アブラナ
心浮き立つ春の光景
日本人に好きな花を一つだけ挙げろという質問をしたら、確実にサクラが一位になるだろう。ツツジとかアジサイとかショウブ、ツバキとか、概ね一種類の花を観賞する習慣も少なくないが、その樹の下で宴会にまで発展するのはサクラしかない。非常に近い種類のウメも観賞には耐えられるが、偕楽園に赴く人がほぼ全員宴会の支度をして出かけるとは考えにくい。サクラをベスト・ワンに挙げる人々の割合はどの程度になるのだろうか? 少なくとも過半数は見込めるだろう。バラあたりが遥かに離された二位になるかもしれない。杜氏が一番好きなのはヤマユリだが、ベスト・テンには入らないだろう。
なぜサクラが人に好まれるかといえば、満開を迎える前から華々しく散るからであろう。潔さに喩えるのはどうかと思うが、確かに花びらが吹雪に擬えられるほどに宙を舞う様は壮観ですらある。関東地方では入学式の頃にちょうどサクラの見ごろがやってくる。初々しい装いの新入女子大生の髪に、サクラがひとひら散って、本人が気づかぬまま髪飾りのようにはかなげに春風に揺れている絵柄などは風情がある。実は杜氏がつい先日、たまたま訪れた千鳥ヶ淵辺りで見た光景なのだが。
サクラは人の心を浮き立たせるものがあるが、その感興はどこか物狂おしいものを孕んでいる。中秋の名月は美しいが、人の異常性を喚起するような狂気が感じられる。サクラの開花、散華はそれに似ている。サクラは本来不吉な意味合いを持つ樹である。その根元に人の遺骸が眠っているなどとされる。咲き方の艶やかさ、散り方の激しさが恨みを呑んで死んでいった人間の怨念を想起させるのだろうか。無論、日本中の無数のサクラの樹がリチギに一つずつ死体を地中に抱えているワケではなく、人間の勝手な言いがかりに過ぎないのだが。
サクラの果実がサクランボであるのは自明だが、観賞用として主流であるソメイヨシノは実を結ばない。杜氏が通勤で上る家の近くの坂にもサクラが咲くのだが、葉桜になって間もなく、坂は黒っぽいサクランボで濃い紫に染まる。ソメイヨシノではなく、山桜の遺伝子が色濃い品種なのだろう。それらが空しく通行人の靴底に踏みにじられるのも一種無残な印象だが、端から実をつけないよりはマシかもしれない。
そもそも開花は植物の生殖行為そのものであり、艶かしいのも当然なのだ。あれだけ夥しいセックスの後に、何も残さないというのも異常で、人はそこにも狂的な要因を見出しているのかもしれない。杜氏はサクラの開花に、何か本能的なものを喚起されるのは確かだが、日本人の水準ほど好きではないかもしれない。花見はどこか怖い気がして行く気になれない。少なくとも真夏の海水浴のバーベキューの方が好きである。
杜氏にとって春の到来を感じさせる花はサクラではなく、菜の花である。サクラの薄紅色は、実は春には相応しくない。花粉を媒介する昆虫にとって最も識別し易く、種類も多い黄色い花こそが春を象徴する。それらが地上を覆うように咲く様には、寒さの残る大気を切り裂いて舞い降りる陽光のぬくもりが感じられる。「霞か雲か」よりも「菜の花畑に入り日薄れ」の方に、長い冬が過ぎ去った安堵を覚える。
アブラナはアブラナ科として大きな一族を形成している。ペンペングサ(ナズナ)も菜なら、ダイコン、カブなどの根菜も菜だ。カラシナは種がマスタードにもなるしワサビもアブラナ科ワサビ目である。キャベツ、白菜、青梗菜、小松菜、水菜、京菜は葉や茎が広く食されるし、アブラナ自体、最も身近で安価な食用油に利用される。カリフラワーやブロッコリーも菜っ葉の一種だ。ペンペングサの代表かもしれないシロイヌナズナはゲノム研究に大きな役割を果たしている。サクラ、特に人から愛されるソメイヨシノが何も生産しないのとは対照的である。魚は酒の肴で、酒肴に限定された意味を持つのに対して、菜は主食の穀物以外の食糧の総称ともなっている。古来から日本で最も簡単に入手できる食用植物だったに違いない。一般的な肥料として知られる油粕も、菜種から搾油した後の絞りかすを再利用したものである。
アブラナ自体は、採油用と観賞用のニ系統があるらしく、いずれも外来種である。だが、古くは奈良時代から栽培、利用されていた記録があるらしく、定着後の歴史は古い。ただ油の需要が爆発的に増大したのは、案外新しく、行灯の発明で日本人の生活が夜にシフトし始めた室町時代辺りからだという。卑賤の身から有力な戦国大名にまでのし上がった斉藤道三が、若い頃油売りをしており、硬貨の輪を通して油を容器に移す特技で商売繁盛したという記述が、司馬遼太郎の「国盗り物語」に出てくる。硬貨に少しでも油がついたら、お代は要らないというフレコミで客を惹きつけたとある。司馬遼太郎はさも見てきたようなことを描く名人だから、真偽の程はわからない。だが、この時代から油が人々の日常に欠かせないライフ・ラインとなっていたことは確かだろう。菜種油に代わる石炭、石油などの化石燃料はこの時期未だ見出されてはいない。
花は顕花植物の典型の四枚の花弁がシンプルな十字型を成す形状で、ご承知の通りそれが一株に無数に開く。キリスト教文化圏ではそれを十字架に擬える傾向がある。ひとつひとつの花が無数の種子を実らせるので生産性もいい。だから、採油、鑑賞用に栽培されながら、広まった種がそこかしこに野生化し、至るところで見事な花を咲かせるようになったのだろう。ソメイヨシノがサクラ単独で勝手に咲いて勝手に散ってゆく印象を呈するのに対して、菜の花には早春に呼び醒まされた春型のチョウやハチを引き寄せて生態系を育んでいる趣が強い。
組織を破壊されると、刺激性の強い物質を生成する生態を持ち、昆虫などからの害から自己防衛するシステムを属全体で持っており、それを逆用したのが人間のカラシナやワサビ栽培である。これらは特にその生態が強い。だが、アブラナなどにも軽い毒性はあり、食用とするにはその点に注意する必要がある。ダイコン卸しのことを考えると、わかりやすいかもしれない。ダイコンを卸す角度が横、つまり繊維に沿って卸すほど、ダイコン卸しはまろやかな味になる。逆に辛いダイコン卸しが欲しいなら、縦、つまりダイコンの繊維に直角に卸せば事足りる。ダイコンの繊維を断つように卸すことは、植物の細胞を破壊して自己防衛のための物質を生成させることを示す。最近は蕎麦屋などでワサビの根が一本出てきて、客が好きなように卸して食べさせるシステムを採る店がある。ワサビの利いた汁で蕎麦を楽しみたいのなら、卸金に対してワサビを寝かせてはいけない。ワサビもカラシも基本的には糖分から成っている。細胞を破壊しない限り、砂糖とさして変わりはないのだ。
大豆製品のない食卓が想像しにくいように、アブラナ科植物の恩恵を受けていない食卓も考えにくい。サラダ・オイル、マヨネーズ、ワサビ、洋ガラシ、白菜の漬物、キャベツの千切り、沢庵、ダイコン卸し、etc. さすがは菜の名を冠しているだけのことはある。一般的に食卓に上るかなりの野菜が、アブラナ科で占められていることは確かである。
グラウンド・カヴァーという言葉がある。地を這うか、地を覆うように生える植物を植えて、庭の地面を覆い尽くすような栽培法だ。見渡す限り一面を春の色に塗り替えるアブラナは、人工的な芝生とはまた違った意味で、大規模なグラウンド・カヴァーと言える。松田聖子のヒット曲「赤いスイートピー」のモティーフは、文字通り赤いスイートピーであるが、曲から想起されるイメージは一面の菜の花である。杜氏だけの感覚かもしれないが、あの曲から赤は連想しにくい。松田聖子本人はいざ知らず、呉田軽穂=松任谷由実が描いた健気な少女は菜の花を思わせるのに対して、不安を孕んだ赤を連想させるのは、冷たそうで危険な臭気を漂わせた相手の男の方である。
サクラは夜桜に象徴されるように、闇の中でもあやかしの世界を創出する。人々は薄紅色の乱舞に不安を掻き立てられ、冬の間抑制し続けてきた情念や色情を喚起される。それも春である。逆に菜の花は、朧月夜の微かな光さえぼんやりとした曖昧な塊に集約させる。そこに人々は冬には得られなかった暖かさや安らぎを覚え、眠気すら誘われる。それもまた一方で春である。サクラの渦紅色か、菜の花の黄色か、どちらの春が好もしいかという個人の好みの問題である。で、杜氏は菜の花の方が好きである。
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