ガクアジサイ

端ッコはおいしい

 食べ物の端ッコにはなぜか愛着が湧く。杜氏は甘い物が苦手だが、たい焼きのシッポの少し焦げたところは旨い。よく「アンコがシッポまで詰まった」などとサービスを強調する連中がいるが、そンなことは余計なお世話だ。アンコが入っていないカリカリに焼けたシッポこそがたい焼きの妙味なのだ。エビフライのシッポの部分に詰まった身。南部煎餅の縁。トンカツの両端。三枚に下ろした焼き魚の骨が付いた方で、骨の裏側に貼り付いた身。平目の縁側。目玉焼きの一番外側の褐色に焦げた縁。・・・・キリがない。

 杜氏が高校へ進学したとき、時の校長はこう言い放った。「君達は中学校でも成績がトップ・クラスで鼻高々でこの高校に入ってきたのだろうけど、三浦半島など日本全体から見ればあってもなくてもいい盲腸のようなモンだ」 この校長は当時の基準としては今とは格段に価値が高かった頃の東大を出て、田舎の高校の校長風情であることに大変強いコンプレックスを持つ人物だった。今思えばそれは僻み根性以外の何ものでもなかったように思う。ただ、仮にも新しい環境への期待に高揚した気分になっている新入生に対して、その言葉は失礼である。八つ当たりの部類だ。

 確かに三浦半島は子犬の形をしている神奈川県の地図を見てもその前脚に過ぎない。日本地図で縮小したものでは、房総、伊豆は判別できるがほとんど認識できないほどだ。イラスト風に模式図化すると、完全に省略されたりする憂き目に遭う。首都圏から東海道を辿り、東海地方へ至る幹線交通機関からも外れている。横須賀は軍港として歴史的な存在価値があったが、その意味合いも戦後は薄れている。商工業もそこそこ発展しているが、決定的なものに欠ける。かといって農業、水産業も三浦ダイコン、三浦スイカ、三崎のマグロと名産物を列挙できるものの、それで勝負するには至っていない。観光地としてもそこそこだが、伊豆には及ばない。何を採っても中途半端だ。首都圏の末端の切り離しても構わないような辺境? だがそこにおいしさはないのだろうか?

 杜氏が子供の頃、海水浴といえば馬堀海岸だった。今は三浦海岸が主流だろうが、三浦は海岸線が長くキャパシティこそあったが、波が高く水も濁っており、ガサツな海水浴場という印象がある。当時は京急も集客に力を入れてはいなかった。杜氏は横浜との境の追浜という日産自動車の工場がある町に住んでいた。追浜から横須賀の北郷地区を抜けて、横須賀中央のトンネルの闇をくぐり抜け、電車の窓に一気に海が開ける光景を今でも目に浮かべることが出来る。何度も通り、何があるのかわかっていても、「海、海だよ!」と口にしなくてはいられないような、心浮き立つ風景だった。横須賀の明るい色調の空を映した海は青く輝いていたし、すぐそこに見える東京湾唯一の天然の島・猿島も杜氏達を手招きしているように見えた。今は埋め立てが進み、海岸線が線路から遠離ってしまったため、海を臨むことはできるものの、あの歓喜の瞬間は望むべくもない。

 馬堀海岸を降りると、道ひとつ隔ててすぐに海水浴場が拡がっていた。海の家、遠浅の砂浜、ときおり跳ねるボラ、浮き台、浮き台の下に群れる熱帯魚系の小魚・・・。遙か沖では何と小型のクジラ、スナメリがのんびりと昼寝していた。今そこには西友馬堀海岸店と馬堀海岸団地しかない。スナメリが悠然と泳いでいた沖には人工島が冷たく横たわっている。

 海水浴が終わると、また馬堀海岸駅の上り線に乗って追浜まで帰る。馬堀は横須賀の地形のご多分に漏れず、山が海に迫っており、駅も背後に急な斜面を抱えていた。往きにはもう海しか眼中になかった杜氏だが、帰りには程良く疲れていて落ち着きを取り戻し、駅の光景にも視線が行き届くようになっていた。上り線のプラットフォームのガラス窓からその斜面に茂っている植物が見えた。海水浴シーズンには毎年見事にガクアジサイがたくさん咲き誇っている姿を目にすることが出来た。無論、野生のものである。ふんわりを丸く群生した見慣れたアジサイの人工的な印象に反して、野生のガクアジサイは人手に染まらない高貴さを漂わせているように感じた。

 下手な短歌を詠む母は、アジサイが好きではないという。変節が嫌いらしい。確かに色が変わるのはハッキリしないから好きにはなれない。しかも、アジサイの花の色は薄い。花自身が変節漢であるワケではないので、母の嫌う理由はよくわからないが、薄くてハッキリしない色には感心しない。湿度、天候ばかりではなく、アジサイは土壌によっても花の色を変えるらしい。酸性、アルカリ性の如何で赤か青かに変わるという。リトマス試験紙のようだが、酸性だったら何色でアルカリ性だったら何色かは忘れてしまった。リトマス試験紙と同様だろうか?

 小さい花が集まってひしめいている種の花が嫌いだという人を知っているが、なるほど群を為して数に恃むのは人でも好きになれない。ところが杜氏は六月生まれだ。六月に咲く花は数多いかも知れないが、咄嗟に頭に浮かぶのはアジサイである。

 紫陽花と書く。唐の詩仙、白楽天のエピソードから来ているらしいが眉唾である。女性を口説くときにアジサイを女性の鼻先に差し出すというヤツがいた。音読みにすればよいのだと。バカである。

 杜氏の住む土地の近くにもアジサイの名所がある。鎌倉のあじさい寺・明月院である。縁切寺、あるいは駆け込み寺の俗称で名高い東慶寺の近く、北鎌倉にある。花の時季には人出が多く、拝観したことはない。つまり、杜氏はそれほどアジサイが好きではないことを物語っている。

 さてガクアジサイに戻る。馬堀海岸駅は海水浴場を潰した埋め立て工事だけではなく、上り線裏の山も宅地造成が進み、ガクアジサイの斜面は何十年も前に姿を消してしまった。しかし、周囲の走水、観音崎は県立観音崎公園の広大な敷地に守られていることもあり、未だ人手が入っていない部分が多い。ガクアジサイは依然、照葉樹林を成しているマテバシイ、シロダモ、ハコネウツギ、トベラ、アオキ、フジなどと並んで、観音崎方面を代表する植物である。

 ガクアジサイは杜氏が子供の頃、海水浴シーズンに必ず見かけたように、梅雨期のみに咲くワケではない。最も外の花から咲き始めて花を終わらせながら、内へ内へと向かって少しずつ咲いてゆくせいか、夏の盛りにも元気に咲いている印象が強い。アジサイは花弁に見えるのが実は萼で、中心に小さくまとまっているのが真の花だったような気がする。だとすると、ガクアジサイという名称は(気持ちはわかるが)正確な花の形状を表してはいない。咲いているのは萼ではなく、最も外側に位置している花でしかない。ひとかたまりの花が一斉に咲くアジサイに比べれば華やかさで劣るかもしれないが、白か極淡い青を基調にした花は清々しい。咲いている花が少ないのも奥ゆかしい印象を与える。アジサイのように花の色が著しく変わるようなこともない。

 アジサイもガクアジサイも同じユキノシタ科で、花さえ見なければ葉も茎もほとんど変わりがない。ユキノシタは湿っぽい場所に独特の斑入りの厚手の葉をつけ、花茎を一本出して地味な花を咲かせる草である。アジサイのように木にはならない。つまり、ユキノシタとアジサイ、ガクアジサイはあまり似ていない。むしろ同じユキノシタ科でもアジサイはアマチャと似ている。多分、花以外の共通点から見て、ガクアジサイが人手で改良(改悪?)され、大きな花の群を同時に咲かせるようになったのがアジサイだろう。人は一度改良したアジサイにもう一度手を加え、ガクアジサイに戻したような「墨田の花火」といった改良種を更に拵えてしまう動物である。罪作りな気がする。

 杜氏は家の庭を観音崎の林の縮図とすることを試みている。どうせ元々は辺りの林と同じ植物が生えていた土地である。根付きもいいだろうし、宅地開発で大量の植物を伐採してしまった同じ種族である人間の贖罪の意味もある。独善? そうかもしれないが、杜氏は観音崎の植物が好きなのである。トベラ、タラノキ、フジ、ミツバ、ミョウガ、アシタバ、ノビルなどの草木と並んで、ガクアジサイも当然植えた。小さな芽を山から拝借して来たので、根付いて大きく育つのに何年もかかったが、ようやく二年ほど前から花をつけるようになった。やはり清楚な佇まいだ。普通のアジサイを眺めるよりも、何倍か心を静謐に鎮めてくれる。正解だったと思っている。

 ガクアジサイの魅力は多くの花芽を持っていながら、外側だけを咲かせることであろう。そこに美を誇らず抑制を利かせた慎み、思慮の深さ、孤高さを連想せざるを得ない。また無視できないのは、冒頭に述べた端ッコの魅力だ。やはり端ッコはおいしいのだ。

 元々が三浦半島、伊豆半島といった関東、東海の太平洋側原産の木であるという。海辺の山地、これが適地なのであろう。ホラ。端ッコはおいしい。

 鵯越の逆落とし。平家(京都の近衛武士団、実は新貴族階級)に対する源氏(武蔵土着武士団)側の勝利を決定付けた奇襲。一〇〇メートルで「非黒人の世界タイ記録」を持つ伊東浩司は兵庫県の出身で、中学は鵯中学だった。詳しく知らないが、おそらくあの鵯越の鵯だろう。源義経発案の策と言われているが実はそうでもないらしい。義経軍に従軍していた三浦の武士に佐原十郎義連という少年と呼んでも差し支えないような若者がいた。「佐原」は今の横浜横須賀道路の終点として名を残している。当時は三浦氏も「和田」「佐原」のように住んでいる地名を名乗ってそれぞれ分家していたようである。

 その義連が鵯越の断崖を指して言ったらしい。

「こンな崖、三浦なら馬場にしてるよ」

 何だか自分がイナカモンであることを誇っているようにも響くが、とにかく勇ましい。これを耳にした義経が全軍に奇襲を命じたらしい。義連が義経を焚きつけたのだ。牛の角に松明を結びつけて敵陣に突っ込ませたのは中国の「火牛の策」のイタダキか。とにかく義経にオリジナリティが帰してしまうのは致し方ないのかもしれないが、佐原十郎の活躍は今にも伝えられている。親戚筋の畠山重忠が同僚との諍いで不始末をしでかしかけたときも、親子ほども年長の重忠を、機転を利かせて窘め、その場を丸く収めた逸話も残っており、武のみではない豊かな政治的才能も窺える。

 「馬も四つ足、鹿も四つ足・・」の唱歌の台詞も、講釈師の扇子の中から飛び出たものかもしれない。

 三浦は関東武士団でも端ッコに位置していた一族に過ぎないが、こうして源頼朝の絶大な信頼を勝ち得てゆく。頼朝が鎌倉に都を構えたのも、三方を山、一方を海で囲まれた自然の要塞というもっともらしい立地条件よりも、有事に頼りになる三浦半島からの軍事援助を期待してのことと言うのが支配的要因だったらしい。

 端ッコの三浦半島から二十一世紀に入って首相、ノーベル賞受賞者、日本アカデミー賞受賞俳優と各界で活躍する人間が次々輩出している。その学校の校長だった「日本の盲腸」氏は、草場の影で何を考えているだろうか。

 そンな権威的なことなどどうでもいい。端ッコの花、ガクアジサイの生息地を脅かすような開発事業が、馬堀海岸沖からスナメリを追い出したように、豊かな林を破壊しないよう祈るばかりである。



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