

ドイツ語、スペイン語、フランス語等の欧州の言語には名詞に性別がある。スペイン語は男性、女性名詞のみの分類に過ぎないが、ドイツ語には中性まで存在する。英語はガサツな言語でそういう区別を持たないが、BabyはHeでもSheでもなく、Itで受ける。未だ性別が判然とはしていないという解釈なのだろうか。
メキシコ・オリンピックの頃、旧ソ連にボローニンという体操選手がいたが、やはり同じ競技をしていたその奥さんの名はボロニナだった。ロシア語は姓にも性別があるのだろうか。そういえば、〜スカとか、〜スカヤとか柔らかい語感で終わる男性名はないような気がする。その男性形は〜スキーで統一されるのだろうか。昔文字がなく、それを輸入するべく航行していた船が難破し、一部の文字が裏返しで伝わってしまったという冗談なのかウソなのかわからないようなエピソードに彩られた言語である。はっきりしたことはわからない。(調べればわかるだろうがその気にならない)
日本語では月は神経質な男性、月読命を思わせるし、外国では男性的である太陽すら、天照大神のように女性である。だから平塚らいてうは「原始女性は太陽であった」と叫ぶことが出来た。尚、欧州の価値観では月の神が女神アルテミス、太陽神が男性のアポロンで性別が逆になっている。姉弟であるのは同じ。ただしアルテミスとアポロンは双子であるが。
犬にも当然雄雌があるが、どうも雌犬を前にしても男性の形質を強く意識してしまう。猫はその逆である。ライオンのように明確に性別による形態の違いがある場合、その限りではないが、男性的な動物(生物)、女性的な動物(生物)というものは存在する。
ツユムシは草食のキリギリスである。獰猛なカヤキリに似ているし、ニッチも同じ草むらだが、非常にスリムな体型で鳴き声も高音域で低音量。人間界では絶滅の危機に瀕している楚々とした乙女を思わせる昆虫である。儚さを象徴する露の名前を持つことも頷ける。無論鳴くのは雄であるが鳴き声も女性的な印象だ。人間は歳を取ると高音域の音を聞き分ける能力が低下する。その意味からすると、ツユムシの鳴き声は聴力検査の発信音のようにも機能する。耳が遠くなった人には聞こえにくい鳴き声である。もっとも虫の音は配偶者の雌へのアピールとテリトリ主張であるから、同じ類にだけに届けば問題がない。
食性、形態、鳴き声、どれを採っても女性的な昆虫である。灯火にもしばしば引き寄せられるが、同じ草食でも気が強く、自分の首を噛みついた相手に残しても顎を離さないクビキリギスや大型のセミまで餌食にするヤブキリなどと較べると、明らかに同種ではあっても全く違う。金髪、耳・鼻・唇ピアスに厚化粧でミニスカ、ルーソクのギャルの中に、古典的な女子高生がタイムスリップして放り込まれたような印象である。無論是非の問題ではなく、金髪、ピアスにはそれなりの必然があるのだろうが。
もっとも、ツユムシの雌は尾に上方へ折れ曲がった鎌のような産卵管を持つので簡単に見分けることが可能だ。
ツユムシの天敵は鳥や両生類やトンボなどではない。ハチである。しかも、ジガバチ、トックリバチといったカリウドバチの一つに数えられるクロアナバチである。カリウドバチの多くが鱗翅目の幼虫、つまりイモムシや蜘蛛を捉えて麻酔を施し、営巣し中に眠らせた生き餌に産卵するのに対して、クロアナバチの類は直翅目、しかもキリギリス類を獲物とする。クビキリギス、クサキリなどもよく狩られるようだが、ツユムシが犠牲になるケースが多い。気性が荒くなく、動きも鈍いせいだろうか。クビキリギスが多く狩られるのは単に数多く繁殖しているからであろう。
ファーブル昆虫記でも、フランスのカリウドバチにツユムシが狩られる場面の描写がある。ファーブルは獲物となってしまうツユムシを「彼女」と表現していたのが印象的だった。実際にその個体が雌だったのかもしれないが、麻酔を打たれてぐったりとしてしまう描写は、その後、生きながら幼虫の食糧とされてしまう残酷な運命を併せて考えると、猟奇的な官能を喚起させた。小学校一年生の子供にである。楚々とした妖精にも準えることができるツユムシを「彼女」と擬人化させた文章で、幼かった杜氏は生涯最初の性的昂奮を覚えたのかもしれない。オタク筋がよく用いる「萌えた」というヤツかもしれないが、個人的にはそういう表現は願い下げである。
クロアナバチのようなジガバチ科のハチは一旦獲物を巣に運んでから、次の獲物を求めて巣を放置することが多い。ここを狙うのがヤドリバエで、隙をついてハチの獲物に産卵してしまう。ハエの方がライフサイクルの回転が速いらしく、ヤドリバエに産卵されたツユムシはハチではなくハエの幼虫に食われてしまう。この場合、ハチの幼虫は育つことができない。クロアナバチは大型のジガバチであり、7mm程度に過ぎないヤドリバエよりも明らかに強大である。単に強大なものが高位に立つのではない自然界の食物連鎖の不思議さを感じる。ツユムシばかりが哀れなのではないのだ。
ツユムシの触角は長い。体長を遙かに越えている。昆虫を好んで被写体とするカメラマン泣かせであるらしい。触角が画像からはみ出して欠けてしまったは、彼らの完璧主義を満たすことができない、かといって、全体が縮小されてしまっても魅力が半減する。
触角の長さがその感度や感知できる刺激からの距離に比例するのなら、か弱い姿でしかないツユムシはより遠くの敵の動向を早い段階で捕捉可能なのかもしれない。だが、反面、ツユムシの動きは緩慢でしかない。臆病だけど逃げ足は遅いといったところか。人間界のケンカは、機先を制する果敢さと逃げ足の速さがモノを言う。ツユムシはどう考えてもケンカが強いとは言えない。
ニートにして控え目、好戦的な性質を持たぬツユムシは、正に草原の妖精であるかのようだ。あまりに無防備で、戦う武器すら持たないこの昆虫が灯火に寄ってくると保護本能を刺激される。だが、この昆虫が依然として草原の中での確乎たる地位を持ち続けているのには、それなりの防衛本能を発揮しているに違いない。うわべの清楚さに見とれて、したたかな本質が見えにくくなるという男性の甘さは、人間の女性に対しても同じなのかもしれない。
せいぜい鼻の下の長さには常に注意を払うことにしよう。
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