カタクリ
妖艶で華やかで奥ゆかしく、しかも食用
「やはり野に置け、レンゲソウ」という言葉は何もレンゲソウだけに当てはまるものではない。ほとんどの山野草が野生の状態では輝かしい光を放っているのに、庭に植えたりするとたちまちきらめきを失ってしまう。栽培種の方が美しかったり、立派だったりするのかと思えば、それもまた違う気がする。ひとことで言えば人手に育てられることにそぐわないのかもしれない。その点、栽培種であるということは、庭に植えるのに相応しいような改良、改善を加えられると同義である。何が良で、何が善なのかは、それを施した者の価値観に依存するにせよ。
カタクリが古来より人々に親しまれてきた植物であることは、万葉集の編者である大伴家持の歌からもわかる。もののふの八十娘(やそおとめ)らが汲み乱(まが)ふ 寺井の上の堅香子(かたかご)の花 この堅香子の花がカタクリを指しているらしい。花を付けない片葉の葉が白っぽい斑点を帯び、それが鹿の子に似ているので「片葉鹿の子」。これが「カタカゴ」になり、さらに転化して「カタクリ」になったとか、実の着き方ががクリのいがの中にある1つ1つの実に似ているので「片栗」と呼ばれるようになったとが、、「傾いた籠」すなわち籠状の花が下向きに傾いて付いているところから名付けられた古名の「カタカゴ」が「かたこゆり」になり、さらに転じて「かたくり」になったとか、諸説あるという。いずれにしても、万葉集にも歌われているように、古来より人の暮らしに密着してきた植物である。
ひとつには片栗粉にその名を残しているように、ユリ科の植物の特徴である鱗茎から澱粉を得ることが出来た点が人間にとっては大きなメリットとなったと思われる。ユリ科の植物の鱗茎はヤマユリならユリネに、ネギなら玉葱に、ニンニクならニンニクに、ラッキョウならラッキョウにと様々に用いられる。ノビルもそうだ。そして、カタクリもそのひとつである。旺盛な生命力の象徴とも言える。群生する習性があるので、半ば畑のような形で栽培されることもあるのかもしれないが、殆どは自生の形を採る。このため、乱獲され易く、首都圏ではあまり見かけなくなっている印象が強い。気軽に見られるとしたら、北関東に限定されるかもしれない。高いところ、寒いところに多く見られるというのが、杜氏の個人的な感想だが、思い込みかもしれない。
下向きに咲く花であるが、紫や白の明確な色をしている。どこか凛とした印象があるのも、この明確な色に起因しているのかもしれない。愕(ガク)片と花弁の区別が殆どつかずに一緒くたに花被片と呼ばれる。愕が三枚、花弁が三枚で、ちょうど六枚の花弁が雄蕊、雌蕊取り囲んでいる構造である。花は下向き。花が湛えている蜜は液体。当然重力に従って開花と同時に零れ落ちてしまいそうだが、花弁と愕には土手のような構造があり、蜜を溜める仕組みとなっている。ユリと同じく、かなり深い構造となっているので、長い口吻を伸ばして蜜を探る鱗翅目昆虫よりも、ハナバチやハナムグリのような花に入り込んで蜜を吸う昆虫の方が、受粉には貢献するように思える。三本の雄蕊はそれぞれ二段構えとなって昆虫の身体に花粉がつきやすい仕組みを持つが、雌蕊は雄蕊よりも長く伸びており自家受粉を回避するように出来ている。花粉まみれの昆虫が、次の花に潜り込む際に、先端の雌蕊が受粉する塩梅だ。よく出来ている。
花被片は花の向きが下なので、上へ反り返る。どこか蘭のような趣きがあり、可憐さと妖艶さを兼ね備えた花である。このカタクリ、実は早朝に発芽して初夏の前にははかなく消えうせてしまうスプリング・エフェメラルと呼ばれる春植物の典型的な種である。エフェメラルとはカゲロウのように、成虫に羽化していくらも生きることなく消えてゆく昆虫を指す一般名詞らしい。有名なところではフクジュソウなどがそれだ。春に花をつける植物ではなく、春だけ地上に茎、葉、花、実を付け、五月頃にはその地上部が跡形もなく消えてしまうものをそう呼ぶ。枯れるというよりは、地面に溶けるがごとく消える印象だ。茎の先にムカゴを着けるのを最後にいつの間にか消えているノビルもそのひとつかもしれない。だが、スプリング・エフェメラルは多年草で、地上部が消えても、地下で根や鱗茎は成長、つまりは養分、エネルギーの蓄積を続け、翌年に備える。地上だけ見ればはかなくとも、地下での生命力は旺盛なのだ。
カタクリも発芽一年目から毎年花を着けるようなことは決してない。一年目、二年目の鱗茎など、少女の腕の力こぶのようにかそけきものに過ぎない。それが数年を経て徐々に立派に育ち、ある年急に開花の前ぶれとなる特徴的な二枚の葉を出すようになる。結花というのは植物にとっては多大なエネルギーを要する作業なのだ。そのエネルギー源である鱗茎を澱粉にしてしまう人間は罪作りな存在である。だが、そうでもしなければ無機から有機への同化作用を持たない哺乳類が生きていけないのも事実である。ここに真の意味での原罪が存在する。
葉はオオバコのそれに似てもう少し大ぶりになった感じ。斑点がいかにも鱗茎の澱粉を連想させる。初めからしなしなした感触で、いかにも春が進むに連れて地面に溶けてしまう印象だ。名前の由来で触れた栗に似ていないこともない実だが、エライオソームなる付属体をつけていることで知られる。エライオソームは脂肪酸として名高いオレイン酸、味の素でお馴染みの旨み成分であるアミノ酸のひとつグルタミン酸など、単なる砂糖の別の名称蔗糖といった物質をふんだんに含み、アリを誘引するという。エライオソームを持つ植物を、嘘か本当か知らないがアリ散布植物と呼ぶらしい。エライオソームに惹かれたアリが種子を巣に運び込み、エライオソームだけを食糧として、残りの種子をゴミとして廃棄する。結果として発芽能力を失わないままで、アリ散布植物は、風(松やカエデ、タンポポ、フキ)や種子の構造としての反発力(カタバミ、ホウセンカ)、動物の毛皮(オナモミ、センダングサ、イノコズチ)などの助けを借りることなく、アリの機動力で遠くへと繁殖することが出来る。この繁殖方法は他にもフクジュソウ、キケマンなども用いるものであるらしい。
こういった生きるための様々な込み入った手段を持っていても、カタクリが身近に見られなくなっているのが悲しい。
妖艶でありながら清楚、華麗だが庭より野に相応しく、はかなげでありながら地中では逞しいといった様々な点でのこの植物の二面性は、結果としてこの植物が長い年月を経て子孫を地上に残すのに有効に働いている。今は人間の手でその美しさ、鱗茎の有効性から迫害を受けているようにも見受けられるが、それも大伴家持の時代から約千年のことに過ぎない。カタクリにとってこの不遇の千年は地中で鱗茎を太らせている一年のうちの十ヶ月のことを勘案すれば、受難でも何でもないのかもしれない。
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