麗昆虫の代表格だ。これほど美しく目立つ上に普通種であるのに、その気にならない限り捕らえることすら出来ない昆虫も珍しい。それはおそらく、この昆虫の生き方に関わっているのかもしれない。幼虫の食糧は朽ち木である。成虫は枯れた木の切り株を見つけて産卵する。孵化した幼虫は切り株にトンネルを穿って周囲の朽ち木を食べて成長する。その在り方はカミキリムシにも似ている。ただしカミキリムシは朽ち木ではなく、生木に巣くう種の方が多いので大概は害虫とされる。だがタマムシは既にその生を終えた植物を食う。細長い芋虫になるところもカミキリムシと似ている。あれだけの大型(40mm前後)の昆虫となるのだから、幼虫の期間は一年では利かない。成虫になるまでには三年を要するという。穿ったトンネルの長さは20cmにも及ぶらしい。こうして羽化したタマムシは6月〜8月の盛夏、成虫として生活する。

 タマムシのタマムシたる由縁である体色だが、実は緑の地色が着いているだけなのだという。なるほど日陰で休んでいるタマムシは写真に撮ると濃い緑色一色に写っていたりする。あの緑、紫、赤をメタリックに輝かせる艶やかさは光あってのものなのだ。タマムシの身体には緑色の地の上に幾重にも透明な膜が層を成している。これが光を受けると偏光現象によって金属光沢を放ちつつ、紫や赤などに見えてしまう。構造色と呼ばれるものらしい。CDなどの光媒体の記憶面の様子を想像してみるとわかりやすいかもしれない。見る角度、光が当たる角度によって色が変わって見えることに気付くだろう。

 タマムシは暑い夏の日の日盛りを、殊更に身体の美しさを誇るように飛ぶことが多い。その様は正に空飛ぶ虹である。さぞかし、鳥などの外敵から目立ち補食される危険が大きいかと思いきや、そうでもないらしい。都心でゴミ袋を漁ることで、某文学者崩れの国士気取り(別名都知事)から目の仇にされているカラスの前に、普通のゴミ袋と構造色に輝くようになる塗料を塗った袋を置いたところ、構造色の袋には見向きもしなかったという。また小鳥を飼っている鳥かごに構造色の水の容器を入れたところ、やはりそこから水を飲むことはなかったらしい。鳥は虹色に輝く、タマムシのような色のものを本能的に避けるようだ。

 これらの実験は、日本テレビで日曜の早朝にオン・エアしている科学情報番組「所さんの目がテン」でやっているのを見た。この番組は通常の科学者が思いつかないような、一見気が狂ったような非常識な実験を手間暇かけて見せてくれる貴重な番組である。この番組を見るたびに、「早起きは三文の得」という言葉を思い出す。

 また、日盛りの空を下から見上げると、直射日光が虹色の光彩を伴ってまばゆく映ることがある。タマムシの飛ぶ盛夏の空なら尚更のことだ。美しく目立つのに見つけにくい。この答えの一部がまばゆい空の輝きにあるのかもしれない。

 保護色とも警戒色とも言い切れない独特の護身方法である。

 このタマムシ、羽化後は一ヶ月ほど生きるらしい。人間は三年の幼虫期間と比較して、儚いと感じるかもしれないが、一ヶ月生きるというのは、有名なセミは無論、水分以外何も摂らないと言われるカゲロウ、脆弱な翅を持つチョウ、ガなどと比較すれば寧ろ長い。しかも、タマムシはその口吻の構造からして、羽化してから栄養分を摂取するとは考えにくいというのだ。つまり幼虫時代に培った身体を活かして、一ヶ月何も食べないまま活動し、交尾して産卵するのだ。物の本にはニレ、ケヤキなどの葉(枯葉ではなく生きた葉)を食べると書いていたりするが、そもそも咀嚼能力がないらしい。飼育している人も少なくないが、やはり死ぬまで餌は食べないという。これもまた驚異的なことである。

 タマムシの身体は厚みも充分にあり、充実していて大きい。鞘翅目の多くの昆虫(カブトムシ、クワガタムシなど)同様、飛ぶに際してはとても不器用らしい。固い前翅がいかにも邪魔そうにバタバタと飛び上がり、まるで体当たりでもするように目的地に激突するように降りるとか。そういう飛び方をすれば労力を要するはずなのに、ものを食べないらしい。

 この日盛りの飛翔は、異性を惹きつける品評会でもあるらしい。大概の美麗昆虫は雄の方が美しく、雌はまったく違う種であるかのような形態を採る。雄は雌に対するディスプレイに趣向を凝らしているように見える。ところがタマムシは雄も雌も全く同じ色をしており、あの美しさが生殖相手を惹きつけるためにあるのではないことを思わせる。だが、死んだタマムシをタマムシが数多く繁殖している場所に置くと寄ってくるらしい。構造色の輝きが生殖のサインとなっていると考えることができる。そしてよく飛ぶのは雌より雄の方であるらしい。

 多くの昆虫が夜行性であるのに対して、タマムシは典型的な昼行性である。夜はニレやケヤキの木陰や幹に掴まってじっとしている。カブトムシやクワガタムシのような樹上生活者の肢の先ががっちりとした鈎爪になっているが、タマムシでは吸盤になっている。だから鉛直に立てられたガラス面のようなものにも平気で歩き回ることができる。夜休むときに、吸盤が有効に機能するのであろう。そういうときに悪戯して触れてみると、吸盤を離して下に落ち、肢を拝むように畳んで擬死をしてみせる。

 同じように美しい翅を以てディスプレイを行うチョウが昼行性であるように、タマムシも光なくしては活動できない昆虫なのだろう。だから隠れている日陰では見つけにくいし、夜ともなればホタルのように自分から身を輝かせるようなことなどしない。そして安全な昼の暑いさなか、天敵である鳥達の目を眩ませながら活発に活動する。タマムシにとって光は自らを生殖相手に認知させる道具であると同時に敵を欺く武器であり、闇も美しい姿をその中に紛れ込ませるための煙幕である。だが、その美しさを愛でる人間にとっては、光あってのタマムシ。闇の中に身を潜めているタマムシは全く闇の中に一体化して存在を消してしまう。日盛りに身体を輝かせる華やかな側面と対照的に食糧をいっさい摂らないつましさ。だから殊更に目立つこともない。光の下で初めてその存在が意味を持つ。実存主義を地で行っているような昆虫である。
 都心でタマムシの姿を見ることが減っているという。人間は自然を保護すると言いつつ、木を育てることはする。劣悪な環境から木が枯れないように手を尽くす。しかし、自然には光もあれば影もある。木が枯れることとて、自然なことだ。朽木がなければタマムシも育たない。保護ばかりが自然を保つことではないのだ。

 杜氏が拾ったガラスを通じて見ていた世界は虹色に縁取られていたが、もしかすると偏光現象を通さなくとも輝いていたのかもしれない。いや、光が当たらずとも影の中で輝きを抑制している自然の営みを、杜氏は心の目で見ることができていたような気がする。ガラスの欠片など不要だったのかもしれない。だが、今の杜氏の視界に映るものの殆どが、虹色に縁取られた輝きなど発していない。

 どうやら亡くしたものは、ガラスの欠片だけではないらしい。



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