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古来の呼び方と現代の名前が著しく違っている生物がある。キリギリスとコオロギは現代と昔では呼称が逆になっているようだ。古代、アサガオといえば桔梗のことだったらしい。桔梗は朝だけに咲くとは限らないから、今のアサガオをアサガオと呼ぶ方が適切であるような気もするが、昔はそういう必然性があったのかもしれない。便器に名を残す「アサガオ」と「キンカクシ」も、機能からして逆になっている気がしないでもない。ゴホン、失礼。
源氏物語には夕顔という名の女性が登場する。光源氏が遍歴した女性の一人だが、六条御息所の生き霊に取り憑かれて亡くなってしまう。その哀れな境遇に相応しい控え目な印象で描かれていたと思う。その頃から植物としてのユウガオは存在したのだろうか。ところが現代の和名ではユウガオはヒルガオ科のアサガオ、ヒルガオ、ヨルガオとは異なり、ウリ科の植物であり、大きなウリ様の実を着ける。丸いものと糸瓜様の細長い実があるらしい。丸い実は加工されて干瓢となる。ややこしいことにヒルガオ科のヨルガオも俗称ではユウガオと呼ばれる。混同も頻繁に発生する。
「昼顔」というタイトルの小説、映画があった。映画ではカトリーヌ・ドヌーブの耽美的な演技で話題になった。内容もセンセーショナルなものであり、中流以上の生活水準にあり何不自由ないと思われた家庭の主婦(貞淑なという形容詞がつくが、それは映画の惹句っぽいので却下)がふとしたきっかけで売春に走るというものだった。カトリーヌ・ドヌーブという人は、インタビュー記事などを読むと頭のいい人であることがわかるが、演技者としてはそういったやや自主性に欠けた運命に翻弄されるがままの薄幸の美女がはまり役で、容貌もソフト・フォーカスでただ綺麗な印象が濃厚である。ソフィア・ローレンの挑みかかるような迫力、ジェーン・フォンダの親しみやすさと気品の二律背反の両面性同居、ジャクリーン・ビセットの明瞭な知性美とは無縁だった。作品で言えば戦争絡みのメロドラマに過ぎない「シェルブールの雨傘」とかがお似合いの印象がする。女優としては格下なのかもしれないが同じような話でも「ブーベの恋人」のクラウディア・カルディナーレ(ブリジッド・バルドーのBBと対比され、CCと言われたのは不似合い)の方が映像映えすると感じるのは私だけだろうか。
とはいえ、「昼顔」はただ登場するだけで綺麗ではあるカトリーヌ・ドヌーブには似合った役であった。アサガオは爽やかでヨルガオはやや妖艶な印象がある。その中間のヒルガオは中途半端な印象どころか、「昼行灯」のイメージさえだぶり損な役回りを演じている。
アサガオやヨルガオがヒルガオ科であることからもわかるように、ヒルガオは野生種で、比較的どこにでも容易く繁殖する。夏の道端や庭先に微かに紫がかったピンクのそれなりに可憐な花を着ける。雑草といってしまえばそれまでだが、花の咲いた草を引き抜くことを躊躇させるに足る魅力は有している。アサガオ同様蔓草だが、たとえば時計草のように逞しい蔓で巻きつく木を圧倒するような猛々しさはない。アサガオもその生育が子供の家庭での課題になることから生命力の弱い草ではないが、それでも園芸種のひ弱さは拭えないのに対して、ヒルガオはそこまで弱い印象もない。こういうところも不徹底な感じを与えてしまうのかもしれない。
杜氏の住まいは沿岸地方であるし、東京湾の中では珍しく護岸に被われていない海岸線を見ることができる。従って、植物でも海岸性のものも多い。ハマダイコン、ハマユウ(杜氏の住む地方が北限であるらしい)、ハマボウフウ、
etc. これらは「ハマ」を抜いた普通種と似てはいるが、概して根が深く水捌けが良すぎる砂地から水分を吸収しやすい「仕様」となっている。また、葉が厚く艶を帯び、水分を葉に貯えることができる機能を窺わせる。それらの植物のひとつに「ハマヒルガオ」もある。花はヒルガオそっくりであるが、根、葉には海岸性植物の特色が顕著である。これも無論、ヒルガオ科の植物。何か有名なフレーズで人口に膾炙している気がして考えてみたら、「君の名は」の主題歌に詠われていることに気が付いた。余談だが、ハマユウに元となる「ユウ」(木綿?)なる植物が存在しない(浜木綿子という人はいるものの)ように、ハマナスはナスの海岸性のものではなく、ハマナシが東北弁風に訛ったものであるらしい。「秋田名物八森(ハツモリ)はたはた、男鹿で男鹿鰤子」のデンである。因みにナシでもなく、ナシに似た味がするということに留まる。寧ろハマナスは単なるバラに近い。面倒なことにナシはバラ科でもある。
映画「昼顔」が話題になった作品だったことを知っている友人が、杜氏と一緒にTVの「名画劇」でその作品を観たことがある。その頃友人は数年来交際した女性を知人に奪われたばかりだった。当然略奪は彼の窺い知らぬところで為されており、交際中にかかる事態に至ったことに、友人はいたくショックを受けていた。私は映画こそ初見で知らなかったが、原作は既に読んで内容は知っていた。女性が肉体を以て配偶者(恋人)を裏切るというストーリーを、映画鑑賞によって追体験したらしい彼は、予めそれを知っていた杜氏を責めたものだった。杜氏にはカトリーヌ・ドヌーブのソフトな(言い換えれば影の薄い)印象もあって、その作品が友人の心の傷をそれほど深くえぐるとは考えてもみなかった。
アサガオやヨルガオのように栽培種として珍重されていなくても、ユウガオのように食材となって人間の生活に貢献がなくとも、ヒルガオはそのあまりにもありふれた姿を夏の訪れのひとつの象徴と思わせるほどに、いたるところ、全国津々浦々に蔓延している。多分、名の挙がった四種類の植物の中では最も根強く繁殖している種類であろう。
カトリーヌ・ドヌーブは人間としては大した人物であると思うが、演技者としては美貌、肉体美、知性美、演技力、どれを取っても突出した存在ではない。ただ、何となく調和がとれていることには異論がない。もしかしたら、どことなく綺麗な女優としてはナンバーワンなのかもしれない。女優はその実績が何よりも雄弁に実力を物語るし、植物は人に愛でられることより種としての繁栄が勝利を意味する。中途半端な存在に見えなくもないヒルガオは、植物としては確実に「勝ち組」に位置付けられるだろう。
中途半端より明瞭なものを好む杜氏はカトリーヌ・ドヌーブを女優としてはあまり好まない。でも、ヒルガオはどういう訳か好きな花のひとつである。中途半端もその半端の度合いが徹底していると、一種の突出と同じことになるということであろう。