イノデ

古代よりのメッセンジャー

 「花も実もある」という表現がある。植物の特徴はどうしても咲き誇る花や次世代に遺伝子を継承するためにさまざまな意匠が凝らされている実に集約されざるを得ない。ところが植物の個体にとっては、花や実よりも葉、茎(枝、幹)、根の順で重要度が増してゆく。常緑樹であっても、葉を落とした状態でも幹が生きていれば再生する可能性がある。茎が枯れても、根さえ生きていれば多年草は翌年も芽を出すことが出来る。そもそも、植物は最初から花をつけ、実を実らせている訳ではなかった。植物性プランクトンやキノコ、コケの類を見ればそれは明らかだ。花粉を媒介し、生殖を促す風や昆虫の存在があってこその花である。植物が色とりどりの花をつけ始めたのは、昆虫の目を牽きつける効果を呈している。従って昆虫が地上に登場しない頃には、「花も実もある」もヘッタクレもなかったはずである。
 現代は種子植物、特に被子植物の全盛であるが、胞子植物が絶滅した訳ではない。それらも脈々と地上に息づいている。浅薄なる人間は植物と花の美しさと実の実利にしか視線を馳せることができない。胞子植物に目の色を変えるとしたら、マツタケについてしまった益体もない付加価値が商業的に大きな意味を持つ程度だ。
 ところが現代社会を人間が営むには莫大なエネルギー供給が必要となる。原子力発電には未だ技術上の問題による安全性、地域エゴ、偏見等が克服し切れていない部分が大きく残っており、エネルギーの主力を担うには至っていない。未だ多くを有限な化石燃料に依存しなければならない。
 化石燃料の多くが種子植物登場以前の古代から地中に眠っている。今も日本に繁殖しているものだけで8千種類を数える多様なシダ類が地上に栄えているが、化石燃料を賄うほどかつてのシダ類は大型であったらしい。種子植物がその上に覆い被さるようなことはなかったのだから当然であろう。森も林も胞子植物のみで構成されていた時代がかつてあった。

 現存するシダの多くが種子植物が形成する集落の陰で繁殖する。おそらく巨大シダ類は日陰で繁殖する能力を持たずに絶滅し、耐陰性の強い種のみが生き残ることを許されたのだろう。そのためか、現存するシダ類には独特の陰影を感じさせるものが多い。羊歯と綴る。その通り一遍では読めない表記も、漂ってくるニュアンスにも風格が感じられる。かと思うと、ワラビ、ゼンマイ、コゴミのように山菜としてポピュラーな人気を確立している種もある。クジャクシダ、クサソテツのように観葉植物的に栽培されるものもある。ウラジロのように正月飾りやお供え餅の下敷きとして、宗教的な役割を果たす種まである。
 その中で杜氏にとってもっともシダらしいシダがイノデである。イノデは猪の手である。芽や茎が褐色の毛に被われてイノシシの手にも似ていることが命名の由来らしい。一株から十数本の茎を伸ばし、そこにシダらしい形の葉をつける。丈が1mにも及ぶものもあり、とても立派なシダである。シダにも落葉性と常緑性のものがあり、イノデは後者に属する。したがって葉もつやつや輝くしっかりした作りの濃い緑色となる。日本に繁殖しているイノデにはいくつもの種類があるらしく、またそれぞれが非常に似通っているばかりか、交配し混雑してしまうケースも多く、種類の特定が難しいらしい。
 鬱蒼とした林の下、適度な湿気があるような場所にイノデを見ることが出来る。雨水の通り道の脇のような場所が適地なのだろう。葉の裏にはシダ類の特徴である胞子を抱えたソーラスがまばらにみられるが、何しろ羽片が多いので、一株が抱える胞子の数は相当数に及ぶだろう。
 山菜として食することも出来ず、観賞用として栽培されることもなく、猛々しい猪のような様相を呈しているこの植物を、見た目でも人に嫌われる文字通り陰の植物と評する人がいる。疑問に感じる。これほどシダらしい形状を示し、立派な株を形成し、常緑の葉から生命力を感じさせるシダはないのではないか。シダを初めから日陰の存在と見るから、そのような偏見が生じる。シダは種子植物登場以前は、地上を席巻する植物だったのだ。無尽蔵とは言えないがジェームズ・ワットが蒸気機関を発明して以来、莫大な消費量に応えてきた石炭。石油を思うと、枯死してなお生命力の命を我々にもたらす植物類が陰の存在と言えるだろうか。
 多岐に渉って交配し、分類学では特定できないほどのバリエーションを備えるところにも、底知れぬ生命力を感じる。でなければ、太古から種子植物の圧迫を受けながら、この時代にまで種を維持できなかったかもしれない。

 シダは谷間の湿った地帯などによく繁殖する。杜氏の住まいの近くにある自然林から成る公園でも「シダの谷」なるスポットがあり、そこの主はやはりイノデである。木漏れ日を受けて、鬱蒼とした暗い森の下地から、イノデがギラギラした光を放つとき、杜氏は古代からの言葉にならぬメッセージを感じてしまう。花や実をつける植物ばかりを優遇する人間によって姿を変えられた種子植物は、本能を見失った人間同様、急激な環境変化に耐えられないのではないか。そうしたときに、地球の植生が進化の根源に立ち返り、再び胞子植物が地上を席巻する時代が到来するかもしれない。そのときのために、イノデは生命力に充ちた光を葉に宿らせているのではないかと。
 そンなバカなことはあり得ない? そうかもしれない。少なくともそういった事態が起きるとしても、現存する人間のジェネレーションの遥か彼方でのことだ。いずれ地球が自転を停め、滅亡することが運命付けられているのを恐れるように、それは無意味なことなのかもしれない。
 ただ、とうの昔に主役の座を下りたイノデが未だ近似種との交配などによって変容を止めようとしないことに、太古から続き遠い未来へと連なる生命力の不思議を感じても罰は当たらないと思う。



Winery 〜Field noteへ戻る