

若かりし頃のダスティン・ホフマンが主演していた映画「卒業」は、冷静に考えると別段どォってことはないストーリーだが、ラストの花嫁略奪シーンのインパクトが大衆に強烈なアピールを与えたために大ヒットしたのかもしれない。ストーリーだけなら同じホフマン出演作品でも、「真夜中のカーボーイ」(水野晴郎が「カウボーイ」を「カーボーイ」と表記したため、余計な注釈が必要になる)の方が優れているように思う。その衝撃のラストも、ホフマン演じる青年の優柔不断のケリをつけるための暴挙でしかなく、身勝手を身勝手でカバーしているようで納得いかない。キャサリン・ロス演じる恋人につきまとう展開も、今ならストーカーじみている。
同じ時期にヒットした「いちご白書」は、ユーミンが楽曲のモティーフに採用したが、原作はアイヴィ・リーグにも名を連ねるコロンビア大学の学生の手記であり、ノンポリ、ノンセクトでありながら、政治活動に関わらざるを得ない時代背景を物語っている。卒業がこれらからの卒業も意味しながら個人の欲望ゆえの苦悩に閉塞しているのに対して、いちご白書の主人公は閉塞感を感じざるを得ない状況にあっても、最後までどこか傍観者然としていてスチャラカなスタンスだ。こちらの音楽は当時政治色を孕んだテーマを好んで取り上げていたウッドストック・フェスティヴァルの中心的存在、クロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤング、他。卒業の音楽はサイモンとガーファンクル。
余談だが、今やシスターズ童謡歌手・由紀さおりが「夜明けのスキャット」を唄ったのは一九六〇年代終盤。それに先立ってサイモンとガーファンクルは「サウンド・オヴ・サイレンス」をリリースしていたが、不発。それがひょんなこと(あるDJが気まぐれにライフ・サイクルが終わっている同曲を掛けたら再燃して大ヒット)から、卒業の主題曲に取り上げた。日本でも映画のヒットに合わせてマーケットに上ったが、多くの日本人はそのイントロから衝撃的な曲だと感じてしまった。彼らは気づかないままだが、それにはある理由があった。「サウンド・オヴ・サイレンス」は「夜明けのスキャット」と同じメロディだったのだ。計らずも「夜明けのスキャット」が刷り込まれていた日本人の脳に「サウンド・オヴ・サイレンス」がヒットしてしまったのだ。前者の作者は、埋もれた名曲であるハズの後者が再発掘されるなど夢にも思わなかったのだろう。アーメン。
「卒業」では他のサイモンとガーファンクル作品も採用されており、最も印象的だったのはハーモニーがとても美しい「スカボロー・フェア」。スコットランドかイングランドの民謡にポール・サイモンがいかにも彼らしい、小才の利いた(半分イヤミ)反戦メッセージを重ねている。そこで多用されているリフレインが「パースリィ、セイジ、ローズマリー・アンド・タイム」。日本民謡に当てはめれば合いの手か、解釈によっては女性達への呼びかけか。このフレイズはサイモンがいたく気に入ったのか、アルバムタイトルにも使われている。
で、何が言いたいのかといえば、これらは今日本でも流行しているハーブの名の羅列でもあるのだ。パースリィはパセリ。あとは説明の必要もないほど日本でも知られるようになった植物である。
「Wけんじ」みたいな迂遠な枕で恐縮である。
ハーブはこれまた流行しているガーデニングにより、大切に栽培されていることが多い。園芸店に行けば最近は必ずハーブ・コーナーがあり、スカボロー・フェアのリフレインのハーブも容易に求めることができる。これらは日本の在来種では無論なく、元々外国産のものだ。ハーブを愛でる人のほとんどが、ラベンダー等も加えたこれら輸入ハーブを栽培しているに違いない。ところが、ありがたみは薄いのかもしれないが、本来日本の山野は、食することが出来る植物に溢れている。
田の雑草に過ぎないセリ、蔓はクリスマスリースにも利用できるアケビ、どこの空き地にも蔓延っていたフキ、林の木陰には大概群生しているミツバ、海辺近くにいくらでも成っているクコ、珍重されるワリにはトゲが邪魔なタラノキ、掘るのは面倒だが手軽にムカゴも食用になるヤマイモ、葉に模様があって口にするのが憚られるが「おひたし」がいけるキボウシ、etc. 枚挙に暇がない。道端のタンポポだって灰汁さえ抜けばうまいし、七草粥の春の七草の大半がペンペン草のようなものである。食料品店では、ローリエと称して月桂樹の葉の乾燥させたヤツがご大層な包装をされて売られているが、庭先から月桂樹の葉を集めて冷凍保存しておけば料理には事足りる。
いわゆるハーブだけがハーブなのであって、これらの野草はハーブとは呼ばないのだろうか?
自宅の法地の脇にどこの家の土地でもないスペースがあって、放っておくと雑草が蔓延って大変なことになる。杜氏はゴールデン・ウィークに毎年、そこの除草をするのであるが、毎年役得がある。アサツキとノビルが毎年獲れるのだ。
アサツキには少し高級感が伴うが、ノビルは杜氏が幼い頃からちょっと注意していれば道端でも簡単に見つかる身近な草だった。子供の頃は掘ってきて軽く洗って泥を落としただけで、小さな球根を生で食べたものだった。ユリ科のネギの一族だからタマネギ、ニンニクと同種の辛さがあるが、生でも支障はなく案外うまい。子供の遊びの副産物としては上々である。ラッキョウに最も近い味がする。
今なら、軽く湯がいてミソをつけて食べるか、柔らかい茎や葉もおひたしにするか、酢味噌でヌタにする。大人のおやつにも、ちょっとした酒肴にもなる。
だから春になると鵜の目鷹の目でノビルを捜すようになった。すると至るところに簡単に見つかることに気づかされた。空き地や野原は勿論、人の家の庭先、それこそ道端。国道の中央分離帯のコンクリートの中に入った土に群生しているのを見たときは、軽い驚きがあった。アサツキだとこういうワケにはいかない。
ゴールデンウィーク頃になると白い花を咲かせるが、ほどなく草の先端にムカゴをつける。これを拝借して庭先に数年前蒔いておいたことがある。それが根付いて毎年庭の隅で群生しているが、収穫しても量にすると一回ヌタを作ればそれで終わってしまう。それに根こそぎ使ってしまうと、来年からもう生えては来なくなる。おかしなもので草取りで得られた副産物ならその場で調理して食べてしまうが、自分の庭で獲れるとなると、勿体なく感じてしまうのだ。人間は変な生き物である。
同じ草でもハーブと呼べば何か大層なものだと感じてしまう。でも道端にいくらでも生えているヨモギの若い芽を摘んでも売り物と変わらない香りのヨモギモチが出来る。一時期皆がもてはやした「卒業」が、ラストシーンのデコレーションを除けば、冷静に考えると俗な話に過ぎなかったように、日本人はどォってことのない欧米のペンペン草をありがたがってはいないだろうか。逆にノビルのようなどこにでも生えているものを自分で見つけ、楽しむような遊び心が失われているように感じてしまう。
路傍のハーブを見出せる環境は捨てたものではない。ただし、セイヨウタンポポのように在来種のような顔をして、実は外来種だったりするのも業腹ではある。でも、腹に入ってしまえばそれも変わらない。「夜明けのスキャット」のメロディが「サウンド・オヴ・サイレンス」と同じであろうが、曲の大半をスキャットで引っ張ったのはオリジナルなアイデア。とやかくいうのは、ハーブと路傍のハーブを差別するのと同じく狭い了見だ。
ハーブであろうが路傍のハーブであろうが山野草であろうが、動物が持ち得ない同化作用(無機質→有機物の光合成による変換)で、動物を養ってくれる植物には敬意を払って頂くべきである。