

エンブリヨという映画があった。胎児という意味である。自殺未遂した女性の胎内から取り上げた胎児に成長ホルモンを与えて救おうとした医師は、その胎児の異常に速い成長を見ることになるという一種のマッド・サイエンティスト物の変形だ。医師を演じていたのが大物俳優だが大根役者と呼ばれた、ジェームズ・ディーンの「ジャイアンツ」にも出演していたロック・ハドソンだったので、その役は露骨な異常者としては描かれなかった。異常に速い成長を経て妖艶な女性に数日で到達する胎児はバーバラ・カレラ。バート・ランカスター主演の「ドクター・モローの島」でも人外の存在を演じている妖怪女優だ。因みに007シリーズ番外編の趣がある「ネバー・セイ・ネバー・アゲイン」(「決して出演しない」なンて、決して言わないでというショーン・コネリーへの呼び掛けにもなっている)で、ジェームズ・ボンドというよりはショーン・コネリーに半ば勝利しながら、Mの発明による万年筆型ミサイルで腹に風穴を明けられてしまった悪役ボンド・ガールも、彼女が演じた。
ロック・ハドソンは「刑事コロンボ」「警部マクロード」と立て続けにNHKがシリーズ化した輸入刑事ドラマである「署長マクミラン」にも出ていたが、その三作の中では最も不人気で、「ロックはやっぱり大根ね」などと揶揄されて気の毒だった。エイズで他界したのはもっと気の毒。更にはケーリー・グラントのNGとも陰口を叩かれた。(誰に?)
と、そんなことはどうでもよくて、嬰児を知能が備わらぬままに一から養うというのには、源氏物語に一脈通じるいかがわしさを感じる。竹取物語もそうかもしれない。急成長する嬰児というのは、万人が思いつきそうな危うさがギリギリのテーマではある。
百合の球根には、その株が成長を遂げるモデルのマップが既に内蔵されているそうだ。どの程度の丈になり、葉をどう着けて、何輪の花を咲かせるかは、球根の時点で決まっているらしい。百合には成長点というものがある。草の先端で芽の先に着いているものだ。これを損ねると、成長は頓挫し、マップは実現しないままでその年の展開を終えてしまう。ただ、その年はそのまま枯れても、翌年また新しいマップからリスタートすることが出来る。秋になり、株が枯死しても球根が命果てない限り、毎年周期的に活動が繰り返される。多年草の代表的な在り方である。
モウソウチクは孟宗竹と書く、マダケと並んで代表的なタケで、いずれも中国原産である。周知の通り、イネ科の植物である。漢の時代の孟宗という人が年老いた母が冬に筍を所望するのに応えようとした誠意が通じ、竹藪から次々と筍が生えてきたという故事からの命名である。日本で言えば養老の滝に相当するだろうか。孟宗は同じ母親絡みのエピソードから、孟母三遷の孟子と混同しそうだが別人。宗というくらいでから王侯かと思えばそうでもないらしい。とても太く立派なタケであり、筍が美味しいことからも、多くの人に親しまれている。竹林はとても風情があるので、庭に植えたりする向きも多い。
このモウソウチクが、エンブリヨもそこのけの生態を持っていることはあまり知られていないだろう。筍は元々「雨後の筍」と言われるように生命力旺盛で成長も目まぐるしい。ただその生態は筍の時期に留まることがない。そのまま目に見えるほどの勢いで成長を続け、二ヶ月ほどでいい加減丈が高くなってから急に成長を止める。おそらく百合の球根と同じく、筍も成長マップが仕込まれたカプセルなのだろう。筍の縦断面に除く幾重もの凝縮された節を見てそう感じる。百合根も美味だが、筍の中にも旺盛な生命力が潜んでおり、それらが不味かろうはずはないと感じる。
人間に当てはめれば、分娩後僅か二ヶ月で身長の伸びは停まるが、枝葉は年々伸びて成長を続ける。年輪は枝を見ればわかるようになっていると聞く。ただ、花は咲かない。よくタケの花が咲くと縁起が悪いなどと言われ、一〇〇年に一度だけ花を着け、開花してしまうと枯死すると言われる。開花するとその任を終えるというのは本当らしい。悪いことの予兆というのは眉唾ものだが。杜氏は小学校高学年の頃、自宅近くの竹藪でタケの花が咲くのを見ている。黄色い風媒花風のあまりパッとしない花だった。だが、すでにその伝説は知っていたので、花を目にして不気味な気がした。
タケは木か草か、論争が分かれるところだが、開花を果たして枯れるなど、草の形質と考えられる。第一イネ科の木などは考えられない。タケはやはり丈が高くなり、それに応じて茎が強化された草と見るべきだろう。
タケは丈夫な根を周囲に浅く広く張り、分身の設計情報たる筍を根から生む。そしてあっという間に空高く育ち、葉を茂らせて根本の地面への日光を遮る。下草は当然育ちにくくなる。こうして竹林を早期に確立し、他の植物を排斥してしまう。良く出来たシステムである。丈が高いがために、風雨の影響は避けられない。このために横からの力に弾力的に応えうる中空の茎としなやかな素材の遺伝子が濃厚に伝わったのだろう。キリンが長くしなやかな首を持つに至ったが如くであろう。
竹林は広い面積と密度の高い繁殖を具有することから、神秘的なものが隠れ棲む雰囲気を醸している。アジアでは屈指の猛獣である虎が竹林と併せて描かれるのも、竹と虎双方に抱かれている畏敬を示しているのだろう。竹林の七賢人なども浮世離れした哲人集団の趣があるが、実際には大酒呑みや奇矯な行動に走る変人の集まりだったらしい。賢人と愚人も紙一重ということだろうか。前述の竹取物語でも、竹取の翁が光るタケの節を伐ることによって表出したかぐや姫は、明らかに人を超越した存在である。底知れぬものを育むに竹林は相応しい。
タケの形質は食用、観賞用に留まらず、様々な応用形を採っている。竹竿は物干しにも釣り竿にもなる。籠を編んでも良し、弾力を活かして弓にもなれば、楽器にもなる。節を利用して水筒にもなれば、青竹踏みにも活用できる。また、発明王エジソンがフィラメントに適合する素材が見当たらす苦慮している際にインスピレーションを与えた。棒高跳のポールとなって日本の競技の強化に一役買った。堅牢さを活かして野球の練習用バットにもなる。竹バットはまず折れることがない。また、タケの皮はおにぎりや肉、魚などを包む天然の保存剤となった。旺盛な生命力が細菌の発生、食物の腐敗を妨げてくれる。
ただ、こうして列挙すると、タケは何ものかの代用品としてテンポラリに使われることが多く、文明の進歩により、たとえば棒高跳のグラス・ファイバー製ポールにバトン・タッチしたように、その任を終えて、郷愁と共に語られることが多い。
杜氏は横浜中華街で、竹の筒のスープというものを食したことがある。湖南料理の店だった。何の変哲もない薄い塩味のスープに過ぎないのだが、妙に旨かった。おそらく竹のエキスが染み出てスープに馴染む工夫がされていたのだろう。結構高価で注文には勇気が必要だったが、それに見合うシロモノだった。
また最近では竹酢液が健康製品として注目されている。化学的にその効能は既に分析されているのかもしれないが、未だ知られざる要因があるような気がしてならない。
杜氏が小学生の頃は通学路の脇に竹林があった。春になると、手を延ばせば届きそうな場所に立派な筍がいくつも顔を出し、ついつい良からぬことを考えそうになった憶えがある。だが、どこか神秘的な雰囲気が筍泥棒への誘惑を妨げていた。これが柿やザクロなら簡単に拝借できたのだが・・・。実際には竹藪には、中島敦が「山月記」で描いたような人間がメタモルフォーゼした虎が潜んでいるようなことはなく、せいぜいがタケトラカミキリを見るのがオチである。だが、ひとたび邪心を抱いて竹藪に足を踏み入れたなら、上から見下ろしてくる立派なモウソウチクから罰を下されそうな気になるに違いなかった。
杜氏の勤め先である川崎市高津区の竹林に一億円以上、二億円未満の大金が見つかったことがあった。最初一億が見つかり、その後に残りが見つかったものだから、竹薮に宝捜しよろしく群集が殺到し、収拾がつかない騒ぎへと発展した。連日、勤め先のチャチなテナント・ビルの向かいにある高津警察署がTVのニュースに映し出されたものだった。手許に持っていては具合の良くない金を、誰かが竹薮の神秘に期待して捨てたというよりも、一時的に置いたのだろう。だが、そうは問屋が卸さなかった。人の旺盛な好奇心は竹薮の無謬性をも凌駕していた。タケの持つ神秘性が薄れている昨今を象徴するようなデキゴトであった。
「竹の花が咲くと・・・」という迷信も、タケの神秘性から来ているに違いない。夜風に揺れるタケが隣接する株同士でこすり合って立てる音すら、単なる擦過音に過ぎないのに何やら幽玄を覚えてしまう。
真っ直ぐで素直なものの象徴でありながら、モウソウチクは冬にも土の中でエネルギーを蓄え、一気に成長するだけ成長するという不可思議な植物だ。性質も多様なら用途も数限りない。京都でホンの少し芽を覗かせた時期に収穫され、たっぷりと付加価値がついた料理にされたものよりも、竹薮で程よく生育し、誘惑光線を周囲に放ちながら孤高を保ち誰にも触れさせないモウソウチクは、素直に見えて既に個性の萌芽が見えているエンブリヨそのものなのかもしれない。
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