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人間の食用となる植物は数多いが、野生種でそれらと似ているのに一般的に人が食べないものは数多い。それらのほとんどには人間以外の動物の名が冠せられている。ヘビイチゴ、イヌワラビ、カラスノエンドウ、イヌビワ、カラスムギ、イヌナズナ・・・・etc. ヘビイチゴなどいかにも旨そうに見えるのだが・・・。
人が食えないからといって他の動物に分担するような名前をつけるなど身勝手でしかない。人に食えないものは他の動物にも難しいだろう。よく「××を初めて食用にした人間はエライ」などと言うが、私に言わせればその発想自体が傲慢である。ダーウィニズムが万能とは思わないが、ホモ・サピエンスが霊長類から進化したものと仮定してみる。動物は本能と経験則によって食べていいもの、悪いものを判別している。如何にナマコやドリアンが見た目に不気味だったり異様な臭気を放っていたとしても、動物は食べるべきものを食べる。食用に適さないものはかえって見た目が派手で、うっかり食べてしまったとしてもその記憶が鮮明に残って、過ちの反復を回避するような仕組みになっている。人間の価値観に照らせば不気味なものでも、最初に食したのは人間ではなく動物である。本能が破壊されている人間ならいざ知らず、動物は不気味なものを食べたとしてもそれを名誉には感じない。
杜氏が頻繁にカラスウリを見かけるようになったのは、小学校三年生の終盤に横浜市と横須賀市の境の追浜から、横須賀の東の外れである観音崎近辺に転居してからだった。追浜にもカラスウリはあっただろうが、杜氏の徘徊するエリアにはあまり繁殖してはいなかった。私がカラスウリをよく見たのは季節柄、アケビの実を求めて林に分け入るときだった。アケビは種の多い果実で、都合の悪いことに可食部分の果肉は種と一緒に存在し、分けることが出来ない。勢い種と一緒に果肉を口に入れ、後から種を吐き出すことになる。上品な食べ方など不可能である。ただ、今でも稀に八百屋やスーパーの青果コーナーに、秋が深まるとアケビが売られているのを目にすることもある。商品として市場に問うだけの価値がある果実なのだ。
種を吐き出さなくてはならないのは、人間には不都合だが、補食されて他の場所に繁殖の版図を拡げたいアケビには好都合である。
さてアケビは林を分け入った奥の灌木などに巻きついていることが殆どだが、林の入り口の日の当たる部分にはカラスウリが繁殖していることが多かった。アケビのように太くて頑丈な蔓にはならない。アケビは南のトロピカルアイランドに生えるようなパッションフルーツや奇妙な形状の花を日本の庭でも咲かせる時計草、南洋地方でなくとも日本の気候風土にも容易に親和するキーウイなどと類似した種類なのだろう。ターザンが谷の上空を渡るのに使うのがおそらく、これらの植物の蔓であり、日本でもターザンごっこに使われるほとんどの蔓がアケビだと思われる。またある程度自由に折り曲げて細工することが出来ることから、クリスマス・リースの材料になったりもする。それに対してカラスウリは低い位置で、細い蔓を背の低い木に巻きつかせている。蔓を加工して利用することなどない。
葉はスイカ、キュウリ、メロン、カボチャなどと似た形をしているが、それらよりはかなり小さい。確実にカラスウリがウリの一種であることを物語っている。花は奇妙な形をしており、それなりに目立つ。白い花であるが、花弁がレースで飾られたような網状に拡がる。庭に植えて楽しむほどではないが、花には見るべきものがある。ただしこの幻想的と言えなくもない花が開くのは夜だけであり、昼間はゲンナリとしおれている。夏の夜、散歩などをしている最中にこの白い花といきなり出くわすと、何か不気味な気持ちになる。
それが晩夏から初秋にかけて、実を着け始める。実は長さが5センチほどと、他のウリよりは小ぶりだが、最初のうち緑の濃淡の縞模様をつけたオーソドックスなウリの様相を呈している。イノシシの子供を瓜坊、ウリンボなどと呼ぶが、このような縞模様を身に纏っている。また、ギボウシの斑入りの葉を「瓜ッ葉」と呼ぶが、これも同様の語源である。ここまでの育成を見ていると、カラスウリにも瓜として何らかの御利益があるのではないかなどと期待してしまう。
そして秋が深まり、アケビが収穫できるころになると、その頃の陽光に染まったようなやや翳りを帯びた鮮やかな赤色の実が輝き始める。この色は何と表現したらいいのか形容し難いのだが、バーミリオンと特定できるらしい。晩秋に染まった実はしぶとく蔓に残り、他の植物が葉をすっかり落とし冬枯れ状態になっても風に揺れている。紅葉も終わった冬枯れの中、カラスウリの実はかなり目立つ。色彩の乏しい林のアクセサリーのようにも見える。
食欲と視覚は無縁ではない。「日本料理は目で食べる」なる言葉を引くまでもなく、見た目に美しい料理は食欲を刺激する。鳥やリスなどの林に住む動物にもこれはあてはまる。赤い鳥や青い鳥がその身体の色彩と同じ色の実を食べる童謡があるが、動物たちの多くは色彩でお気に入りの実を識別する。ところが、このカラスウリときたら、目に鮮やかなこととは裏腹に、人間はおろか鳥すら見向きもしない。他の動物に食べられるということは、消化後の動物の糞に混じった種が、ある程度離れた場所へ移動して新たな繁殖場所で根付くことを意味する。少なくともカラスウリはそういう増え方はしないのではないだろうか。カラスウリの名を持ちながら、カラスさえ見向きもしないのだ。
鮮やかな色は実の皮に過ぎず、冬枯れの中ですっかり干からびた実の中にはカボチャの果肉を抜いて種だけにした状態となっている。種を除けば実の中は中空なのだ。赤に染まる前の実はそれなりに中身も充実しているように見える。あれは種子だけで充たされた状態だったのだろうか。
雌雄異株、つまり雄と雌が別の株になるらしい。だから雄の株を見ていてもいつまでも実は成らない。また、頑丈で大きな球根を持っているというから、実生ではなく球根を土中に大きく成長させて繁殖するのかもしれない。実はいつまでも蔓に残っていると思われるが、いつの間にか弾けて飛び散るらしい。つまり鳥やリスの助けなどいらないのだろう。
珍しい植物ではない。繁殖力は強く、ある程度の都会にも蔓延している姿を見ることができる。花はそこそこ幻想的、他の瓜科の植物と似た実を持ち、しかも実は人間が目で楽しむ以外に役には立たない。それでいてしっかり、繁栄を見せている。不思議な植物である。
と思ったところで意外なことがわかった。カラスウリのカラスは烏、または鴉ではないのだという。唐朱、つまり中国で朱墨「からしゅ」に形状が似ているのでその名があるという説があるそうだ。ただ、確かなことはわかっていない。「烏瓜」でもいいじゃないかとも思う。
どこにでも実をつけているのを見ることが出来たこの植物も、最近すっかりご無沙汰となってしまった。カラスウリが首都圏の環境にあきれ果てて他の場所を選んで蔓延しているのか、杜氏が路傍の自然に目をやる余裕をなくしているのか。多分、その両方であるに違いない。