ネムノキ
ボクらはみんな生きている
「僕らはみんな生きている」は童謡というか、少年少女向けの文部省(今は文部科学省)唱歌のようなものだから、ご都合主義の偽善的内容となるのは致し方ない。映画などで逆接的、揶揄的にたまに用いられたりする。印象的なのが、タイトル・チューンにも採用された、東南アジアの国でクーデターがあり、彼の国の在留邦人が不本意にもサヴァイヴァルを展開する映画だった。原作はメジャーな漫画雑誌に掲載された漫画だったと思う。揶揄的に流れていたこの歌が、最後には作品を貫くモティーフに聞こえるようになるところが何とも複雑だ。
だがよく考えてみると、「オケラだって、ミミズだって、アメンボだって」という具合に歌詞に登場する生物は皆植物ではない。下等動物の代表だが、それも生物といった具合の基準で選ばれている気もする。植物を人間や哺乳類と同じように生物の仲間とするのは、観念的に難しいのかもしれない。余談だが、「オケラはミミズ食っちまうし、アメンボはオケラを食っちまう。友達、食っちまうのか」という大人気ない些末なツッコミを入れていた漫画家(相原コージ)がいたが、最近、オケラのようにトンと消息を耳にしない。
動物は草食性、肉食性、雑食性に大分される。肉食獣はすべからくティラノサウルス・レックスのように凶暴であり、草食獣はたとえ身体が巨大でもプロントサウルスのように温和であるように論じられる。だが、果たしてそうなのだろうか。抵抗はおろか身動きさえ出来ぬ植物を一方的に食い荒らす草食獣は、植物から見ればホロコースト、マスマーダーの体現者なのではないだろうか。そして肉食獣は狩られる側にとっては、弱い個体を群にとっての足手纏いから淘汰してくれるありがたい存在であったりもする。何ごとも「益虫、害虫」のような近視眼的かつ二元論的な見方は禁物である。人間のように雑食で、「健康のため、動物性蛋白と野菜をバランスよく摂りましょう」などと自分達だけの都合で何でも食べてしまう種が最も凶暴だ。
家電製品や自動車で、スイッチのオンオフや巻き戻し、早送りなどの基本機能にリモコンなどでの操作が用いられることには抵抗などなかったが、よりメカニカルな仕組み、たとえば媒体のイジェクトや遠隔操作によるキーの施錠、開錠、ドアミラーの開閉などが実現すると、「オーッ」と感心する傾向があった。これら自動制御はここ最近目覚しく発達し、今の子供などそれが当然と思っているかもしれない。だが、杜氏の学生の頃にはロボティクス、サイバネティクスは実現可能性検証の段階に過ぎなかった気もする。アイボ、アシモなどの最先端ロボットでも、この制御機能の高機能化、高集積化の結果に過ぎない。
機械と同じように、不動であることが規定値である植物が刺激によって、人間にとって信じ難い迅速な反応を示したりすると、やはり驚きを以て迎えられる。たとえば、ホウセンカ、カタバミの実に刺激を与えた際の種子の弾き返し、食虫植物が獲物を捕らえたときの反応、オジギソウに触れた場合の葉の開閉などである。
ネムノキは合歓木と綴る。オジギソウと同じくマメ科の植物であるが、自然の状態では大変な高木となる。ネムは眠からも来ている。夕方になると、二回羽状の複葉の小葉を合わせて閉じ、ぐったりと枝から垂れ下がるように見える。これが人間から見れば睡眠しているかのように受け取られる。「出ました、やってはいけない擬人法」である。梅雨時から盛夏にかけて、全体が淡い紅色に見える繊細な糸で紡いだような花をつける。長く糸のように伸びたものは花弁ではなく、雄蘂なのだそうだ。花は一日花で、すぐに枯れてしまうが、次々と咲くのでなかなかに鮮やかである。庭木に植える人もいる。乾燥には弱いらしく、林縁の水が貯まりそうな地形に群生することが多い。
合歓という言葉には宗教的な臭気と艶かしさが伴う。歓喜天のように、男女が睦み合い、絡み合っているような印象だ。これも複数の株が仲良く寄り添って、咲き乱れているような印象から当てられた字なのであろうか。夕べに葉を閉ざして、ぐったりとしている様にエロティックなものを感じた人が多かったのだろうか。それとも、本来動かないはずの葉が開閉することに艶かしいものを感じたのだろうか。
盛夏が過ぎると如何にもマメ科植物らしい立派な鞘入りの実をつける。フジにも似るが、あれほど鞘がいかめしくはない。熱帯地方の国へ行くと、よくマメ科植物の巨大な実を見かけるが、それを想起させる。ネムノキも東北以南に繁殖し、北海道には見られないようであるから、本来熱帯性なのかもしれない。
杜氏は御伽噺の類が苦手で、幼い頃は恐怖からほとんどの童話を読むことが出来なかった。「ヘンゼルとグレーテル」も「白雪姫」も「ニルスの不思議な旅」も皆怖い。「ジャックと豆の木」も怪談だと認識していた。だが、ネムノキや熱帯の巨大マメ科植物を見ると、豆の木がスカイ・スクレイパーとなるのも頷ける気がする。うっかり登って大男に追われるのは嫌だけれど。
さて、どうしてネムノキは「眠る」のだろうか。オジギソウはネムノキに非常に近い種で、別名眠り草とも呼ばれる。ネムノキ同様、夕刻に葉を閉ざす。だが、オジギソウは夕刻ばかりではなく、刺激、振動に反応して、非常に速く葉を閉ざすことがある。この動作が「お辞儀」をしているようなので、その名がある。正に運動と呼ぶに相応しい。そのメカニズムは神経を伝わる電気信号によって起きるらしい。それがオジギソウの細胞を構成しているタンパク質の組成を崩し、組織が崩れたことによってそれまで堰き止められていた水分が移動して葉を支える枝が垂れ下がる結果を生むらしい。この反応には進化論の祖であるチャールズ・ダーウィンも高い関心を示していたという。
メカはそうであっても、理由はここからは窺えない。いや、理由など植物が意図しているワケではない以上、ないとも言える。だが結果として、オジギソウの反応に動物はたじろぐ。外敵を遠ざける効果はありそうだ。またネムノキも葉を閉ざしてしまえば、夜行性の葉を食む昆虫の被害を回避できるのかもしれない。また、高木性から熱帯の産であるという仮説を立てれば、個体全体の温度調整に効果を呈しているとも考えられる。保温効果だ。だが、これらを断じるほどの見識は杜氏にはない。あくまでも結果から類推可能な推察に過ぎない。
オジギソウ以外にもクサネムという種があり、葉の構成など、ネムノキの良く似ている。草丈は1m程度なので、寧ろオジギソウに似ているかもしれない。ネムノキと異なり、花は如何にもマメ科らしい、スウィートピーのようなものなのだが、やはり葉は運動するという。葉が日光に対して垂直になるように、つまりは太陽エネルギーを最も有効に受けるような角度で、花の向日性のように向きを変える。そして、日が傾くとネムノキ同様、やはり葉を閉じてしまう。
ダンシング・フラワーなるオモチャが流行ったことがあった。音楽に合わせて踊るような動きを示す植物を模したカラクリである。何でも「カワイイ」で処理してしまう若い女性には「カワイイ」のかもしれないが、アレ、可愛いだろうか? 杜氏には不気味に感じられるだけである。だが、生命を宿し、その生命活動として示すネムノキ、オジギソウ、クサネムなどの所作は、ダンシング・フラワーごときとはまた別の意味合いを持ってくる。いにしえの日本人もそこに性的に艶めいた何かを感じ取ったのかもしれない。と思ったら、そう感じたのは日本人だけではないらしい。西洋の観念でしかない花言葉はネムノキの場合、「歓喜」だそうだ。
深い森の緑は女性の誘惑を思わせると暗喩していたのは、松本清張の「天城越え」だっただろうか。それともそれを映画化した作品だっただろうか。(断じて言っておくが、某女性演歌歌手の下品な同名作品とは無関係である。「あなたを殺していいですか?」だって? いいわけないだろ!) 綺麗な緑に浮き上がる懊悩の糸が絡み合ったような薄紅色のコントラストが、今年も夏になれば林を彩るのだろうか。
「オケラだって、ミミズだって、アメンボだって」というより、「アロエだって、コンブだって、アオカビだって」、みんなみんな生きているンだ、友達なんだ、である。
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