チョウセンアサガオ
毒々しくもあり、食べられそうでもあり
毒キノコにはベニテングダケのようにいかにも毒々しいものもあれば、食用キノコと殆ど見分けがつかないものがある。どちらが怖いかと言えば、圧倒的に後者であろう。考えてもみて欲しい。毒婦という言葉があるが、いかにも清らかで純粋で健気そうに見える少女が、実はとんでもない毒婦であったりしたら衝撃は大きい。男などバカな生き物であるから、聖人君子のような顔をしていても女性の見た目の清楚さにコロッと騙されたりする。元はっぴいえんどのメンバで作詞家の松本隆氏など、女性のタイプを単純に二元論で扱う悪癖を何度も露呈しているが、そンなに簡単なものではあるまい。「きれいな花には棘がある」など、他人事だからこそシタリ顔でノタまうことが出来るが、実際に痛い目に遭った日には泣くに泣けなかったりするものだ。
毒草、毒虫というものは、あくまでも人間にとって毒かどうかが基準であり、毒草とされているものでもある種の動物、昆虫にとっては食糧として機能したりもする。その毒草を食草とした昆虫が、天敵を寄せ付けない毒を体内に持ったりもする。ジャコウアゲハなどがその例である。また、毒の多くは処理、処方によって薬効も見出せたりする。毒にも薬にもなる、ということだ。
有吉佐和子の代表作に「華岡青洲の妻」がある。今でも、舞台で演じられ、TVドラマ、映画などでリメイクもされている作品だ。麻酔の活用で医学上の大きな功績のあった江戸時代の医師・華岡青洲が、妻と母の献身によって研究を進めたという美談を元に、嫁姑の確執という現代にも通じている卑近なテーマとして扱った傑作である。華岡青洲は歴史上では世界最初の全身麻酔手術を成功させた大変な業績を持つ人物なのであるが、嫁姑の間で悩むややマザコン傾向のエリートとして描かれている。華岡にしてみれば迷惑な話である。基本的にこの小説は作家のイマジネーションの産物でしかなく、完全なフィクションである。
全身麻酔手術の際に用いたのが、猛毒として名高いトリカブトと曼陀羅華と呼ばれていたチョウセンアサガオの混合物であったという。チョウセンアサガオはヒルガオ科のアサガオとは分類上は何ら関係のない植物である。ラッパ状の花が似ていなくもないが、植物としての在り方は全く異なる。チョウセンアサガオはナス科植物であり、そう言われてみれば茎や葉の様子にナスと共通するところが感じられる。全草毒であることがつとに知られている。元々は薬草として輸入されたらしい。曼陀羅華は中国名であることから、中国から入ってきた可能性が高い。原産地は東南アジアで、朝鮮とも関係がないらしい。こうしてみると、チョウセンアサガオというのは虚名とも思える。
現在では華岡が活用したチョウセンアサガオは栽培の困難さから、僅かに薬草園などで栽培されるに留まり、別経路でおそらくは観賞用に輸入されたキダチチョウセンアサガオ、コダチチョウセンアサガオなどがその旺盛な繁殖力から野生化したものが、今はよく目に付く。いかにも毒々しい感じがして、見た目も毒草そのものである。キダチチョウセンアサガオの花などは大輪で豪華な印象もあるのだが、杜氏などは毒草であることが意識にあるので迂闊に触れようとは思わない。花の後に残る果実はイガイガ上の大きなもので、これも真っ当な実だとは決して思えないシロモノだ。だが、チョウセンアサガオによる中毒事故は後を絶たない。
全体としては毒草の印象が濃厚であっても、部分的に食用となる植物にとても似ているのだ。根はゴボウ、つぼみはオクラやシシトウ、花は環境保護用に重要な役割が注目されているアオイ科でハイビスカスに近い食用花でもあるケナフ、葉はモロヘイヤ、種はゴマに似ているのだ。実際には草の汁が目に入るだけで、散瞳、調整障害など引き起こす。
やはり毒草であるノウゼンカズラなどは栽培されていることが殆どで、扱いも広く知られているが、雑草化していることも多いチョウセンアサガオのことを毒草と認識している人が案外少ないのかもしれない。今日、ニュースを見ていたら、チョウセンアサガオを台木にして、ナスを接木して栽培し、収穫したナスを食べて食中毒を起こして胃洗浄を受けて事なきを得たが、昏倒してから回復するまでの意識が吹っ飛んでしまったらしい。記憶障害まで誘発するということだ。それにしても、いくら同属のナス科とはいえ、このような危険な植物をなぜ台木にしてしまったのかがわからない。また、あるケースでは庭の雑草として生えていたチョウセンアサガオを、ゴマだと信じて疑わず、被害に遭ったというにもあった。
杜氏が勤務する神奈川県川崎市高津区では、幹線道路の道端にいかにも栽培種であるかのように、旺盛に繁茂しているのをよく見かける。梅雨後期から盛夏を経て初秋まで、大輪の花が咲くのだが、好みの問題ではあるにせよ、あまり美しい花だとは思えない。先入観のせいだろうか。前述の果実にどこかおどろおどろしい。そもそもキダチチョウセンアサガオの丈は、図鑑などでは1mとあるが、蔓延っている様子を見るに2m、3mと伸びており、不気味な印象に拍車をかけている。
意外なことに多年草ではなく、一年草なのだと言う。だが毎年同じ場所に根が生きていたり、種が散ったりで恒久的に生えることが多い。花は欧米でエンゼル・トランペットなどと言う通称を持つらしい。なるほど、トランペットに似た形状をしているが、「天使の」というのは、いかなる発想からだろうか。これも毒婦、悪女は往々にして清楚な天使の姿をしているものだという暗喩であろうか。事故の多さからみても、騙されている者が少なくないようだ。
中には毒性を知りながら、ケシ類のような酩酊・多幸感作用を期待して口にしてしまう浅慮を、お子様がしてしまうこともあるらしい。非行にも知識は必要なのである。こういった行為には全く同情の余地もない。
植木店などでも種が気軽に売られているようであるが、当の植木屋が有毒であることを知らなかったというテータラクである。身近過ぎて認識が不徹底なのだろう。
多分、かつて人間という種は、他の多くの哺乳類と同じように、食してもいいものと悪いものを本能的に識別していた。仮に悪いものを口にすることがあっても、それに懲りて二度と同じものを摂らない経験則に従って生きていたに違いない。だが人間はいつの日からか、アート(人工)とネイチュア(自然)などという不自然なカテゴライズを設け、自分達と自然界のテリトリを分けてしまった。最早本能は人間に微笑むことはない。知恵の木の実を食べたアダムとイヴがエデンの園から追放になった逸話は、このことを指している。以後、ルソーのように「自然に帰れ」と唱えた人物も出るのは出たが、人々は耳を貸そうとせず、ルソーの意図を変な教条主義のようなものに置き換えてしまった。チョウセンアサガオの数々の事件は、自然界が放った人間へのささやかな刺客に過ぎない。
思いもかけないことで陥穽に陥ることは誰にでも起こりおる。誰にでも自分が無辜ではありえない事情があるかもしれない。そこにつけいる他者の悪意というものは残念ながら存在する。だが、そういったものは不条理なものであると感じられても、自己の行いに帰するべきものである。そういった毒は日常性を装って忍び寄ってくる。どこか普通の植物として野生化しているチョウセンアサガオに似ている。そういったリスクを嗅ぎ分け、的確に忌避する本能は復活しないものなのだろうか。
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