キョウチクトウ
毒を孕む夏
どこにでも当たり前に存在するのだけれども、存在感をきっちり主張しているものがある。選挙のたびにそう思わせる政治家など、その最たるものなのかもしれない。逆にそういう雰囲気が周囲から消えたとき、政治家は政治家ではなくなり、選挙にも通らなくなるのかもしれない。かつて青島幸男は「選挙運動をしない」と公言し、それが究極の選挙運動として作用し、参院選全国区でトップ当選したことがある。今回は普通に選挙運動したのに落選してしまった。都知事を降りたことにより、政治家としての存在感が消滅してしまったとしか思えない。
風鈴、アサガオ、ホオズキ、金魚などは夏の風物詩として未だ訴求力を持っているのだろうが、微妙に衰退の翳りが見える。タチアオイなどは時代の変化により表舞台を去った感がある。野生の植物はその点、逞しい。ドクダミ、イタドリ、ヤブカラシなど、それが蔓延していない夏など考えられない。ヒマワリ、カンナなどもそうなのかもしれないが、どこか普遍的には思えないところもある。
キョウチクトウは杜氏が子供の頃から、特別な存在ではなかったが視界に入ってこないことがないほど当たり前の存在だった。夾竹桃と書く。葉が竹に似て、花が桃に似ているからこの名があるそうだ。だが、葉が竹に似ているということにはオブジェクションが呈されることが多い。それもそのハズ、竹に似ていると言われるのは中国原産のものであり、日本に定着しているものはインドからの外来種であるらしい。日本人の感覚からすると、我々が知っているキョウチクトウは、シダの一種であるオオタニワタリなどと大きさはともかく見た目で似た形状の葉を持っている。中国原産の夾竹桃は本当に竹に似ているのかもしれないし、中国人の「竹の葉」の感覚が夾竹桃の葉のような、細長くはあるが上下、左右の点対称で、分厚い概念なのかもしれない。中国とインドのキョウチクトウは同種ながら微妙に異なるものであろうし、日本人と中国人の感覚も異なる。安易に「どこが竹だ」などと突っ込みを入れてはならない。
とにかく環境に強い植物であるように見える。特別に手を掛けなくとも、よく定着する。耐暑、耐寒、乾燥に強いのは無論、海辺の砂地のようなところでも平気で育つ。耐潮性にも優れているに違いない。「背の低い樹」と辛うじて呼べる高さにまで育ち、こんもりと丸く枝を広げることが多い。この強さ、逞しさが、いまひとつありがたみが感じられない理由なのかもしれない。花は桃色のほかに白いものがあり、八重咲きと一重咲きがある。夏に咲く。長いこと咲いている。これを目にしない夏はない。
キョウチクトウに毒があることは広く知られている。アルカロイド系の物質が動物の消化器系を麻痺させるような働きかけをするらしい。昆虫などを寄せ付けない効果を呈しているのだろう。ただでさえ強靭な植物であるのに、武器まで持っているというワケだ。普通、動物は経験と本能の両面から毒物を孕んでいるものを識別し、避けるようになる。ところが本能が壊れてしまった人間には、知識でそれを認識するしかない。ウミヘビ、キノコ、ハチ、チョウなどのうちで極彩色のものは特に危ないことは何となく人間も感じることが出来る。それでも毎年、キノコ狩りで食べてはいけないものに当たってしまい、最悪の場合死者まで出るような事故が勃発する。杜氏もキョウチクトウに毒があることは感じることが出来るが、それが幼い頃から言い聞かされてきたことが刷り込まれたものなのか、単なる知識に過ぎないのか、判然としなくなっている。
ただ、動物は経験だけで警戒色を呈している生物を避けるのではないらしい。経験だけがモノを言うとしたら、一個体につき一生で一回は酷い目に遭わなくてはならない。だが、前の世代とは完全にライフサイクルがダブることなく、親からのコミュニケーションが全くない昆虫などでも端から危険なものは避ける習慣がある。不思議なことに、知識が遺伝子情報として継承されているとしか思えない。この機能が欠落しているということは強くなり過ぎた人間に自然が課したささやかなペナルティなのだろうか。戦争などで互いに大量に殺し合うことによって一定の個体数を維持するという、他の動物には見られない行動を取ることに似ているのかもしれない。
あるキャンプ場で、バーベキューを楽しもうとしていたグループが、肉や野菜を刺す串を持ち忘れた。その人達は安易にキャンプ場に生えていたキョウチクトウの枝を刈り、あろうことか串の代替品にしてしまったらしい。キョウチクトウの毒は葉にも含まれるが、最も含有量が多いのは外皮、つまり、枝の表面の樹皮である。そのグループは当然、全員が食中毒に見舞われたという。串に多用される「竹」がキョウチクトウの文字に入っていることが招いた悲劇なのだろうか。魅入られたように毒に嵌ってしまった印象が強い。
その人達が常識に欠けていることには論を待たないが、本能が壊れているホモサピエンスの一員として、彼らの愚考を他人事として笑うことなど出来ない。もし、外国の秘境でサヴァイヴァル生活を強いられたら、自分が同じような過ちを犯さないとも限らない。
あるあまり好きにはなれない放送局の、無茶を売れない芸人などにさせることで人気を博した番組で、年端も行かないガキ共に無人島でサヴァイヴァルを強いる企画があったが、そういった行為は罪作り以外の何ものでもない。人間を使い捨てにするような行為だ。生命への畏敬や個人への尊厳という感覚が少しでもあるのなら、そういった発想には至らないハズである。これも本能が壊れてしまい、生物として守るべきルールよりも、視聴率などという愚にもつかない基準を優先するようになってしまった人間達の愚かさを露呈している。そもそも若い頃政治記者として辣腕を揮い、政界に隠然たる影響力を持っているのか何だか知らないが、文化としてのスポーツに何の理解力もないくせに、自分もしくは自分が率いる集団の利益でしかモノゴトを判断できず、とても人間、いや生物とは思えないような言動を取っているボスに仕切られる局であるから、そういった愚挙に陥っても気付きさえしないのかもしれない。その番組は姿を消し、番組が生み出した泡沫のような「スター」達は元の木阿弥に戻っていった。文字通り使い捨てにしかならなかった。いや、一時身に余るものを不自然に全身に浴びてしまった分、彼らは不幸になっただけではないかと思う。
建て直す前の家の庭では、端っこにキョウチクトウが植わっていた。何もしないのに、大きくなった。ボロ屋を他人の視線から守るだけの効果はあったのかもしれない。生命力の権化のような存在なのに毒まで持っているキョウチクトウは、人間に庇護されるという恩恵に浴している。どこか不公平感を伴う事実だ。特別キョウチクトウが嫌いなワケではないが、家を建て替えてからキョウチクトウを再び庭のメンバに呼び戻す気持ちにはならない。だが、一度根付いた人の庭で、半永久的にキョウチクトウは栄え続ける。今年も夏が来た。杜氏の視界に否応なくキョウチクトウが咲き誇る姿が入ってくる。いつまでも過去の地位にしがみつき、引退勧告さえ党のトップから受けているのに姿を消そうとはしない老政治家よりはマシであろうが・・・。
本能が働かないのなら、せめて毒のあるもの、ないものを識別する知識を保とうと強く感じる。
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