ツクツクホウシ

何と鳴いているのかなど・・


 卓球少女の福原愛クンがオリンピックに出場した。「早熟の天才」と呼ばれる人達の多くが、ただの人に成長してしまう中で、異例の出来事かもしれない。だが、全く年端のいかない時分からTVを賑わせているせいか、報道は皆、童女扱い。ひどいものになると幼女扱いである。もっとも、本人も勝利祈願に参拝した神宮を「ネツタ神宮」などと言っているのだから、自業自得のところがある。熱田神宮のご利益は大丈夫なのだろうか? 杜氏の場合、母親があいちゃんなので、「愛ちゃん」などとは言いにくい。で、愛クン。変かな?
 その愛クン。オリンピックでの試合で、得点を挙げるたびに奇声を発していた。「さー」とも「しゃー」とも「つぁー」とも聞こえた。いやそれのどれにも当てはまらないようにも聞こえた。本人は帰国後、同級生からそのことを訊かれて、「それだけは訊かないで」と言っているそうだ。深遠な秘密でもあるのだろうか。数年前、仕事で韓国出身の人がいた。車という名だ。皆、「ちゃさん」と呼んでいた。だが、本人が電話で名乗る名は、どう聞いても「つぁあ」としか聞こえない。間違えて「しゃ君」と呼んでいる人もいた。これも日本語読みを考えると、一概に間違いとも決め付けられない。また英語で考えると「かあさん」(Carさん)でも通りそうだ。どれも間違いではなさそうだ。韓国では母音が日本より多いらしいから、どれも当てはまらないとも言える。杜氏も「つぁあさん」と呼ぶのも失礼な気がして、「ちゃさん」と呼んでいた。
 愛クンの掛け声も、実は真相はどれでもないのではなかろうか。杜氏もハンマーを投げるときには室伏君らと同じように、一人前に雄叫びを挙げていた。あの雄叫び、実は意図して出るものではない。ターンが加速して、持っている力では持ちこたえきれないほどの遠心力が振切りで生じた場合に、身体を制限している脳のリミッターを外して普段以上の力を出すための副産物なのだ。だから、「いい投てき」の場合にしか声は出ない。必ずしもいい記録でない投てきで叫ぶ人もいるが、それは「いい投てき」でありたいと思ってわざと出すもので、よく聴いてみると不自然なのがわかる。自然に声が出る場合、自分でも何と叫んでいるのかはわからない。「えい」「やぁ」「たぁ」といった単純な音でないのは確かで、濁音交じりとなるようだ。高校の時分は、真夏の練習で「カルピス!」とか「スイカ!」とか「赤マムシドリンク!」などと叫びながら、訪れている先輩の差し入れを催促していた記憶があるが、これはリミッター外しとは無関係である。

 生物の鳴き声を文字で表記するのは困難だ。犬の鳴き声などという簡単な音をとっても、日本では「ワンワン」なのに、英語では「バウワウ」である。コケコッコーをカッカドゥードゥルドゥーと聞くなど不可能だ。ハワイに赴いたとき、やはりニワトリはコケコッコーと鳴いていた。英米人は頭の作りが違うということを実感した。「テッペンカケタカ」とか「ショーチューイッパイグーイ」とか「チョットコイ」とか、人間に都合のいい鳴き声の聞こえ方も数多いが、よく耳を澄ますと、そうは聞こえない。
 ツクツクホウシは、その鳴き音が名前となった種だ。これがありそうでなかなかない命名である。ニイニイゼミがそうだが、ミンミンゼミほど説得力がない。杜氏のような東日本の出身者にはどうしてもツクツクホウシの鳴き音は「ツクツクホウシ」とは聞こえない。以前、マンザイブームというのがあって、関西系のさして面白くないマンザイ師がダミ声で「ツクツクホウシ」と連呼するギャグがあった。強引に笑わせているに過ぎず、感心した芸風ではなかった。第一、「ホウシ」と言う音に違和感があった。それに坊主は嫌いだ。
 ツクツクホウシの「ツクツク」は本来のメッセージのための予備振動であり、「ホウシ」の部分が実際にセミが翅を共鳴させて強調したいパートであるように聞こえる。それも「ホウシ」ではなく「オーシン」と聞こえる。「オーシン」の「ン」は弱く、「オーシ」とでも綴られるべきであろうか。物の本には「オーシ、ツクツク」と鳴くとある。鳴き音は「ツクツク」から始まるが、予備振動である趣きが強く、合いの手のように響く。だから「ツクツク」を前に持ってくる表記にはやはり承服し難いものがある。「オーシ」の頭に作為的に意味のある言葉を引き出すためにHをつけたように思える。これを「取って着けたよう」と呼ぶ。クダンのマンザイ師の芸も不自然だったことを思い出す。
 九州周辺ではこれを「ツクシコイシ」と呼ぶ。「筑紫恋し」である。決して「尽くし小石」ではない。安寿と厨子王か? 気持ちはわかるが、カッカドゥードゥルドゥー並みの理解に苦しむ聴覚である。それでも、そこはかとなく漂う叙情性からすれば、ツクツクホウシよりはマシかもしれない。
 チッチゼミほどではないにせよ、小型のセミである。30mmほどであるからニイニイゼミよりは大きく、ハルゼミと同程度。だが、体型はスリムであるので、横に広く、寸が詰まった感じのニイニイゼミと同じくらいに見えることもある。アブラゼミ。ミンミンゼミを大型、ヒグラシを中型とすると、小回りの利く活動的な種という印象が強い。杜氏の住む地方では、ニイニイゼミ、ヒグラシの順で鳴き始め、そしてアブラゼミとミンミンゼミが登場すると真夏も本番という感がある。「宴酣ではございますが・・」というのは、盛り上がっている宴会のお開きが訪れたときの幹事の常套句である。この酣は盛りよりも少し下り坂に差し掛かりそうな微妙な段階を指す。つまり最盛期ではないのだ。アブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミの登場は真夏ではあるけれど、それが永遠には続かないことを漂わせる「酣」の趣きがある。そして、これら大型のセミの鳴き音が少し沈静化すると、いよいよツクツクホウシの複合音の合唱が表面に出てくる。それは夏にとどめを刺す鎮魂歌となり、九月まで続く。杜氏が俳人なら、ツクツクホウシは秋の季語と認識するだろう。だからツクツクホウシの鳴き音を聞くのは、少し切ない。昼にツクツクホウシの声が支配的になると、朝夕にはコオロギの声が明確に聞こえるようになり、夜ともなると、ブラジルのサンバ・ホィッスルもかくやと思われるアオマツムシが闇を支配し、やがて秋は色を濃くしてゆく。
 夏が大好きな人種にとっては、ツクツクホウシの陽気な鳴き音も哀愁の挽歌として響く。
 杜氏の大学の陸上競技部は関東理工系大会が終わると、活動が一段落する。部員の一人がその解放感を味わうために、久しく断っていたマージャンに興じるために大学近くの雀荘で学科の仲間と卓を囲んでいたという。当時理工系は11月3日開催と決まっている。つまりは冬に近い晩秋のことである。そのとき、雀荘の近くの立ち木から一瞬理解を超えたような音が聞こえてきたらしい。「ツクツクツクツク、オーシ」 それだけで音は途絶えたという。暫くして、四人で大爆笑となったらしい。小春日和に誘われ、来年出てくるはずだったのが早合点で羽化してしまったツクツクホウシだったに違いない。で、本人も間違っていることを自覚して、高らかに鳴くところを一回でやめてしまったという感じだ。確かに巧まざるユーモアが漂うが、季節外れのセミは相手となる異性にも恵まれず、寒さに力尽きるしかなく、限りなく物悲しい。

 セミの鳴き音は彼らが自分達の遺伝子を後の世に継承するための原初的な欲求の歌だ。人間の耳には悠長に聞こえても、そこには生命エネルギーのありったけをこめた爆発があり、刹那に消える美しさがある。ツクツクホウシの冗長にも思える予備振動にも、本来のメッセージを強く響かせるためのエネルギーの蓄積が感じられる。それは単なる音ではなく、音の一部なのかもしれないが、決して言語表現には及ばぬもの、響きなのだ。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」と詠ったとき、「ゴーン」などという直截的な擬声語には到底窺われない深い響きが心に宿る。つまりはセミの鳴き音などを擬声語では到底表せないということは、音と響きの違いゆえなのである。「ツクツクホウシ」よりも「筑紫恋し」の方がマシに思えるのも、カンチガイにせよそこに心の響きが感じられるからに違いない。
 福原愛クンや室伏君がこれから、オリンピック御礼行脚に皆さんの近くのスポットに出没するかもしれない。そのときに、「あれは何と言ってるの?」とか「あの雄叫びを再現してください」などと言ってはいけない。あれはその時にしか醸すことが出来ない彼らの心の響きなのであるから。



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