ハコネウツギ

花の色は移りにけりな・・・・


 北海道には梅雨がない。その代わりに夏は涼しく、秋の訪れも早い。植物が好適な条件で活動を始めるのが春であるなら、春の訪れは遅い。ほとんどの植物は花の時期を圧迫され、本州が梅雨に見舞われている時期には、様々な花が盛りを迎える。札幌の大通り公園をこの時期に訪れると、関東地方では考えられないヴァリエーションで花が咲き乱れており、意表を衝かれてしまうことがある。春には梅と桜が一緒に咲いていることもあるという。「梅は咲いたか 桜はまだかいな」の端唄は北海道では通用しないらしい。

 人間は春と夏に特に咲く花で季節を感じる。「夏は来ぬ」の一節に「卯の花の匂う垣根に不如帰早も来啼きて・・」とあるが、この卯の花はウツギというのはユキノシタ科である。ユキノシタは日当たりの悪い湿地などに生えるたけの低い草なのだが、この科にはアジサイ、アマチャなどの低木も含まれる。人家の垣根から匂いを漂わせていることから、「夏は来ぬ」の冒頭を飾る卯の花は栽培種なのであろう。生垣にでも用いていたのだろうか。林縁の日当たりのいい場所を好む植物であるので、生垣には好適かもしれない。

 このウツギの名を持つものにはほかにもハコネウツギやタニウツギがある。ところが、これらはユキノシタ科ではなく、スイカズラ科である。吸葛とも翡翠葛とも忍冬とも綴るスイカズラである。だが、ハコネウツギもタニウツギも蔓は持たないし、冬を忍んで葉を落とさないワケでもない。ややこしいことに葉がアジサイに似ていたりする。花の構造はスイカズラを思わせないワケではないが、何を以て分類されているのかは杜氏には伺い知れない。ハコネウツギは箱根の名を持ちながら、実際に箱根では自生しないらしい。ますまずややこしい。
 以前採り上げた中では、ガマズミがスイカズラ科であり、オオデマリも同様である。因みにコデマリはバラ科だ。小さな花序が集合して咲く傾向がユキノシタ科の植物と共通している。こういう花にはカミキリムシが数多く寄ってくる。ただ、ハコネウツギ、タニウツギの花は独立しており、そこが微妙に違う。ユキノシタとスイカズラは単独の種で見れば似ても似つかぬが、どこかでつながっているようにも感じられる。

 これらがちょうど初夏に咲いたりするものだから、「夏は来ぬ」の卯の花がハコネウツギであると信じる人が出てきてもおかしくはない。杜氏の幼い頃に住んでいた社員寮と住宅地との境にはハコネウツギが、境界をことさらに主張するように立っていた。

 この花は他には見られない特徴を持つ。花の色が開花から時を負うに連れ、白からピンク、ピンクから濃い紅色へと次々に移ろうのだ。正に「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に」だ。ただ小野小町が美人の象徴だったように、その容色は小町自身には若さが損なわれてゆく実感はあったものの、外から見れば年齢なりの美しさだったかもしれない。ハコネウツギも、紅色が濃くなるに連れ、老いて醜くなる感じはなく、かえって妖艶さを増してゆく。小野小町の詠嘆は贅沢であり、美しさを持たぬ者には嫌味に近いという解釈も可能だ。東北の民謡は先入観からすると、日本海の峻厳さのような荘重さと重厚さ、言い換えれば一種の暗さを思わせるが、案外そうではないものも多い。妙にリズミカルでファンキー。ラップに通じるものが散見される。そのひとつである秋田音頭に曰く「秋田の娘こ なしてこきれだか訊くだけ野暮だんす。小野小町の生まれザンショ(在所)だ、おめさん知らねのげ」 小町の時代には移ろいを色褪せることではなく成熟という若さでは決して表現できない美だとは認識出来なかったのかもしれない。

 ハコネウツギの木には花期に三種類の違う花が咲いている印象があって、それなりに華やかである。バランスが悪印象は意外にも薄い。必然的に色が濃くなる道理に従っているからなのだろう。そこにはやはり必然的に短い期間に咲き競わなければならない北海道の夏の百花繚乱状態を思わせるものがある。大通り公園の不思議なヴァリエーションも一瞬驚かされるものの、よく見れば違和感を覚えなくなる。

 子供達は本能的に、この花の奥には蜜が多く貯められており、それが有害では決してないことを知っていた。奥行きがあって、奥が細く狭まっている印象だった。それを花の根元近くに手を当ててもぎ取り、先端、つまり花の付け根から口で直接吸う。花の香りも仄甘い上品なものだったが、蜜もベタベタしてはおらず癖のない味だったと記憶している。秋にはサルビアの花の蜜を吸いながら学校から帰ったことは以前にも書いたが、初夏にはハコネウツギだった。で、ハコネウツギの蜜の方が杜氏には旨く感じられた。これは好みの問題なのかもしれない。
 杜氏にこの花の蜜を吸うことを教えてくれたのは、社員寮に住む年上の子供達だったが、お兄さん達にせよ杜氏達にせよ、いくらその蜜が美味であるにせよ、吸い尽くすようなことはしなかった。衛生上の問題とか、腹を
壊すからではない。蜜を吸うのは本来虫の役割であり、人間はそのおこぼれを掠め取っているに過ぎないのを、何となく感じていた。ハコネウツギの蜜はただで手に入るおやつではあったが、季節限定であり、そういう摂理を覚えさせてくれる貴重な体験だった。不思議なもので、大人になった今、ハコネウツギにせよサルビアにせよ、桑の実にせよアケビにせよ、自然が恵んでくれる季節のデザート類は、自分の家の庭に生えているものならいざ知らず、野山にあるものには手が出なくなっていることに気付く。反面、ノビル、アサツキ、ミツバ、ヤマノイモのムカゴ、ウド、アシタバ等の酒のつまみになるものには採取に躊躇がないのも不思議である。

 蜜を吸うことに熱中していた幼児の頃は、それがハコネウツギという名の木で、増してや箱根には生えていないなどとは知る由もなかった。小学校に上がって暫くする頃に、それが「夏は来ぬ」の卯の花であるという誤った知識を憶えてしまった。ウツギという名がありながら卯の花のウツギとは違うものだと気付いたのは、中学に上がってからだったと思う。人間の知識がいかにいい加減で意味を持たぬか、思い知らされる。杜氏にとっては名も知らぬ花だった頃の、清楚から妖艶、成熟を同時に感じさせてくれて、蜜も旨い初夏に咲く花というのがその概念であり、それは大人になっても普遍である。詩と言う表現形態は他の芸術と同じく、受け手のイメージに委ねられるものなのであるから、ハコネウツギが卯の花であっても一向に構わないと思うのだが・・・・。



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