ナナカマド

                                           赤のエネルギー

 前にも書いたかも知れないが杜氏は色覚異常である。遺伝だから致し方ない。赤緑色弱というものに当たるらしい。度合いもかなり強いようだ。何しろ色覚検査の本は最初の2ページぐらいしか読めない。検査のときにちょっと誤魔化して一度ぐらいサバ読んでいるところがある。色事に弱い訳ではない。色に目がない(色盲)な訳でも。

 冗談はともかくとして、最初に色覚に異常があると宣告された小学校低学年のときはとても悲しかった。杜氏は昆虫学者とか植物の研究者とか、とにかく生物学に携わりたかった。でも、色覚異常者というだけでその道を選ぶことは許されないらしかった。世の中が自分の思う通りにはいかないことを思い知らされた最初の体験だった。
 それでも色は識別できる。杜氏にとっての赤は赤、緑は緑である。ただ、杜氏が感じている赤や緑は、色覚が正常な人には別の色に見えているのだろうとは想像がつく。考えてみれば、人の感覚などを味わうことは不可能である。色の見え方が違っているからといって、識別可能な以上、そこに意味はない気がする。普通自動車の免許だって難なく取ることができた。ただ薄暗いところでの色の識別はおぼつかない気がする。逆に言えば、不具合はその程度しかない。
 人間は言語というある意味で標準化された意思伝達の手段を持つが、他の種との意思伝達は霊長類の稀少な種、ボノボのような猿とのそれを除き不可能だ。色、音、臭い、味、触感などの五感で生物のメッセージを受け止め、解釈しなければならない。中でも色は重要な意思伝達方法となる。
 昆虫の多くは人間と違って周波数特性を持っており、特定の色を呈する光の周波数の幅にしか機能しないらしい。自ら移動することが出来ない植物は昆虫の活動の助けを借りて受粉や適地への分散を行う。昆虫が可視でない色を示すことは、植物にとっては得策ではない。得策を採らなかった植物は、これまでに生き残ることが出来ずに滅んでいったのだろう。自然界の虫媒花で黄色い花が最も多いのは、ハチ、チョウ、ハナムグリといった花に集まって蜜や花粉を食糧にすると同時に、雄蕊から雌蕊への受粉に図らずも協力している昆虫類の視覚に黄色が最も強く訴えるからであろう。
 受粉ばかりではなく、結果した後の種子の分散は昆虫より寧ろ鳥類や哺乳類の果たす役割が強い。果実を食糧にした鳥類、哺乳類は種子を飲み込み、そこから移動した後に、種子を含んだ糞を排泄する。排泄物と共に地面に落ちた種子がそこに発芽し、根を張ることで植物は版図を拡張する。本能の衰えてしまった人間にも「旨そうな色」はある。ましてや他の動物にアピールする実を着ける植物が繁殖する可能性は高い。
 昆虫の視覚を最も効果的に刺激するのが黄色らしいが、旨そうな実は圧倒的に赤が多い気がする。それ以外の色だと、クワやアケビの紫色しか浮かばない。しかも、印象は赤に比べてかなり影が薄い。コーヒーは飲料にするために焙煎を加えてああいう褐色になるが、自然の状態で熟した実は赤く、しかも甘くて旨いのだという。生食しても旨いものを、人間はどこをどうこねくり回してああいう使い方を見出したのだろうか。

 ナナカマドは杜氏の住んでいる地方ではどこにでもよく根付く頑健な植物である。七回竈にくべても燃えないことから、そう呼ばれているらしい。バラ科であることの名残か、幹、茎には棘を持つ。庭木ではないが、夏に花は白くなかなかに美しい。そして秋には真っ赤な実が成る。いかにも鳥に食べてもらいたそうな色である。

 庭にナナカマドの芽が出たことがある。おそらく鳥の糞に混入していた種が芽吹いたのだろう。ナナカマドを庭に持つつもりはなかったのだが、傍らに定着したタラノキの恩恵に与るためのオマジナイとして抜かずに放置しておいた。そして杜氏は何年か実家を離れた。戻ってくると、タラノキも健在で大きくなっていたが、ナナカマドは幹の直径が二〇センチ程度で、高さは二階を脅かすほどの「大木」に成長していた。何だか南国に見るような急激な植物の成長を見る印象だった。ところがこの植物は北海道の北海道大学では並木に利用されているのだという。いかにも温暖な地を好みそうな様子であるのに、寒冷地にも適応可能なようだ。この植物の旺盛な生命力を感じる。
 花も実も楽しめるが、ナナカマドが圧巻なのは晩秋の紅葉である。これぞ赤という色に見事に色づく。群生しているところを俯瞰して見ると、山肌が燃え立っているかのような真紅に染まる。実の鮮やかな赤と変わらない紅葉はモミジの色よりは遙かに赤い。サトウハチローの「小さい秋見つけた」に「ハゼの葉赤くて入り陽色」という詩がある。ハゼは漆の一種で櫨と書く。同じ漆であるヌルデと比べると遙かに強烈にかぶれやすい厄介な植物だ。これもナナカマド同様、見事な赤い実とサトウハチローの詩通りの紅葉を示す。漆としての御利益もあるのだろうが、斬るとかぶれるのでとても厄介だ。一般の家庭で漆器など作ることはない。
 このハゼもおそらく鳥の効果で庭に種子を落とし、根を張るのだろう。紅葉の美しさを目にしてしまうと、ついつい処分できなくなってしまう。
 ナナカマドが犬と戦っているのを目撃したことがある。犬は人家の飼い犬らしかった。お気に入りの場所にいつの間にかナナカマドが生えてしまったらしく、そこに座ったり寝転んだり出来なくなってしまったらしい。必死で闖入者を排除しようとしていた。だが結果はナナカマドの勝ちだった。棘が邪魔になって自在に動けるはずの犬がナナカマドの前に降参せざるを得ないようだった。かくの如く、この植物はしたたかである。

 赤という色はなぜ人の心を惹きつけるのだろう。華やかで美しいだけではない。人の心に潜む熱情を呼び覚ますような効果がある。よく太陽の色に準えられるが、太陽光は赤から紫まで可視である七色の混合で白熱してみえるし、更に不可視の赤外線、紫外線も含まれている。決して赤のみが支配的なものではない。確かに波長の関係か朝焼け、夕焼けは赤く雲を染めるが、エネルギーとしての太陽は決して一色で表現はできない。
 ところが太陽エネルギーの象徴は決まって赤になる。「太陽が黄色く見える」というのが、ある事情によって活力が減退したことを示すのとは対照的である。闘牛場の牛が赤い布を見て興奮するというのは俗説に過ぎないようで、実はチラチラ揺れる布の動きにイライラするに過ぎないようだが、それにしても赤という色に対する情動を促すという人間の認識がなければ俗説も生じなかったろう。おそらく人間ばかりではなく、動物も植物も、本能的に赤がどのような色なのかを認識しているのだろう。互いの認識が一致して動物にとって甘美な味と栄養の獲得、植物にとって広範囲な種子の分配という相思相愛関係が導き出される。
 杜氏が小学校高学年に差し掛かった頃放映されていた、怪獣ブームを巻き起こしたウルトラQを、貧しかった杜氏は白黒TVで見ている。もしかしたら、放送自体白黒だったのかもしれない。(当時の新聞のTV番組欄にはカラー放送には「カラー」のマークが、放送開始時にも「カラー」のロゴが映し出され、白黒TVしか持たぬ貧乏人を悔しがらせた) ガラモンだったかピグモンだったかが(どうせ違いは想定されるサイズの差だけで同じ着ぐるみだが)落命するとき、グレーの血を吐いた。どうせ白黒だったから、あれはチョコレートだったという説が子供達の間には流れた。本当の色を知らない杜氏も、血をチョコレートで代替されてもわからないといった感覚で世界を捉えているのかもしれない。
 だとしたら、赤がもたらす精神的な高揚、熱情を杜氏は色覚が正常な人達とは違うふうに受けているのだろうか。知る由もない。




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