

人間は本能が壊れている動物だとも言われる。「××は身体にいい」「○○は△△に効く」といった健康オタク系のバラエティ番組の何と氾濫していることか。やれココアのポリフェノールがどうだの、腐りかけたバナナが何だの・・・。それを唱えている人物を教祖か何かのように持ち上げる。足の裏が汚いと指摘されて、法外な値で二束三文の壺などを押しつけられる人種と変わりがない。情報の送り手側も人の不安をかき立てたり、射倖心を煽ったりで、あざといこと夥しい。
人間はこの世界のターミナル・アニマルである。力が特別強いわけでも、足が格段に早いワケでもない。ただ、道具を得ることにより力に優る相手を凌駕することができた。そして道具のために本来生物として果たすべき役割を忘れている。ターミナル・アニマルとは何のターミナルなのか? 食物連鎖の終点であり、始点である。微生物がプランクトンに食べられ、プランクトンが魚に食べられ、・・・・。そして最終的に最強の生物に辿り着く。最強の生物も死から無縁ではなく、死骸を野に晒して土に還る。土に返すのがバクテリアなどの微生物だ。ところが、文明国の人間は死骸を野に晒さない。日本などは人が死ぬと火葬にしてしまうし、欧米でも土中深く埋めてしまう。この一事を取っても、人間が食物連鎖の環を完全に結んで再び微生物に五体を還元していないことがわかる。
道具の進歩は人間を雑食性に変えた。類人猿を見ると基本的に草食獣であることがわかる。本来霊長類は草食であったのだろう。だが、武器の登場は人間を狩猟に駆り立てた。農耕民族さえ、食物の保存、貯蔵技術を覚え、動物の肉を口にするようになる。
文明社会の環境下で、人間は健康を志向する。そして草食に走ることを「菜食主義」などと呼ぶ。「ヘルシー」なのだそうだ。確かにその辺をほっつき歩いていた鶏、豚、羊、牛などを食するより生臭い印象は薄い。しかし、忘れてはならないのは「菜食主義者」が口にする植物も生物であるということだ。他の生物の生命を奪って生きていることにおいては、肉食も草食も変わりがない。
テントウムシは考え得る最高の造形を持つ昆虫ではないだろうか。大きな草の葉に弾かれてその上を踊る球形の水滴を中心を僅かにずらせてスライスした形状。背中はギリギリに保たれた表面張力であくまでも滑らかに充実しているように見える。背の紋様もまたシンプルでセンシブルだ。ナナホシテントウなどは皆同じ紋様を持っている種であるが、テントウムシ(ナミテントウ)は同じ種でも様々なヴァリェーションを持つ。一応、黒にワンポイントの赤の個体が最も多いが、そこから生まれてくる次の世代がその紋様を必ず受け継ぐ訳でもない。
「あッ、虫が転んだ!」「テントウムシだろう。ムシしなさい」という古典的なギャグは、友人のウシちゃん(投てきの居心地参照)が言ったのだろうか。それとも杜氏だっただろうか。
人間にとっての愛らしさの点で、ナナホシテントウ、ナミテントウが群を抜いており、テントウムシと言えばこの二種が代表的という印象が強い。ところが肉食であるこの二種よりも、草食昆虫としての他のテントウムシの方が圧倒的に種類が多い。肉食の二種は幼虫の時代から貪るという表現が相応しいほどアリマキを食する。そのアリサマは獰猛とも思える。しかし、人間はたとえばニジュウヤホシテントウやオオニジュウヤホシテントウの方を凶悪な昆虫として認識している。この背に二八の斑紋を持つテントウムシはナス科の作物を好み、放置すると葉脈だけを残して葉を全て平らげてしまうほどの威力を発揮する。人間に喩えれば、前者はグルメな健啖家で、後者はヘルシーなヴェジタリアンであるのに、扱いは天と地ほどに違う。健康を気遣わないナナホシテントウ、ナミテントウは可憐とされ、ニジュウヤホシテントウ、オオニジュウヤホシテントウは蛇蝎の如く嫌われる。
どう考えても不公平だ。ニジュウヤホシテントウはくすんだオレンジの地に黒褐色の斑紋を持つ。ナナホシテントウは地が鮮やかな赤だが、デザインは似ており、さほどの差は感じられない。
アリマキはアント・カウ、アリの雌牛と呼ばれ、広い範囲で植物の樹液を吸い、園芸家に嫌われる。大量に発生して樹勢をそいでしまうことも多い。樹液はアリマキの体内で甘い体液となり、尻から分泌されるそれがアリを惹きつける。アリは甘い液を自分達にもたらすアリマキをそのまま殺してしまうことはなく、生きた状態で飼育するかのような働きかけをする。アリマキを食糧とする昆虫は多く、テントウムシ以外にもクサカゲロウの幼虫などもいる。そのまま食べてもアリが享受している味が得られることに変わりはないので牢。何しろ、木の若い枝に大量にいるのが常だ。飼育するようなまどろっこしい真似をする必要は感じられない。それらアリマキの天敵に対して、アリは敵対し追い払うことで日頃の恩恵に報いる。因みにアリは巣での他の昆虫を飼育する傾向があり、アント・カウと呼ばれる昆虫はアリマキだけではない。アリにとって同じような作用をもたらすあるシジミチョウの幼虫がアリの巣に住んでいることは珍しくない。シジミチョウは恩知らずなヤツで、宿と身の安全を保証してくれるアリが大切に育てている幼虫を襲って食べてしまう。単にアリマキを貪るだけのテントウムシよりシジミチョウの方が余程、悪逆非道である。
肉食獣は猛獣と呼ばれるように凶悪なイメージを人間に持たされている。草食獣にとってライオン、ハイエナなどの肉食獣は脅威でしかないというのが常識であろう。だが、違った面もあると思う。草食獣は群を成すのが常だ。そして逃げ足が速い。それが生命線でもある。ライオンなどが掴まえるのは襲撃を逃れる群の最後尾の一頭となる。草食獣の群には必ず弱い個体がいる。年老いて群の足手まといとなったり、伝染性の病気を群全体に広めるリスクを持つ。肉食獣の襲撃はそれらの弱い個体を淘汰することによって、群全体の経営を安定させる効果を結果として生んでいる。人道的な見地からは犠牲を払って保つ集団の安寧など許し難いことかもしれない。だが、ヒューマニズムも自然の摂理にはないものであり、それを遵守する人間も本能が壊れている動物なのだ。いずれにせよ、結果として肉食獣の襲撃は草食獣のためにもなっている。
無尽蔵に群れているように見えるアリマキだって、数が増え過ぎれば食糧を充分に確保できなくなる。アリの庇護もテントウムシらの大量虐殺も、双方とも種としてのアリマキにとってはプラスに作用しているように思える。
余談だが、ハイエナがライオンの余した腐肉をあさる卑しい動物であるというのは俗説に過ぎず、集団での狩猟を戦略的に展開する優れたハンターであるらしい。寧ろ単独で主に雌が狩りを行うライオンよりスマートな動物であるそうだ。ライオンの方がハイエナの狩った獲物を個対個の圧倒的な体格差を利して奪っているのを、ハイエナが遠巻きにして取り返す機会を窺っている図が、「腐肉をあさる卑しいハイエナ」という誤ったイメージを作ってしまったらしい。卑しいのはライオンの方だとのこと。
同じテントウムシなのに肉食と草食のものに別れてしまった理由はわからない。ただ、その理由が確実に存在しそれが自然の摂理に添うものであることだけは断言できる。そこに植生を荒らすアリマキを退治するから益虫で、作物に害を及ぼすから害虫などと言う皮相な価値観を持ち込むのは愚かだ。ましてや、植物を食糧とするから穏便で肉食だから獰猛などとも言えない。どちらも殺生には変わりがない。敢えて言えば、どちらも生命力が旺盛なのだ。
旬というものがある。その季節においしく頂ける動植物と言い換えることも出来る。冬に根菜を取って毒素を体内に貯め、春に木の芽で生命の息吹を味わい、夏に消化吸収のいいものを食し、秋に豊かな実りを享受する。このパターンが生物としての人間には最も適した自然な食生活なのであろう。旬のものを食していれば、TV番組の裏技など知らずとも健康に生きていけるように出来ているハズなのだ。それを導くナビゲータが舌、つまり味覚なのだろう。時期や個々の体質に適したものを、舌はおいしいと感じる。味覚もまた自然の呼び声に忠実であるべきだ。鰻は実のところ、真夏が旬なのではないという。稀代の才人だった平賀源内が商才も発揮して(山ッ気を出して)、本来別の季節(秋?)が旬である鰻を江戸の町に推奨したのだという。それが当たり今日まで土用の丑の日の習慣として定着したようだ。このような商工業の都合で、旬はねじ曲げられて来た。冷凍、レトルトなどの食品保存技術が今日では旬の消滅に一役買っている。
菜食主義者がヘルシーで肉食主義が身を滅ぼすなどとは言えない。双方の舌の呼び声が招いた傾向であるのなら。ただ、「ヘルシー」のキーワードに惹かれた不自然な好みだった時、かえってリスクは菜食主義者に襲いかかるだろう。
昔は「人間どこへ行ってもお天道さんと米の飯は着いてくる」と言われたものだ。食糧が自由に口に出来、太陽エネルギーの恩恵を享受出来ることに感謝しなければならないだろう。そうではない国も少なくないのであるから。せめてお天道さんの名を冠しているテントウムシが肉食であろうと草食であろうと目くじらを立ててはいけない。