テングチョウ
何に怪奇を見るか?
ジャパニーズ・ホラーがハリウッドでブームを巻き起こしているという。アメリカの映画界はイマジネーションに欠けるのか強引なのかは知らないが、海外で評価の高い映画があると、そのままで鑑賞するよりは、自国向けにリメイクしてしまう傾向が強い。古くは「七人の侍」が「荒野の七人」に焼き直しされた。記憶に新しいところでは、リュック・ベッソン監督の「ニキータ」が、メイド・イン・U.S.A.ではピーター・フォンダの娘のブリジッド・フォンダ主演の「アサシン」という身も蓋もない映画になっている。プロットはどこからどこまでもそっくりだが・・・。(但し、ブリジッド・フォンダはさすがにジェーン・フォンダの姪だけあって、「ニキータ」のアンヌ・バリローよりはカワイイ)
なぜか何かのはずみで日本のホラーが注目を浴び、リメイクされた作品も予想外の興行成績を収めているらしいのだ。怖い怪談は日本のものにとどめを刺すと思っている。本当に怖い怪談、つまり出来のいい怪談映画はスクリーンを直視できないほど怖い。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるが、枯れ尾花を青天白日の下で確認した後だからそう言えるのであって、闇夜の風に靡いている枯れ尾花など最高に怖い。そこに何が潜んでいるのかが計り知れない。日本の怪談の真骨頂は、何もないところにこそ恐怖が無限に拡大することにある。
米国作品でも、「エイリアン」(第一作)などは、なかなか恐怖の全容が画面に映されることがなく、凄惨な場面はあっても、それはエイリアンの残した形跡に過ぎなかったりして、日本人の抱く恐怖感にかなり肉薄していた印象が強い。有名なギーガーの原画などは絵に過ぎず、また最後の方にヒロイン、リプリーが対峙するその再現物などハリボテくんでしかない。だが、終盤までのチラリズムに徹した描写は秀逸だ。
スティーヴン・キングの一連のシリーズでも、「怖いのは人間の心」という一貫したテーマがあり、恐怖は形を取らないままで主人公達に迫ってくる。映画化されたキング作品には壮絶な失敗作も数多いが、その多くは恐怖を即物的な可視化物に置き換えてしまったものである。
ところが米国人の恐怖の根源には別のものがあるらしい。宗教観である。「エクソシスト」の悪魔憑きの少女が汚物を吐いたり、ブードゥー教の間抜け呪いの人形が指人形そのものの動きで追ってくるような映像がとても背徳的で恐怖に値するものであるらしい。日本人にとっては汚かったり、間が抜けていたりするだけなのに。
ヒットしているジャパニーズ・ホラーの上映中に日本人が客席で観ていると、米国人の反応にカルチャー・ショックを覚えるという。日本人の感覚では椅子にしがみついてしまうほど、怖い場面で、アメリカ人達は何と笑うのだという。日本人なら決して笑うどころではないシーンで、何度も同じような反応が繰り返されるらしい。どうも、未知なる空間に何か正体不明な邪なものが潜んでいるという、恐怖の本質が理解されているとは思えない。
海、山、空、湖沼などの未知の自然に恐怖は満ちている。それが各々妖怪という姿を取っている。姿が形式化した瞬間、その姿が如何におどろおどろしいものであっても恐怖は軽減される。米国式とは逆の作用がそこにはある。だから、妖怪には怨霊の怖さや凄みがない。ユーモラスですらあるのは、ナチュラル・フィアを笑って済まそうとする心の働きだろうか。
湖沼の恐怖、つまりは水難事故の象徴が河童なら、山の災害担当は天狗だろうか。なぜか人間に極めて近い形、しかも宗教者、修験者の姿をしている。超人的な能力の持ち主であり、知識が豊富である点が特徴的である。ときには源義経のように天狗から教育を施された人物もいる。明治維新前夜には勤皇の志士を支援する立場で都合よく大量殺人を請け負ってもくれた。
神に近いとも考えられる。天狗の原型が猿田彦大神であるとも言われる。異形の神だ。赤ら顔で大男、鼻が高いなどの特徴から連想するのは、アジア人ではなくコーカサス人種であり、日本古来の神とは異なるし、天孫降臨してきた朝鮮半島の神とも違う気がする。天孫降臨の際に猿田彦大神に邇邇芸命を案内させたのは、かつては日本が大陸と陸続きで、コーカサス人種とも天孫降臨に先立って交流があったことを示すのだろうか。赤鬼、青鬼も同じような存在であることを思わせる。
とにかく単なる妖怪というよりは、高い能力を持っており、反面どこかに欠陥があったために徳を評価される立場からは遠ざかっている。天狗は文字通りに解釈すると、狗である。狐の属性を持たされているとのことだ。その一方で鳶や烏などの鳥の属性も有する。烏天狗の鼻など図で見ると高く張り出した鼻ではなく、尖って突き出た嘴である。キマイラの雰囲気もある。高い知識を誇る割には、彦一や吉四六に頓知比べで負けたりもする。これも畏敬の念を表す複雑な民衆の心の働きなのだろうか。
「鼻が高い」ことから、過信家のことを一般に天狗などと呼ぶ。大概は悪口である。「小天狗」などと呼ばれる人物は、若くして才能を認められながら、人格が伴わないことから人望を得られない人が多い。今のプロ野球YGの監督などがその典型である。一方で、大いなる自負心と才覚から増長してしまった人物は大天狗などと呼ばれ、これもまた傍迷惑である。後鳥羽上皇、後醍醐天皇、足利義満などがそう呼ばれた形跡を残している。太平記の太平は天下泰平の泰平ではなく、「あンたの気ままのオカゲで皆迷惑」という意味合いの「気まま」を示しているのだと言う説もある。こういった天狗は山にひっそりこもって、人間離れした博識を持ちながら隠遁している天狗の在り方とは随分かけ離れているような気がする。
昆虫の行為を妖怪の仕業と見なすことを人間はしてきたかもしれない。水木しげるの紹介で有名な「あずきあらい」は、チャタテムシの立てる音をその正体もわからないまま、妖怪に見立てたものであるらしい。だが、逆に姿形が人間にとって快くないからといって、生物自体を悪魔に見立てるような行為を東洋人は取らない。蜘蛛ですら朝蜘蛛は吉兆とされるし、蛇は神話の世界では大概神が姿を変える高貴な生物である。
テングチョウはその独特な外見を天狗に準えられた鱗翅目昆虫である。世界に分布しているらしいが、その種は十種類足らずにしかならないという。日本にはテングチョウ一種しかいない。その在り方はタテハチョウに似る。チョウ屋なる人々には失笑を買うだけであろうが、杜氏は長いことテングチョウがタテハの一種だと考えていた。翅の裏地は濃い褐色で地味である。タテハの一族であるジャノメチョウと見違うほどである。翅の表にしても、褐色のに地にオレンジというよりは柿の実色に近い紋様は華やかというよりは渋みを感じさせる。成虫で越冬することも、代表的ないくつかのタテハチョウと共通するものがある。テングチョウが裏地を見せて地面に止まってしまうと、保護色として機能し、人間には容易に見つけにくいが、タテハチョウのように翅を開いたまま止まっていることも多い。
系統的には化石に見られるような原始的な構造を持っているらしく、分類上、近縁種がなく独立した科を成す。決してタテハチョウの近縁ではないらしい。頭部から天狗の鼻のように前方へ突き出ているのは無論鼻ではなく、下唇ひげ(パルピ)と呼ばれるものらしい。ただ、一見してその名前の由来がわかってしまうほど、特徴的な頭部をしている。開帳は48mm。中型である。食樹はエノキとこれもオーソドックスである。
決して珍しいチョウではなく、都心にも見られるが、注意深くしていないと目にすることは出来ない。前述の通り、保護色であるし、警戒心も強い方である。決して天狗の隠れ蓑を着用しているワケではないが、お目にかかると一応感動が伴うくらいにはありがたみがある。飛翔は他のチョウのようにフワフワユラユラした不安定さがなく、直線的である。飛翔が巧みなのだが、長く飛ぶことを好まず、短時間で止まる。だが止まるのは概して地面なので簡単に地面に紛れてしまう。
エノキにつく幼虫は、鮮やかな緑色か褐色がかったイモムシで、背中の中央に細く黄色の線がある。四対の腹足が発達しており、それで木の枝をしっかり捉えて、身体を反らせて威嚇ポーズを取ることもあるが、アケビコノハ、シャチホコガほど顕著なものでもない。威嚇が無効と悟ると、容易に木から落ちて意表を衝いて見せる。だが、糸を木に絡めてから落ちるので、その命綱を辿って再び元の場所へ戻ってくる。ガの類では糸を使って、あたかも空を飛ぶように移動する種はさほど珍しくはないが、チョウではテングチョウだけがこの方法を採るらしい。原始的な身体の構造と何か関係があるのだろうか。食欲は大変に旺盛であるらしく、ときにエノキを丸裸にしてしまうらしい。群生することが多いのも、その原因であろう。ただ、あまり害虫として目の仇にされていないのは、食樹がエノキなどのニレ科植物に限定されているからであろう。
天狗の名を持ちながら、そのエキセントリックな形質は受け継いでおらず、なかなか奥ゆかしい印象のチョウである。それでいて、さりげなく特徴的であり、東洋的な美徳を感じさせる。西洋的なおどろおどろしさよりは、見えないことで存在を仄めかすジャパニーズ・ホラーの趣きだ。だが、ご本家の天狗様のように他愛ない悪さを仕掛けてくることなど決してない。こういった飄々としたところが、太古から今まで生存競争を生き抜いてきたそこはかとない要因となってきたのだろう。明瞭に指摘できるポイントを好む傾向にある欧米人には理解し難いものなのかもしれない。
同様の理由で、今起きつつあるジャパニーズ・ホラーの怖さが、果たしてアメリカ人に本当に理解できるのか、心配である。小泉八雲が心惹かれたように、日本の怪談はおそらく世界に類を見ぬほどにせつなく、美しく、それがゆえに恐ろしい。アメリカ人の物量主義に踏みにじられ、手篭めにされてすぐに飽きられるには惜しい文化である。もっとも、ブームが去ったら去ったで、やはりアメリカ人の感受性ごときには手篭めにし切れなかったということになるのであろうが。
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