メマツヨイグサ


待てど暮らせど来ぬ人を

 小説作法は名を成した大家なら一度はものしてみたい類のシロモノらしく、丹羽文雄や三島由紀夫などが上梓している。三島の著したものを呼んだ記憶があるが、「彼女」という言い回しが日本語とはそぐわないとか、僕という一人称代名詞は若さを衒ったようで好まないとか、思い切り主観の混じったものであった。そのくせ、原則として固有名詞で普遍性のないものは用いてはいけないなどと謳っている。どこか矛盾した物云いで、この作家が理数系の論理性など微塵も持ち合わせぬ、骨の髄から文系の散文的感受性で生きていたことを示している。今はどこぞの県で知事などを名乗っている作家のタナカヤスオとか云う人が普遍性のない固有名詞のコラージュをしてみせ、小説であると自称した作品など、三島に言わせればもってのほかだったろう。固有名詞の洪水でイメージを喚起する手法は、アメリカのベストセラー作家、スティーヴン・キングも多用している。これにも普遍性はないが、表現の豊かさではタナカ氏と一緒に論じてしまうのが気の毒に感じる。
 生物の名称も普遍的に思えて、実はそうでもない。特に都市部の生態系は目まぐるしく変化しており、せっかく国蝶に指定されたオオムラサキなども今は山奥に潜んでしまい、「日本全国何処にでも見られる」という重要な条件から外れてしまっている。生物の知識もなく、安易に小説に登場させるのは如何なものかとも思う。

 マツヨイグサは日本の文学に比較的多く登場させられる。最も有名なのは竹下夢二の「宵待草」だろう。「待てど暮らせど来ぬ人を・・」というアレである。学名としてはマツヨイグサ(待宵草)であるが、夢二の用いたように宵待草とも呼ばれ、こちらの語感の方が文学には相応しいのかもしれない。もうひとつ、有名なのは太宰治の「富岳百景」の冒頭。「富士には月見草がよく似合う」 本当のことを言うと、ツキミソウという公式な名称を持つ他の植物が存在するのだが、一般的には月見草と言えばマツヨイグサを思い浮かべる人の方が多い。「長嶋、王が太陽を浴びて咲き誇るヒマワリならば、オレは夜咲く月見草」とノタまった人もいたが、これは文学ではない。
 夢二も太宰も、夜に人知れずひっそり咲く清楚さをイメージしたのだろうが、今はマツヨイグサと言えば、オオマツヨイグサ、メマツヨイグサが殆どで、草丈が高く生命力に富んで、セイタカアワダチソウ、ヒメジオン、オオアレチノグクといった野原に蔓延してちょっと困ったことになる植物と肩を並べる存在である。マツヨイグサもオオマツヨイグサ、メマツヨイグサも在来種ではなく、北米大陸が原産の帰化植物だ。大正ロマン、無頼派文学も歴史的には底が浅いことを、この一事が露呈していると書いたら書き過ぎになるだろうか。今、マツヨイグサと聞くと、最初に連想するのは他の植物を押し退ける猛々しさでしかない。

 子供向けの図鑑には載っていない花を、何という植物なのだろうとずっと探していることがある。杜氏にもそれはあった。淡いピンクの花で、オーソドックスな花の形をしていた。茎も葉も控え目な印象で、丈もたかだか20センチ程度でしかなかった。杜氏はこの花こそが夢二に照会された宵待草であり、マツヨイグサとは違うものだと思っていた。ところがそれは庭にも栽培されることが多いヒルザキマツヨイグサであった。同じアカバナ科の植物だが、これを宵待草とも月見草とも呼ばない。それが判明して、なぜかとても落胆した記憶がある。

 マツヨイグサ(オオマツヨイグサ、メマツヨイグサ)はその名の通り、夕暮れが影を落とした頃から花を開き始め、夜に完全に開花する。黄色い花は夜目にも鮮やかだが、あざとい印象はない。ただ同じく一夜に見事な花を着ける月下美人のようなあでやかさはない。普通の花と言ってもいい。その後には鞘状の実が成り、如何にも頑丈そうな種を付ける。花の黄色は夜の暗さでも目立つような種の遺伝子が凝縮されたものなのだろうか。
 
無論、虫媒花だが、昼咲く花のようにハチやチョウは寄ってこない。出勤時間の関係で、これらはマツヨイグサの咲く時刻にはお休み中である。マツヨイグサの花粉を媒介するのは、大型の蛾で夜行性のスズメガの類である。丸くホース然と畳んだ口吻を真っ直ぐに延ばし、花に差し入れる。ハチドリにも似た採蜜の方法を採る。ハチドリ同様、飛翔力も強く、多大なエネルギーを要する活動的な蛾なので、夜咲くことにより繁殖が制限されるマツヨイグサにはうってつけのパートナーなのかもしれない。薄明るい花影から大型でジャノメ模様などを持つことも多いスズメガがスピード感溢れる震動音を立てて飛び出す様は、確かに絵になるかもしれない。

 杜氏はマツヨイグサがあまり好きではない。月は異常性を象徴している。人間の秘めたる狂気が月の満ち欠けの周期に同期して高まるという伝説は、洋の東西を問わずヴァンパイヤ、かぐや姫等の怪奇譯にも多用されている。マツヨイグサの黄色は狂気を帯びた月光に染まっているようにも思えてしまう。マツヨイグサの花は、その任を終えると花弁が赤みを帯びてしおれるが、血の朱を宿しているようにも感じてしまう。在来種のそれも極めて縁の深い植物同士で繁殖場所を食い潰しあっている姿も、ただ単に丈が高くより豊富な日照の恩恵を受けるオオマツヨイグサ、メマツヨイグサが有性である点にも、どこか浅ましさに近いものを覚えてしまう。マツヨイグサに限っては、ヒルザキマツヨイグサがマツヨイグサであってほしかった気がする。

 現在都心の荒れ地などで蔓延しているマツヨイグサは、オオマツヨイグサではなくメマツヨイグサであることが多いという。ほんの僅かな違いしかないらしく、まァどうでもいいことでもある。

 「アザミ嬢のララバイ」というのは、NHKの「プロジェクトX」で復活した(というか、活動自体には変わりがなかった)中島みゆきのデビューに近い曲である。「あたしは夜咲くアザミ」だそうだが、アザミは昼にも堂々と咲いているし、弱みをさらけ出した男が通うような隠微なところが実はない。オニアザミのような大きな派手な、それでいてどこかおどろおどろしい花を着けはするが、寧ろその任はマツヨイグサに相応しい気もするが、夢二の詩があまりに有名だったので、使えなかったのかもしれない。

 富士の裾野の原っぱで、薄暮に黄色い花を着けた首を揺らしながら夜が更けるのを待つマツヨイグサは、清楚げなイメージを保ちつつ、日本全国に月の狂気を地上に広めているような気がしてならない。



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