エノコログサ
犬派、猫派というよりも・・・
人間は類型化してモノゴトを考える傾向が強く、しかも身近なものに喩えることを好む。ペットの双璧は犬と猫だが、双方好きというタイプは案外少なく、犬派と猫派に分かれたりする。また、人間の性格を犬と猫に擬えることも多い。反面、カメレオン派、アロワナ派、プレーリー・ドッグ派、ゴライアスオオハナムグリ派などは成立しない。
犬、猫、どちらか好きなどという問答無用な二者択一を押し付けてくる人がいる。だが、杜氏はどちらも好きだし、どちらにも嫌なところがあるとしか答えられない。それにペットが犬、猫に尽きるワケではないし、カメレオンもアロワナもプレーリー・ドッグもゴライアスオオハナムグリも好きだ。だが犬好き、猫好きが嵩じると、人間も含めてどちらかに類型化しないと気が済まないものになるらしい。犬は従順にして忠実、猫は気まぐれで放埓。こンな類型化が成り立つが、野生の犬猫の在り方は少し違っているようにも感じられる。
ジャッカル、ハイエナは狡猾な犬類の代表のように思われており、人間からは卑しい動物とされているが、実は集団による狩猟の名人なのだそうだ。策略によって獲物を仕留めるのはジャッカル、ハイエナの方で、それに便乗したライオンが個別の身体の大きさにモノを言わせて獲物を奪うのだそうだ。死肉を漁るのはライオンの方なのだ。だから、食事中のライオンをハイエナが丸く取り囲んでいるお馴染みの光景も、ライオンの食事が終わるのを待っておこぼれに与るのではなく、本来自分達が捕らえた獲物を取り返す機会を狙っているのだという。ライオンが崇高な存在で、ハイエナ、ジャッカルが卑賤であるなどトンでもない。
エノコログサは一名ネコジャラシである。ネコジャラシと呼んだ方が遥かに実感し易い。だが、その語源は犬ころ草なのだそうだ。拍子抜けするようなネーミングである。確かにその花穂は猫をじゃらすのに適しているが、子犬もじゃれるらしい。ネコジャラシで覚えている人の方が多いだろうから、ちょっと紛らわしい。
実は犬をじゃらすからエノコログサなのではなく、花穂が犬の尾に似ていることからのネーミングであるらしい。英語名のFox grassは狐草の意味だが、これも狐の尾を意識しての名であるとのことだ。考えることは洋の東西を問わず、あまり変わらないものだ。いや、それほどエノコログサが動物の尾を思わせる花穂を持っているということなのだろう。
イネ科の雑草としてはお馴染みのシロモノである。一年草であるが、毎年同じような場所に群生する。稲作がままならない貧しい土地では稗、黍、粟などの雑穀の代用品として村人の糊口を凌ぐ足しになったらしい。元々、これらのイネ科の雑草から品種改良されたのが、稗や粟であるらしい。あンなものが食えるのか、と思わざるを得ないが、もし食用に堪えうるのなら、無尽蔵に取れそうだから重要な栄養源になったに違いない。
花穂が紫のムラサキエノコロ、同じく陽光を受けて金色に輝いて群生する様子が非常に美しいキンエノコロ、都市近郊に多いアキノエノコログサなどの種類があるが、互いに似ており交雑も起こり易いという。ムラサキエノコロなどは、エノコログサのひとつのヴァリエーションとして同じ種として分類されることもあるらしい。
犬と猫、双方の属性を擬せられたエノコログサであるが、白黒ハッキリつけるのが好きな人間からはどう見えるのだろうか。確かに花穂が何に似ているのかを考えると、犬の尾というのは的確なのかもしれない。だが、風に揺れて首を振っている柔軟さやどことなく人を食ったような動きには猫を連想させる。「犬ころ」よりは「ネコジャラシ」に相応しい。
一方であれほどこにでも蔓延しているのに、一年で枯れてしまう淡白さは犬の性格に近いとも言える。犬は多産、安産で知られ、妊婦が岩田帯を締め始めるのも、「戌の日」と決まっている。エノコログサが一年草であるのも、種の定着率が安定しているからであるように思える。この当たりも犬的ではある。
命名の犬ころがエノコロに転じたという意表を衝いた展開は、起源が犬であるにもかかわらず、どこか猫のトリッキーな動きを思わせるところがある。
“Year of the Dragon”はチャイニーズ・マフィアと官憲の抗争を描いたマイケル・チミノの映画だが、辰年と関係があったかどうかは、チミノの映画の常として上映時間がとても長いので、忘れてしまった。ただ、ミッキー・ローク演じる官憲よりも、ジョン・ローンの若きヤクザのリーダの方が遥かに納得できるパーソナリティであったことを覚えている。俳優としても、ロークよりローンの方が、この映画に限ってはいい。敢て言えば、ロークは猫っぽく、ローンは犬っぽい。脱線。
“Year of the Cat”というポップ・ソングをヒットさせたのは、アル・スチュワートだったろうか。これも長い曲だった記憶がある。映画「カサブランカ」の世界を仮想的に旅しているという変な設定だった。歌詞にはボギー(ハンフリー・ボガート)も登場する。「そうだ、今年は猫年だったンだ」というフレーズがオチだった気がする。十二支に猫が入っていないのは、干支の序列を決めるレース開催に際して、ネズミが故意に猫に開催日時、またはレースそのものの存在を告げずに不参加に追い込んだため、というエピソードが残っている。そのくせ、ネズミは優勝候補筆頭の牛の尻尾にしがみつきながらレースを進め、ゴール前で、いきなり牛の前に出てトップになった。子、丑、寅、辰、・・・etc.である。それに怒った猫はいつまでもネズミを目の敵にして追いかけるという因果応報譚だ。
猫年は極東の天空の観念を定義する十二支には存在しない。アル・スチュワートがそこまで東洋の価値観を知った上で、曲を書いたのなら大したものだが、実は寅を猫と見誤ったという説が有力だそうだ。何だか脱力させられる。
このレースで犬はブービー。ブービー・メイカーは猪だ。・・・、申、酉、戌、亥、である。犬も随分序列の低い扱いだが、猫のように選外佳作よりはマシだ。
杜氏は自分が猫に似ているとも犬に似ているとも思わない。猫か犬、どちらが好きかという質問にも明確に応えることが出来ない。猫好きの人々が主張するように、猫が人間に飼いならされない気難しさを持っているのを崇高な精神のゆえだいうのに頷くこともできない。本能的にそういう性質であるのに過ぎないと思う。
だが、杜氏は幼い頃、野良犬を可愛がって遊び相手としていたし、借家住まいだった頃、階下の大家の飼い猫が杜氏の帰宅を見計らって、ドアが開く瞬間に足元から進入するのが楽しかった。野良犬は友達だったし、大家の猫は可愛かった。反面、子供の頃むやみに吠える犬は怖かったし嫌いだった。そこかしこで盛っている猫も浅ましく感じられた。
犬か猫どちらが好きで、どちらが嫌いかなど、つまりは人間の勝手でしかない。どちらもペットしては愛らしいし、嫌なところもある。しかも人間は人間でしかないのだから、性格を犬、猫どちらかに色分けしたがるなど、飼い慣らした側の傲慢であるようにも思える。ノアの箱舟で、ノア夫妻が洪水を生き残るべき動物を自己裁量で選別するようなもので、それは人間のすべき領域を逸脱した行為であるとも言える。
生物としてはどちらも神の祝福を受けるべき存在なのだ。エノコログサを見て、そう感じてしまう杜氏が、一般的な人間の趣味嗜好を語る資格など持ち得ないのも一面の真理ではある。
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