

人は自分の生まれたシーズンに心の安らぎを感じるものなのだろうか。
杜氏は子供の頃、カタツムリが好きだった。雨上がりの木立の下から木を見上げると、そこには大概カタツムリが悠然と止まっている姿が見えた。彼らにしてみれば止まっていたのではない。雨のせいで水分が潤沢に蓄えられた葉から葉へと移りながら、舌で葉の表面を削り取りながら栄養補給をしていたのだろう。ゆったりとした動きながら、彼らにとっては最も活動的な時間だったのかもしれない。だが、見るもの聞くもののすべてが物珍しく、毎日がマジカル・ミステリ・ツアーだった目まぐるしい時を送っていた杜氏には、カタツムリのときは止まっているに等しかった。
もっと林の奥に分け入ると、どこから湧いたのか、カエルが鳴き競っていた。両生類とはよくいったもので、水から離れた木の上で、驚くほど小さなアマガエルが梅雨期に盛んな活動を見せていた。水辺のもっと低い場所にはトノサマガエルやアカガエル。理科の先生がアカガエルを捕まえ、すかさず足の方から皮を剥き、串に刺してさっとあぶって食べてしまったのを目撃した。気色悪かったが、正直言って旨そうだった。薬効もあるらしいアマガエルはカエルの類のご多分に漏れず、鶏と魚の中間の味がするらしい。杜氏はカエルも大好きで、図工の版画や状差しのモティーフに多用した記憶がある。小学校に上がる時分に、自分の顔ぐらいの大きさのガマガエルを素手で捉えたこともある。
林からもっと下に目を転じると、ツユクサが花の時期を迎えていた。青みが強い紫の、小さいながら可憐な花である。自然界では青い花は珍しい。きっと花粉を媒介する昆虫にはアピールしない色なのだろう。ツユクサも青ではなく、紫に属する色をしているが、杜氏の知る限り、オオイヌノフグリと並んでツユクサが最も青に近い花をつける。中学高校になると、ツユクサの葉の表面をはがして表皮を顕微鏡で映し、気孔などの構造を観察したものだった。
より下の方、つまり地表では大好きなカタツムリが、マイマイカブリというオサムシ、ゴミムシに近い昆虫の餌食となっているのが観察された。マイマイはカタツムリのことで、ヒダリマキマイマイ、ミギマキマイマイなどの種類の名前となっている。マイマイカブリはカタツムリの殻に頭を突っ込んで、生きたまま中の肉を貪る。殻をかぶった捕食中の姿が頻繁に見られるので、マイマイを被った虫ということから、この名がある。カタツムリにとって天敵のひとつである。でも、そういう殺伐とした光景すら、杜氏には輝かしい幼年期の記憶の一部だった。
この時期、ツユクサ以上に印象的な花が林の下草に数多く咲く。ホタルブクロである。明らかにキキョウの特徴を感じさせる花であるが、あのように花らしい律儀な形状の花ではない。紡錘形の袋のような中央が軽く膨らんで、花の先の方だけやや開いたこの花は、小さな照明器具のような印象を与える。実際にこの時期羽化して生殖期を迎えるホタルがこの花の中に入り込んでイルミネーションを灯すことなどないであろうが、そうであったらさぞ幻想的で美しいだろうと想像してしまうような思いを喚起させる花といえる。命名者もそういう思いに駆られていたのであろう。淡いピンクの可憐な花だが、特別珍しくもない。杜氏の幼年期を彩るありふれた光景の一部であった。正式な和名はホタルブクロであるが、杜氏達は蛍の袋と半ば本気で呼んでいた。
ところが先日、家の床の間の花瓶に、ホタルブクロが生け花として鎮座しているではないか。家人に聞けば切花として売っていたという。確かに野生種とは少し違い、花の縁はシャンデリアの模様然とした青紫の縁取りがあった。でも、それはホタルブクロに違いなかった。おそらく野生種を品種改良した栽培種なのだろう。「こンな花をありがたがって生けることはないじゃないか」と多少文句調で言ってみたが、家人には杜氏の意図がわからなかったらしい。
杜氏はホタルブクロが花として劣っていると思っているのではない。ただ、その名の通り、もしかしたらホタルを中に宿してほのぼのと光るような幻想的な想像は、庭の路地植え栽培では求められない。庭に来るようなホタルはいないし、いたとしたらそれも人工的に飼育されたものでしかない。増してや切花にしてしまったら、ホタルブクロのホタルブクロたるアイデンティティは完全に消失する。それが身も蓋もないものに思われたのである。
多くの栽培種がこうして人間の手で手懐けられてきたことは確かだろう。ただ、ホタルブクロはホタルブクロのまま野山に置いてもらいたかった。
秒、時、日、週、旬、月、年といった時の区切りはジュリアス・シーザーがいくら威張って自分の名を誕生月に挿入しても、人知の及ばぬ地球の自転、公転、太陽系宇宙の営みによって刻まれる。誰が定めたのでもなければ、何人によって支配されるものでもない。杜氏の生まれたこの鬱陶しい日本の雨期(北海道を除く)にも、これだけ心浮き立つような自然の営みが溢れている。もしかしたらそれは六月生まれの人間のみが享受しうる感覚なのかもしれない。他の季節には他の季節の感興があるように。
梅雨も後期に入り、夏の訪れが見え隠れするようになると、ヤマモモがその実を暗紅色に熟し始め、夏休みの始まりを告げるヤマユリが高い崖の上から微笑みかける季節へと時は移ろってゆく。
Winery 〜Field noteへ戻る