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出場者の射幸心を弄び、視聴者の気を持たせるという、誰もが持っている人間の浅ましさを食い物にしているクイズ番組があって、杜氏はそンなもの観たくはないのだが、家人が観ていたので先日、夕飯がてら観るとはなしに観ていた。Final
answer?という司会者の下品な物言いが流行語になった、アレだ。一千万円間近の三問を、杜氏はたまたま即答出来た。だが、家で観ているから出来るのであって、もし出場していても、途中のタチの悪い引っ掛け問題に躓くのがオチであろう。
その最後の問題が『イソップ童話の「アリとキリギリス」の原題は?』というヤツで、杜氏がこのHPの何かの記事に随分前に正解を示している。無論「アリとセミ」である。イソップの寓意は決してアリの勤勉さを推奨することではなかった。セミは芸術家の象徴であり、野たれ死んでゆく運命にある。一方で民衆であるアリはその死に対して、冷淡というより無関心そのものである。芸術家であるイソップは自分達をセミに擬えて自重すると共に、蓄財に明け暮れてそれ以外のものを一顧だにしない民衆を嘲笑している。イソップは何らかの事情で奴隷に身を落とした人物であり、自分を酷使する階層を直接はそうとわからないような表現で嘲弄しているのだ。しぶといセミである。
それはそれとして、欧米人は東洋人と違い、虫の音に風雅を覚えないという。右脳を中心にモノを感じていると、セミやコオロギ、キリギリスの鳴き音など雑音にしか聞こえないらしい。昨今、右脳開拓が注目を浴びているが、何ごとも極端に走ると良くないことが起きる。自己改革セミナーには警戒が必要である。風流を解さないようになってまで、右脳を啓発したくはない。これも以前にどこかで触れた話題で、使い古しになってしまい、恐縮である。
豪州を旅行した際に、避暑に出た。クリスマスから正月のことで、杜氏は避寒に出かけたのだが、当地に住んでいる友人は居住地パースの大変な暑さをしのぐために近隣の観光地へ出かけることになり、それに同行したのだ。ご存知の通り、豪州の内陸は殆ど砂漠地帯で、そこを「ハイウェイ」と称する舗装されていない道が通っている。四輪駆動車でしか走れない。一時間走っても対向車が一台もすれ違わないこともある。昼食は道端に車を停めて、僅かに拡がっている乾燥に強い植物の生えた草原で、キャンピング・セットを拡げ、サンドウィッチやおにぎりを食べたものだった。初期の「マッドマックス」シリーズの光景を思い浮かべてくれればいい。その昼食中に、草原から見慣れた形状だが、どこか違和感がある昆虫が飛び出してきて、杜氏の脚に止まった。セミである。日本のハゴロモに近い形状だったが、大きさはセミに近く、確かによく見るとセミ以外の何ものでもなかった。
「ケッ、ケッ、ケッ」
セミはそうとしか表現できないような、情緒もヘッタクレもない鳴き音を残して、再び草原へ消えていった。人間が情緒を解さない国では、セミも左脳に訴えることのない鳴き音しか出さないのだろうかと感じた。不思議なことである。だが杜氏は同時に、日本に古くから棲むあるセミの種を即座に連想していた。チッチゼミである。
日本の夏はセミに始まりセミに終わる印象がある。ハルゼミというのもいるが、この際、考えないことにする。ニイニイゼミの音をその年初めて聞けば梅雨明けの近さを感じ、ヒグラシに夕涼みの気分に誘われる。アブラゼミ、ミンミンゼミには盛夏の暑苦しさを、ツクツクホウシが鳴き始めると、夏の終わりを感じさせる。これらのセミは人家に近い樹木の環境が適していると見え、人も身近に鳴き音を感じることが出来る。カブトムシなどもそうだが、何らかの理由で人間の作った環境が、これらの一般的なセミにも好都合に作用しているに違いない。
「ミンミン」「ニイニイ」と同じ擬声語であるが、「チッチ」には全く別の語感が付き纏う。どこか無機的であるのだ。多分、右脳で感じられる語感なのだろう。チッチと聞いて想起されるのは、みつはしちかこ氏の漫画「チッチとサリー」である。女流漫画家は自身の投影図を作品に登場させるケースが多い。さくらももこ氏の「まる子」ちゃんは情けないほど普通で日常感覚にあふれているし、高橋留美子氏の「らんま」は、女の子であるときも男の子であるときも気恥ずかしいほど自賛的である。「おじゃる丸」のウスイサチコ(「薄い幸」子?)など、痛々しいほど自虐的である。それらに対して、みつはし氏のチッチには、まる子の普通もらんまの颯爽もウスイサチコのカリカチュアライズされた自虐もなく、ただひたすら情けないくせに、どこか自賛的である。さほど、「小さな恋の物語」の読者ではないのだが、あれだけのロング・セラーともなれば、目には付く。作者は「小さな恋」などとは思っていないに違いない。そこが正にチッチゼミを想起させる。一言で言えば、独り善がり。
チッチゼミは他のメジャーなセミと違って、やや人里離れた場所で繁殖する。セミの特徴として、その羽化後の活動期間の短さが挙げられるが、チッチゼミはニイニイゼミが鳴き始める頃から成虫の活動が観測され、ツクツクホウシが鳴かなくなっても延々と活動を続ける。実に11月まで成虫の活動は続く。まさか一個体が五ヶ月も生き続けるワケではあるまいが、一個体の羽化から交尾、産卵を経て死に至る期間が一週間ということはあるまい。成虫として与えられた期間も、他のセミよりはかなり長いことが窺われる。だから、ニイニイゼミ以下のセミのように、羽化後ひっきりなしに鳴いて雌を誘引する必要もなく、チッチゼミの鳴き音は益々人の耳に届く可能性が低くなるのかもしれない。堅実な生き方なのかもしれない。だが、イソップがそこに見出したような、芸術家の自己表現への希求(実は生殖機会への切実な叫びだったりする)が見られない。
「弁慶と小町は馬鹿だ なあ嬶ぁ」という川柳がある。弁慶は架空の人物であるが、弁慶と小野小町と言えば、日本人のイメージでは「男の中の男」「女の中の女」の象徴である。その二人が自らのセックス・アピールを生涯有効に利用する機会がなかったという川柳だ。生涯不犯を毘沙門に誓ったという上杉謙信が歯軋りをして悔しがりそうな作品である。いずれにせよ、男女のスーパースターを数少ないが致命的な弱点で揶揄している点が姑息である。これだから大衆はイソップに狭量で悋気なアリだと指弾されるのだ。そして、チッチゼミはセミでありながら寧ろアリの側にいるかのようである。
セミの雄が鳴くのは、生殖を遂げる雌へのアピールであって、人間の右脳に響こうが左脳に働きかけようが、どうでもいいことだ。だが、日本の人家近くに鳴くセミはまるで人に聞かせるかのように様々な情緒を投げかけてくる。砂漠に覆われた草原で、人など滅多に立ち寄らない環境下に生きる豪州のセミも、山地で鳴くチッチゼミも、「カッカッカッ」「チッチ」とにべもない。人間の知ったことではないが、後者に可愛げを感じないのも人情ではある。
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