アヤメ
記憶は脚色される
強烈な記憶にはそのバックグラウンドに存在した景色、音、臭気などの情報もセットとして伴うことが多い。また、それらの付随情報を再認識することにより、強烈な記憶がフラッシュ・バックすることもある。強烈というのはあくまで個人の感覚であり、余人には何の意味も持たなかったりする。
杜氏にとって忘れ得ぬ体験がある。小学校四年生のことだった。それまで住んでいた横須賀北部、つまりは横浜市、逗子市との境界から、横須賀東南部の突端に近い土地へ転居して、ようやくその地に慣れた頃だった。転居した土地は以前住んでいた町よりは未開発で、田圃や林に恵まれていた。放課後辿る家路は、そのままこれらの自然環境に覆われていた。田圃から林に分け入って、竹林になっている短い急勾配を抜けると、湿地に近い草原へと出た。小川に過ぎなかったが清流が流れ、その当時は滅多に市街地へは姿を見せないセキレイ(キセキレイだったと思う)が、小川に突き立った木の枝で尾を上下させている姿を見せていた。丈夫そうなマテバシイなどの照葉樹林の林は湿地を遠巻きにしていたし、すぐ下のモウソウチクも地下茎を伸ばしては来ないようだった。何かが湿地を守っているようにも感じられた。
そこで杜氏が何を見ていたのかは定かに憶えていない。草の根の近くの穴にはザリガニが潜んでいただろうし、主に半翅目の水棲昆虫、ミズカマキリ、タイコウチ、コオイムシなどが跳梁跋扈していたに違いない。だが、杜氏が明確に憶えているのは一種類の生物でしかない。アカガエルである。杜氏はカエルが好きで、絵が苦手だったのに昆虫類以外だったらカエルの絵なら上手く描くことが出来た。今でも物置を引っくり返すと、家庭科の授業で拵えた睡蓮の葉で休むカエルをモチーフにした状差しが出てくると思う。圧倒的な大きさと存在感を持つヒキガエルも、オーソドックスなトノサマガエルも好きだったが、中でも地味ながら魅力的な色合いを機敏そうな造形を持つアカガエルが好きだった。
ある日湿地を歩いていると、足元から淡褐色の量感と躍動感を持つ物体が跳び上がった。明らかに生物のみが持つ反応だった。杜氏の視界は即座に一匹の立派なアカガエルの姿を捉える。反射的にうずくまってアカガエルを捕まえた。だが、アカガエルも自分を捕らえた相手が好意を持っているかどうかなど、感じるはずもない。必至にもがいて杜氏の掌から逃れようとする。杜氏の鼻腔にきな臭いものが一瞬走った。それは愛の拒絶のように感じられた。愛しているものに精一杯気持ちを伝えようとする試みに、相手は嫌悪と拒絶を以てしか応えてくれない。きな臭いものは一瞬にして、脳から筋肉へ信号を送った。拒絶された自分の愛に対して報いを与えなくてはならない。杜氏はアカガエルの両方の後肢先を掴み、地面へと思い切り打ち付けた。弧を描きながら、しなる鞭が地面を打ちつけるようにして全身を強打したカエルは即死はしなかった。白い腹を見せ、四肢を痙攣させながらゆっくりと伸ばしつつ、静かに息絶えていった。その過程に杜氏の全身の血が粟立つような感覚を覚えた。それは性的昂奮に極めて近かった。
更に杜氏は近くに直径10cmほどの穴を見つけた。地の果てに通じていそうに暗い闇を覗かせた深い穴だった。その縁に動かなくなったカエルを置き、充分に重しの機能を果たしそうな石を見つけ、後肢を止めた。他愛なく反り返りながら、カエルは穴の底に頭を向けた宙吊り状態になった。磔刑であった。それが完成する瞬間、杜氏の昂奮は最高潮に達したのを憶えている。ヰタセクスアリス。
非道である。今の杜氏ならきな臭いものを抑制する術を身に着けている。だが、おそらくは十歳の杜氏は自分で考えているほどに大人にはなっていなかったのだろう。翌日もそこを通りかかった。カエルは変わらぬ状態で磔刑に遭っていた。腐敗の兆候も他の動物が死肉を貪った形跡もなかった。だが、いずれそうなることは目に見えていた。サー・ウィリアム・ゴールディングの「蝿の王」を、杜氏は読んではいなかったが、いずれそのような惨状を呈するのは時間の問題だった。突然、電流のように自分のしたことが恐ろしくなった。身震いのように恐怖が裡から湧いてくるのを感じた。杜氏のしたことは残虐な殺戮であり、誰も見ていないにせよ、その事実は覆らない。杜氏はそっと肢を止めていた石を外した。永劫の闇に葬られるように、スロー・モーションでカエルは闇へと吸い込まれていった。既に為してしまった罪を闇に葬ろうとしたのかもしれない。今でもその種の悪夢を見ることがある。なぜかそこにはアヤメの花とショウブの葉の芳香がセットになって出てくる。アヤメの花に囲まれ、自らの行為の一部始終を見られている感じと、穴の周囲に踏みにじられたショウブの葉が散乱し、芳香を放っている記憶。拭っても拭い切れない罪悪感を、アヤメとショウブを見ると好む好まざるとに拘らず喚起されてしまう。
アヤメは文目なのかもしれない。ショウブは菖蒲だ。だが菖蒲はアヤメとも読む。そしてアヤメとショウブとはそれぞれアヤメ科、サトイモ科の全く別の植物である。紛らわしい。アヤメは文目であっても,「殺め」を連想してしまうのは、この体験から導かれているのだろうか。そもそもショウブの葉が足元で芳香を放っているとしたら、アヤメの花が杜氏の行為を見咎めていたのはおかしいことになる。記憶がどこかで歪曲されているのかもしれない。一体、本当にあったのはアヤメだろうか。それともショウブだったのだろうか。余談だがハナショウブ(花菖蒲)はショウブの名がついていても、アヤメ科の植物であり、「いずれがアヤメ、カキツバタ」のカキツバタ(杜若)はアヤメ科の植物である。どれをどう混同してもおかしくない構造だ。
桜の木の下には屍が埋められているという俗説がある。昔からある都市伝説の類に違いない。確かに満開の桜が夜の闇を照らす様子には、華やかさ以外の怖さが感じられる。アヤメの花がいかに艶やかであろうと、杜氏はそこに不吉なものを見てしまう。アヤメの花はただ美しいのではない。妖艶なのだ。妖かしの世界の要素が濃厚に漂っている。パンジーの花を人の顔に似ていると言って嫌う人を知っているが、アヤメの花はそういった単純な造形からの連想を喚起させるワケではない。この花はどこが花弁、つまり真の花びらなのかよくわからない。最も大きな花びらにみえるのは
萼でしかなく、上の方へ垂直に立っているのが花弁なのだそうだ。その間からやはり花弁のように見える雄蘂の桂頭が出ている。花弁と雄蘂は三対を成している。複雑な形状であるのに、どこかすっきりしたデザインなのが不思議だ。垂れ下がった萼(外花被片)には紫と黄色からなる虎紋模様があるのが特徴で、実は文目とはこの網目のような模様のことを指しらしい。どこか宗教的な意味合いを感じさせるような模様でもある。