

平将門は歴史上の人物というよりも祟り神としての方が寧ろ有名になってしまった。本拠は常陸の国、つまり現在の茨城県のはずなのに、なぜか当時武蔵の国の寒村に過ぎなかった江戸に祟りを及ぼし、それをネタにした小説家のメシの種になっていたりする。何しろ平安中期の人でしかも謀反人でもあり、現代人のイメージとしては海音寺潮五郎の「平将門」を原作とする「風と海と虹と」での颯爽とした今より一八歳若い加藤剛だったりする。大岡越前が江戸に祟りをもたらすもンか、などと揶揄してみたくもなる。
江戸は元々太田道灌が今よりこぢんまりした都市計画に基づいて建設された海辺の城下町で、今は東京駅周辺より大きな顔をしている新宿などは、徳川幕府開闢以降に内藤某が開発した内藤新宿という在だったし、渋谷などは渋谷村だった。今はBunkamuraである。都市計画に無理があるから、火事が江戸の華になったりするし、関東大地震や東京大空襲で脆くも瓦解してしまう。将門やお岩さんが祟らずとも災害が多いことが約束された土地なのだ。
日本で祟り神ナンバー・ワンといえば、菅原道真で、そこかしこに道真を奉った天神様が残っている。将門は道真が失意のうちに左遷地で生涯を閉じた頃、太宰府から遠く離れた板東に生まれている。道真の霊が将門の両親に憑依して出来たのが将門であるという伝説も残っている。道真への藤原氏の処遇は道理を逸脱したものだったのだろう。おそらく、親族との争いの行き掛かりで板東を制圧し、中央から大義名分を着せられて鎮圧された将門も、旧体制の打破を切望する民衆のヒーローであり、中央の理不尽さは包み隠しようがなかったのだろう。それらの同情が民衆の天変地異への鋭敏な反応と結び付き、祟り神として恐れられるようになったと思われる。元はと言えば、藤原氏の凋落が招いたものであろう。しかし、源氏にしても平家にしても武士として藤原風情に軽んじられるのは不当で、元々皇族である。将門にしても桓武天皇の五世程度裔に過ぎない。藤原にとって余った皇族はよほど邪魔だったに違いない。
俵藤太という人がいた。俵は田原とも綴られる。本名は藤原秀郷。将門を討った人物だ。この人と源雷光と源三位頼政の区別が時々つかなくなる。いずれも妖怪退治で有名だ。俵さんが大百足、雷光さんが大江の山の酒呑童子(山賊だね、つまり)、源三位さんが鵺。因みに雷光さんは和製オオカミ少年ケン(オオカミ少年ケンは和製でしょうが)である金太郎(坂田金時)の飼い主、じゃなかった主君である。
その俵藤太が将門を捕らえたとき、他の六人の影武者と全く区別がつかずに困っていたのを、かねてより将門側に送り込みまんまと愛妾になっていた間諜、桔梗の前に将門本人の特徴を訊ねた。桔梗によれば、本物の将門は物を食べるとき、こめかみが激しく動くということで、バレてしまった。処刑寸前の将門は桔梗の裏切りを知り激昂し、「この辺りに桔梗は咲くな」と叫び、桔梗も道連れに殺しながら首を刎ねられたという。
桔梗の前には色々な説があり、将門の実母だとか、江戸で将門の武運を祈っていたところにまで将門の首が会いたさゆえに飛んできたことでその死を知り、池に身投げして自害したとも言われている。
そンな不穏なエピソードが残っているキキョウだが、その花の在り方ははっきりした印象で凛々しく映る。万葉集の編者として、また生活に密着した貧窮問答歌で有名な山上憶良の秋の七草の歌では「朝顔」として結句に登場する。当時、未だ現在アサガオで通っている植物は日本には輸入されていなかったらしい。秋の七草ではあるが、実際には六月末から八月にかけて咲くことが多い。
普通の花は屋根瓦のように隣同士の花弁が折り重なっており、蕾からその重なった部分を開かせながら開花する。ところがキキョウは花弁がぴったりと着いた形を採る。それは蕾から同じである。従って蕾の容積も大きくなり、形としては先端部分を綴じ合わせた風船のようになる。英語ではBaloon flower、風船花だ。蕾を指で圧迫すると、パチッと音をさせて砕け散るらしい。こういうところも風船に似ている。そういえばキキョウ科のホタルブクロの花も花弁に折り重なりがない。
変わっているのは花の受粉の方法だ。ひとつの花の雄蕊から雌蕊へ花粉が受粉することを自家受粉と言う。人間でも近親婚での繁殖には不具合が出る傾向にあるが、それは植物でも同じらしい。近交弱勢といって、生育が不良で生存力も弱い。近親どころではない。両性花(ひとつの花に雄蕊、雌蕊が存在する花)の場合、自分同士の性交渉のようなもので、そこから出来たものはクローンのような存在である。種類によってはそれでも旺盛に繁殖するだろうが、大概はそうではない。
キキョウはこの自家受粉を回避するシステムを持っている。まず雄蕊だけが先に成熟して花粉を露出させる。そしてすぐにその任を終え、萎れて花弁の方へと倒れる。花粉は花弁に着き、花を訪れた昆虫は花粉まみれになる。花粉がすっかり無くなる頃、雌蕊が成熟して、他の花の花粉を着けた昆虫から受粉する寸法である。これを雄蕊先熟と呼ぶ。こうすれば完璧に自家受粉は防げる。几帳面な方法である。これもキキョウが明瞭な印象を見る者に与える隠れた理由なのだろうか。
キキョウには薬効もある。根は太い不規則な形状の塊を形成するが、これを掘り、細い根を除去して洗って乾燥させたものは桔梗根と呼ばれ、せき止め、タン止めなどの気管支系に優れた効果を発揮するらしい。
秋の七草に名を連ねているのだから、どこにでも咲いている印象がある。決して珍しい印象はない。だが、よく見掛けるのは栽培されたものに過ぎず、自生しているものは少ない。何と絶滅危惧種としてレッドブックにも載っているらしいのだ。切り花などで普通に利用されているだけに奇異な感じがする。凛々しく可憐ではあるが、それほど有り難みがあるとは思えない。受粉に際してあれほど精密な方法を採っているのに、生命力を脅かす要因が他にあるのだろうか。今は平地の草原には見られず、高原などに自生しているものが殆どであるそうだ。
几帳面な習性からしても、庭という人口の環境が適地となってしまい、もう野に生きようとはしなくなってしまったのだろうか。それにしては庭にあっても山野草の趣きが強く、他の栽培種のような押し出しの強さは感じられない。桔梗という地名は父の故郷の函館にもあるし、そこかしこにあるはずだ。昔はそういった土地には一面に咲き誇っていたのだろう。蕾、花弁のつき方といい、どことなく痛ましさのようなものを想起させる植物だと感じるのは杜氏だけであろうか。
冒頭に述べた「風と海と虹と」の出演者を調べてみたら、将門の妻を芍薬のごとき質感を伴う美しさを醸している真野響子が演じていて、それは記憶に鮮明だった。妻の略奪が関東制圧の諸端となる。従兄弟と争う女性が百合の馥郁とした香気を感じさせる吉永小百合。二度ほど陵辱されるシーンがあるのが、吉永の女優キャリアからすれば意外だ。そして桔梗は森昌子だった。「ゲェ、キキョウとイメージ、違うじゃン」と思ってしまった。よくよく考えてみたら、将門のような千年以上も祟るような強力な生命力に蹂躙されるイメージが、キキョウにあるのかもしれない。それが森昌子の個性と合致するかは別問題として。