ヤノトガリハナバチ
飛ぶことを能くするものの宿命
人間は空を飛ぶものに憧れ、歌や物語に夢を託す。宮崎駿氏作品の共通するモティーフが飛行であることは言うまでもない。だが、世にある生物で飛行が可能なものは意外に少ない。鳥類、昆虫類の殆どとトビウオ、哺乳類ではモモンガとムササビとコウモリ、それだけだ。しかもモモンガとムササビは飛行というよりも効率のいい落下に過ぎないかもしれない。
飛ぶ性質が顕著な昆虫に、英米人はFlyという名詞そのものを与えている。単なる飛がハエ、竜飛がトンボ、凝脂飛がチョウ。甲虫のように重そうに飛んだり、バッタのように短距離しか飛ばないものにはFlyはつかない。飛翔の速さ、力強さを突き詰めたものがトンボであろうが、状況の変化への即応や機動性の面で完成度が高いのはハチであるように思える。だが、ハチにもFlyの名は与えられていない。
飛行に限らず、生物が便利で他との差別化要因となる機能を得たとき、進化という場はその生物にどういったヴェクトルを与えるだろうか。その機能を活用して極力効率的な方法を採ろうとするに違いない。それは言い換えれば横着な選択を強いるということだ。上空から他の昆虫の生活を俯瞰していた原始的なハチは、次世代への遺伝子継承という大きな課題に対して、まず自分の種にとってのメリットが大きな生活史を持つ昆虫に寄生する方向を辿り始めたのではあるまいか。そのために産卵管が発達する。自在に卵を寄生主に産みつける機能性から始まり、相手を生きたまま眠らせる麻酔針となり、やがては敵を倒す武器となっていったのではあるまいか。
寄生という一見浅ましい習性こそ、飛行を自在に操ることで得られたものではないかと感じる。多くの人がアゲハを飼育した際に、サナギまで育てておきながら、いざ羽化という段階で、サナギの胴体の小さな穴からハチが抜け出し、肝心のアゲハはがらんどうに食い尽くされているのを見たことがあるだろう。アゲハヒメバチの仕業である。殆どありとあらゆる鱗翅目昆虫の幼虫が、寄生性の昆虫の被害を被っており、その中でもハチがかなり比率を占めている。無論、寄生性のハチの寄生主は鱗翅目には留まらない。また、カリウドバチと呼ばれるハチも、獲物を幼虫専用の食糧として捕らえるが、麻酔で動きを止めるに留め命は奪わないという意味からすれば、寄生を一歩進めた展開形だと解釈できる。寄生主が生きたままの寄生では、寄生主と運命共同体となる。寄生されたものが命を落とせば、寄生するものも滅びる。そのリスクはかなり高い。だから、安全な場所さえ確保できれば、生きながら眠る餌を貪っていた方が安全であるのは自明だ。これも種同士の関係をマクロで見れば寄生と見なせるのではあるまいか。
そのうち、狩猟に用いる産卵管が多くの昆虫にとって差別化要因として機能し始める。針が脅威となった種がアシナガバチ、スズメバチであり、最早獲物を生かしながら幼虫が育つという形態がこれらの強大化したハチには不要となったと考えられる。これらの種では、獲物となった他の昆虫は即座にミンチにされて食糧となる。こうなると最早寄生でも保存食でもなくなる。一方で土に穴を穿ち、コガネムシの幼虫などに寄生していたアナバチなどの種は、地下で営巣するメリットを貪っているうちに、翅も針としての産卵管も不要となり、社会制度だけを発展させてアリへと進化する方向を採ったようにも思えてくる。
社会を営む昆虫として高等な印象がある膜翅目昆虫であるが、全ては飛行による俯瞰の視点から生まれた寄生から出発しているのではないかと感じられる。その究極の進化系が、繁殖の集団飛行以外、全く飛行を必要としないアリであるのが不思議である。
寄生というのは効率を求める習性であるから、効率的な繁殖を実践している寄生主を選ぶのもものの道理である。セイボウは大まかに括ってスズメバチと同類だが、やはりスズメバチに近い泥で営巣し獲物を幼虫と共に巣の中に保存するスズバチに寄生する。寄生というあざとい生き方は同類であろうと容赦なく犠牲にすることになる。
ハキリバチは前述したように、バラなどの葉を道具にして幼虫の揺籃を加工する。だが幼虫の食糧は揺籃に用いた葉ではなく、そこに仕込まれた花粉団子である。ハキリバチ科の昆虫にトガリハナバチという属がある。形態も成虫の生態もハキリバチの特徴を備えている。ところが、このトガリハナバチの一族はハキリバチの最も顕著な特徴である営巣をしない。ではどうするのか? 他のハキリバチの巣の揺籃、つまりは葉を切り取ったり木のヤニを集めて丁寧に拵えた労作の花粉団子に自分で産卵してしまうのだ。つまりは、身体そのものに寄生するワケではなく、営巣する労働を他の昆虫にやらせる。この性質を労働寄生性と呼ぶらしい。ハキリバチは産卵後、幼虫を養うことはないが、労働を奪うことからすると、カッコー、ホトトギスなどの托卵に似ていなくもない。この際にハキリバチはトガリハナバチから攻撃を受けるらしいから、せっかくの労作に産卵することはなく、トガリハナバチがそれを独占することになるのだろう。元々が近似種なのだから、トガリハナバチとしては文字通り労せずして次世代の育成環境を確保することになる。効率的といえば、これほど効率的なやり方はない。だが、人間の通念からすれば随分罰当たりな習性である。他には海外の食糞性のコガネムシに同じように労作の糞玉を奪う種がいるらしい。
このように、通り一遍の寄生に留まらず、寄生の在り方も多様化し、同種のものまでターゲットになるということは、原始的なハチにおける寄生という性質がいかに多用され有効に機能してきたかを物語っているように感じる。トガリハナバチ属は日本でも十種を数えるというから、局所の属としては繁栄、多様化していると言える。ヤノトガリハナバチはその中でも体長15mmと大型で判別し易く、普通種として見られる代表格である。
命名の由来はよくわからない。尖った形状のハナバチのようなのか、尖った鼻を持つハチなのか。ハナバチはマルハナバチに象徴されるように丸っこい体型が支配的だが、その腹部を円錐形に尖らせるとトガリハナバチに似るかもしれないので、前者が由来なのかもしれない。ヤノというのも不明だが、命名者の固有名詞なのかもしれない。
成虫は普通に花を訪れ、花蜜、花粉を食糧としている。それを見る限りでは、他のハキリバチと何ら変わることもなく、平和な草食昆虫そのものであるように目に映る。
加藤登紀子や中島みゆきが詠嘆するように、人間は確かに空を飛べない。空を飛ぶことに焦がれるだけだ。だが、人間には想像力がある。幾何学を駆使して広域を仮想的に俯瞰することが出来る。他人が自分の傍らでコツコツ努力してきた労働を客観的に空から見下ろすが如くイメージすることも可能だ。そしてそれを横取りすることも。創作の世界での剽窃、盗作の類も後を絶たないし、産業界でも設計製造における模倣は横行し、それを抑止するために企業は防衛特許を取得する。解釈の問題であるが、記憶に新しい青色LEDの裁判なども類似ケースが頻発する。人間関係においても他人の恋人を易々と奪うことを殆ど動物の習性のように身につけている者までいる。杜氏には不幸にして、空間位相幾何学(トポロジィ)のセンスは持ち合わせない。地を這うアリのごとく、虫瞰的な視界からコツコツと生産に携わる以外に生きる術を持たない。
トガリハナバチ一族が自然から粛清を受けることなく繁栄しているように、鳥瞰型横取り人間達も確かに存在しておりその利を貪っている。それはそれでセンス、能力に対する正当な報いなのだろうか。もしドラえもんがいて、虫瞰的なヴィジョンしか持ちえぬのび太(杜氏達)が「横取りスコープ」みたいなツールを渡されたとしても、結局のび太にはそれを使いこなせず、因果応報的な教訓で終わるのだろうなと思ってしまう。
空から世界を見下ろそうなンて、法外な野望は抱いてはいけないのだろう。野望は野暮につながると、誰かに言われたことがあったっけ。
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