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婦女子はよく昆虫を恐れる。確かに脚が六本もあり、大量に群をなして蠢いている姿は美しいとは言えない。いやそれどころか違和感しか感じさせないかもしれない。反面、チョウやタマムシのように象徴的なまでに美しい翅などを持っている昆虫は、女性にも受け容れやすいのかもしれない。杜氏などは、チョウの翅の陰に隠れた大きな複眼で大半を占められた顔つきにこそ不気味さを覚えるのだが・・・。
ただ、明確に不気味な昆虫は世の中に存在する。
不条理の世界ばかりを描いたカフカの代表作に「変身」がある。何の変哲もない小市民のザムザはある朝起きると一匹の巨大な昆虫と化している自分を発見する。このザムザという命名がふるっている。フランス語でどういう語感なのか、はたまたありふれた名前なのかちょっと変わったものなのか見当もつかないが、日本人の価値観に照らしても気味の悪い虫が蠢いているサマが連想される。
やがて家族にも疎まれるようになったザムザは、身体の自由が利かないのと、変身した身体がブヨブヨと柔軟なせいで腹に傷を負い、弱ったところを家族達に退治されてしまう。
杜氏がこの小説のことを思うとき、いつも連想する昆虫がいる。ツチハンミョウである。退化した飛べない翅とその割には地上を歩くのにも適していない太った身体。甲虫にしては稀に柔軟な腹。いかにも毒虫然としており、実際にもカンタリジンという毒を持つ。手に体液が着いた程度だと、数週間の水ぶくれが出来る程度で済むようだが、30mgで人間の致死量に相当する毒であるらしい。ツチハンミョウ数匹分だそうだ。この虫ならば、元は家族ではあっても退治したくなるかもしれない。(実際にはそうではないだろが)
毒虫の常として薬にもなる。漢方薬でツチハンミョウを材料としたものもあったのではないだろうか。それより印象的なのはメキシカン・フライと称される非合法の薬である。メキシコの蠅という意味だが、これがツチハンミョウなのだそうだ。効能は、媚薬である。女性に秘かに投薬すると、鉄の貞操帯を着用したような貞淑な貴婦人も、たちどころに手練れの娼婦もかくやと思われるような淫蕩さに転じるというフレコミだった。「そンな好都合なものがあるモンか」と思いつつ、ハタチそこそこだった杜氏には興味の欠片程度はあった。ただ、ツチハンミョウの姿を知っている以上、そンなものを用いることはおろか、購入する気にもならなかった。
確か彼のマルキ・ド・サド侯爵が茴香などと一緒に、ツチハンミョウを薬品にしたものを拾ってきた娼婦などに投薬して実験をしたらしいが、下痢を引き起こすのがオチだったらしい。メキシカン・フライの効能も知れたものだと思う。少なくともバイアグラには及ぶまい。
ハンミョウの名を冠してはいるものの、地上を俊敏に走り回り、短距離ながらも飛翔して移動することもできるニートな姿とはほど遠い。ガムシもかなり不器用でみっともない昆虫だと感じるが、ツチハンミョウはその域を遙かに越えている。甲虫、鞘翅目に分類されていることが不思議に感じるほど姿形が良くない。杜氏はゴキブリが大の苦手であるが、それに比肩するぐらいの不気味さかもしれない。
産卵間近の雌は、ツチバチの巣を襲い、その穴の中に産卵してハチを食糧として幼虫を養うらしい。ツチバチは日当たりのいい斜面に大きめの竪穴を掘り、中で生活している、おそらくはハチからアリへの進化の過渡期の過程にある昆虫で、その巣穴は安易に見つけることができる。他の昆虫の掘った見つけやすい穴を狙うあたりが、ツチハンミョウという昆虫の本質を物語っているようにも思える。らしいといえばらしい。そもそも動きがツチバチより遅く、幸運にもその恩恵に与って生き延びる者は少ないようだ。それゆえか、ツチハンミョウの産卵は数千個に及ぶらしい。繁殖さえも不器用な方法しか採らない。同じ種類でもマメハンミョウはやはり土中でイナゴの幼虫などを食糧にしているらしい。ツチハンミョウよりは歩留まりが良さそうだが、最近は数がめっきり少なくなり、レッドブックに名を連ねているらしい。絶滅を危惧する気には到底なれないが。
毒虫であるのに、こんなツチハンミョウにも天敵は存在する。ある種の寄生バチはツチハンミョウの幼虫に産卵するらしい。あの毒々しい腹に巣食い、蛹になったツチハンミョウの内部を食い尽くして、腹を敗って出てくるハチはツチハンミョウ以上に不気味なのかも知れない。
庭先にのこのこ出歩いている成虫の姿を、以前はかなり頻繁に見かけた気がする。見かけたからといって捉える気にはならない。毒でかぶれてもつまらない。肉食性の動物達も同じ感覚を持っているのかもしれない。だから緩慢な動きしか出来ないのに、繁殖が可能なのかもしれない。
このように杜氏のような甲虫好きでもいいところを見出しにくいツチハンミョウであるが、この地上に生き残っている以上、生態系の営みの中で何らかの重要な機能を果たしていることは確かである。もしかすると、毒虫や不気味な虫というのは確実に存在して、どのようにトンマな動きしか見せなくても実害を伴う存在であることを、ツチハンミョウは物語っているのかも知れない。
寡聞にして、フランツ・カフカがザムザ氏の変身後の姿のモデルにツチハンミョウを想定していたかどうかは不明である。
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