

ものには境界がある。大学の頃の合宿は中央線から小海線への乗換駅として有名な小淵沢駅に近い信濃境に位置する富士見高原で行われた。信濃境とは信濃との境を示し、実態は甲斐である。主体は「それが当然」であるから省略され、隠れている。戦国時代に武田氏が「侵略すること火の如し」で甲州から信州を平らげたから、関東の人間には信州も甲州も似たイメージだが、当事者にとっては冗談ではないと考えることだろう。信州人は同じ信州でも、長野、諏訪、松本などの主要な土地同士で自分達が信州の中心であると言い張って譲らない。武田など単なるインヴェーダーだと思っている。みやげ物ひとつ取っても、信濃なら蕎麦、味噌、野沢菜などの漬物、果物など意外と豊富だが、甲斐だと甲府のブドウを除けばほうとうというあまり美味とはいえない麺が浮かぶぐらいである。
合宿のみやげにほうとうを買ってしまい、後で自分が難儀した憶えがある。
信濃境はやはり甲州だった。
昆虫だと誤解されている節足動物は多い。クモ、ムカデ、ゲジ(ゲジゲジ)、サソリ、フナムシ、ダンゴムシ、etc. これらには翅もなければ、頭部胸部腹部の3パートなら成っているワケでもなし、第一六本足ではない。ただ、確かにその大半が虫として認識できるから、まぎらわしいことはまぎらわしい。ナンキンムシ、ノミが昆虫なのに、ダニやツツガムシは違うなどといわれても、一般の人にとっては分類云々より、これらの被害から逃れることの方が重要な問題である。
トビムシという微小な昆虫がいる。1〜2mm程度しかない。人はこの虫をよく目にしているハズなのに、認識していない。特に珍しいものでもなく、群れで暮らす習性があることから、個体数としては相当多いのだが、見過ごされてしまうことが多い。ここでも紛らわしい種がいる。ハマトビムシである。海水浴に行くと、当時は波打ち際近くの砂浜をほじくってハマトビムシが慌ててピョンピョン跳ねながら逃げる姿を楽しんだものだ。ハマトビムシにしてみれば迷惑な話だったろう。このハマトビムシにしたところで2〜5mm程度でとても小さい。また浜にいるトビムシは全部ハマトビムシなので、一々ハマをつけて呼ぶことはしない。単にトビムシと呼ばれる。だが、陸のトビムシとは全く異なった種であり、寧ろエビ、カニに近い甲殻類である。そういえばハマトビムシも大量に砂に隠れていたが、目を向けるには子供だけだったような気がする。
トビムシは林の枯葉を引っくり返してみると必ずそこに隠れていた。見つかると必ず逃げるのだが、翅など持っていない。キノコなどに隠れていることもある。腹部の裏側に備わっている跳躍器という器官を用いて、微小な身体とは思えない距離を跳ぶ。跳躍器を腹に打ちつけることにより、強力な反作用を得ているのだろう。身体の小ささ、軽さと相まって、トビムシは翅を持っているに等しい移動手段を手にしている。昆虫としての成立要件とは、二対の翅の存在、頭部、胸部、腹部の節、六本足であることを上述したが、これは微妙な問題でもある。無翅目という分類もあることだから、翅の存在は決定的要因ではない。頭、胸、腹部の存在も概ね正しいのだが、そうも言い切れないところがある。やはり確実なのは、成虫の姿で肢が六本あるか否かである。おそらくトビムシを昆虫であると判断した人はさぞ迷った末に結論を下したと思われる。トビムシが昆虫と他の節足動物との境界に位置していることは確かだろう。
雨上がりの水溜りの表面に、ごみか埃のようなものが浮いていることがある。良く見るとごみにしてきれいだし、水面を移動している。ひとつだけではなく、随分たくさんいたりする。アメンボより確実に微小である。これがトビムシである。
微小な生物を食べているようで、意外にも肉食なのだが、何しろ小さいので獰猛な印象は皆無だ。自分達もより大きな生物に食われることになる。鳥などでトビムシばかりを食べているものもあるらしい。何しろ簡単に捉えることができるし、数量が期待できる。また、トビムシを好んで捕獲したり、売買する人達もいるが、それは蛙や爬虫類をペットとして扱っている人種であり、大切なのはトビムシではなく、ペットの方であるらしい。また、最大の敵はこういったトビムシにとって巨大な捕食者達ではなく、意外にも同じ身体のスケールに過ぎないダニであるらしい。ペット業者が餌としてトビムシを育成する際の最大のタブーはダニを発生させないことであるらしい。同じスケールであるだけに取り逃がす可能性も少ないのだろう。トビムシは人間に有害なバクテリアも食べてしまうので、益虫と言えないこともないのだが、ダニを呼び寄せることから害虫とされてしまう。自分自身、何ら人間にとっての悪さをするワケでもないのに、気の毒な話である。と同時に人間の身勝手がここでも存分に発揮されている。
ムラサキトビムシはトビムシの中でも最も多く見かける種であるように思える。何色かと言われれば紫なのだが、色合いは濃く、黒ずんで見える。水溜りに多く群を成しているのは、この種なのだが、ちょっと見ただけでは真っ黒い煤が浮いているようにしか感じられない。だが動きは明らかに無生物のそれではなく、虫であることは数秒で判別できる。体長は1.2mm程度。トビムシとしては平均的なのかもしれないが、微小で言い切れてしまう大きさである。
多様な種類があり、人間の目にはつかないにせよ、数多く繁殖しているトビムシは、おそらくは捕食者にとっては人間が認識しているよりも遥かに重要な種である。チョウ屋だの甲虫屋だの、屋号を名乗る昆虫愛好家達には間違っても興味を持たれることはなく、その存在すら無視されているのかもしれない。だが、トビムシは明らかにこの世に存在し、しかも繁栄を遂げている。界面に属しているに過ぎない種なのかも知れないが、こういったものに目を向けてみることが、自然界を知るということなのではあるまいか?
ほうとうも食べてみなければ、それがどういうものなのかわからない。
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