ア シ

無関心を装った傍観者達

 人間の文明が水辺に展開してきたことは、社会科で世界四大文明の成り立ちを学ぶ小学生でも知っている。Simcityという行政執行者として街を発展させてゆくゲームがあり、その部隊となる都市の立地には大概海と川が設定されていた。
 ナイルの流れが時に暴走し、文明を破壊する代償に肥沃な土地をもたらしてきたことは有名だが、ある段階を越えると人間は川をむしろコントロールして災害を食い止める方向に走り始める。それは海でも同様で、東京湾岸の神奈川側など、延々と護岸化された海岸線が続き、それが途切れるのは湾の入り口を著しく狭めている観音崎手前の走水である。神奈川側で海を浄化している唯一の干潟は野島だが、元々陸から離れた島であったので、海岸線とは呼びにくい。いつの間にか杜氏達の子供の頃の遊び場であった岩や砂浜の海岸線が、コンクリートの護岸とテトラポットに取って代わっている。
 昔、鶴見川は暴れ川として有名で、川崎に勤めていた父など、台風で大荒れの日には鶴見川を越せばもう家まで電車が止まることはないと安心していたのを憶えている。その鶴見川もNECの事業場がある緑区の鴨居辺り、つまりかなり上流まで護岸工事が進み、氾濫を抑えつけられている。水辺は人間の生活から確実に遠ざかる傾向にある。都市部ではどぶ川さえ側溝の下に隠れている。また湖とは呼べないような小さな湖沼は宅地に追いやられ、水田は全く姿を消してしまったと言っていい。

 アシは淡水の水辺さえあればどこにでも生える植物で、あまりに当然に茂っているので水辺の背景として特に意識されないほど自然である。良し悪しという言葉があるが、アシは悪しに通じる。それを嫌って、語呂合わせから反対語のヨシ(良し)を別名としたのだろうか。杜氏の住む横須賀でも田圃、湖沼、湿地帯がそこかしこにある頃にはアシは、そういった水辺に付き物の植物だった。
 そのせいか、古くからアシは故事や諺に頻繁に登場した。最も有名なのはパスカルの「人間は考える葦である」だろうか。ここでの葦は取るに足らない弱い、普通の存在というニュアンスがある。また「王様の耳はロバの耳」では、床屋が蓄積されたストレスをタイトル通り叫んで解消していた穴の傍らにアシの原があり、風にそよぐ葉の擦過音が「王様の耳はロバの耳」という囁きに変わってしまった。ここでも床屋は傍に生えてはいても存在すら意識できぬほどの存在でしかなかった為、案に相違して噂を広める結果となった。
 後者のイメージはことのほか強い。日本でいえば「壁に耳あり障子に目あり」、中国なら「天知る地知る我知る人知る」の「地」に相当するだろうか。インターネットの普及により個人情報の機密など守りようもない現代において、サイレントマジョリティを想起させるアシの囁きは一種の怪談めいた印象を受ける。ススキの葉のそよぎも同様の印象を人に与えるが、アシの方が根元が水中または泥濘に消えてしまっている分、不気味さは増す。

 実際のアシはイネ科の植物で、乱暴な言い方をしてしまえば、竹と水稲の中間の在り方をしている。概して群生し、丈も高くなるので、他の生物を天敵から守る棲息地を提供する。ヨシキリという鳥など、名前からしてアシの原に恩恵を受けていることがわかる。杜氏が小学生の頃、近所の水田地帯の傍らにアシが群生しており、秋にもなると鴨が無数にそこに潜んでいた。その過密さは銃で無差別にアシの原を撃っても一匹や二匹は仕留められるだろうと思われるほどだった。実際にはそうはいかないだろうが。
 日本の古い戦記物にも鳥が飛び立つのを大軍の伏兵と認識させ、敵の志気を阻喪させたエピソードがある。後三年の役の源義家と富士川の合戦の源頼朝(義経)などがそうだ。英雄の知謀を讃え、敵の卑小さを笑う傾向があるが、アシの持つ無謬性や何が潜んでいるか不明な空間がもたらす恐ろしさを思うと、そういう計略を思いつく方が悪辣に感じられる。
 アシは人間にも身を隠す空間を提供する。無論人工的なものであるが、よしず張りがそうだ。よしずは葦簀と書く。アシのスノコである。夏の海の家などで、日陰などまったくないアポロ的な空間に涼をもたらす貴重な道具だ。季節労働者と揶揄されるチューブが、その名も「夏休み」という曲の冒頭に「よしずの君〜」と言う歌詞を使っていた。よしだたくろうの「旅の宿」の「浴衣の君はすすきのかんざし」の二番煎じ臭いが、開放的な夏の海水浴場に異次元の空間を設けるよしずの存在が、この歌詞には淫靡な印象をもたらしている。よしずの向こうで何が行われているのかは、想像に難くない。やんごとないお方が潜んでいるのは御簾の裡だが、よしずの一種の安っぽさが官能的な味わいを醸している。
 水辺の植物といえばアシと並んでガマも挙げられるが、こちらの方がグッと数も少ないし、特徴的な穂のせいでアシの持つ無謬性がない。因幡の白ウサギを災難から救ったりもするし、柔らかく優しいイメージがある。蒲田という地名や蒲生という人名が示す通り、昔は今より遙かに身近な存在だったに違いない。文明と共存するにはアシよりガマの方が植物としては弱かったのかもしれない。杜氏の自宅の最寄り駅で電車に乗ると車窓からガマの群生している湿地が見えたが、もう何十年も前に駐車場になってしまった。
 アシはガマよりはしぶとく、人間の作った水辺の環境に親和してきたように見える。だが、さすがにコンクリートで地面を固められては、蔓延ることはもう出来ない。

 多分、アシの原の中には確実に幽霊や魑魅魍魎が棲んでいた。それらは人の心の闇に棲む。得体の知れない印象と計り知れない空間を抱えていたアシの原は、それらにとって居心地のいいニッチだったはずだ。文化、文明は人の心の不安なゾーンにまで煌々たる光を当てて、心の闇を圧迫する。多分、それらは水辺が水辺として機能している地方へ逃れたに違いない。それが果たしていいことなのか、悪いことなのかはわからない。
 今は都会だろうと地方だろうと、世界中のありとあらゆる場所で、インターネットに潜む無謬の悪意がざわざわと葉擦れの音を立てている。それを物理現象として耳で捉えることはできない。実際に見聞きできるアシのそよぎの方が格段に質がいいのかもしれない。




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