

シンデレラといえば、日本人の耳には輝かしい響きがするかもしれない。だが、語源を辿れば何のこともない。陸上競技でレンガ色の水捌けのいいトラックをアンツーカ(全天候の意)と呼ぶが、それ以前の灰土を敷き詰めたものはシンダー・トラックと称していた。シンダーとは灰にほかならず、シンデレラは家事にこき使われている灰だらけ娘を指す。カマド仕事で灰だらけになったのであろう。シンデレラの寓話を「灰被り姫」と訳している本も確かあった。シンデレラの寓意は欲望を剥き出しにして他人を踏み台にエゴを通そうとする者より、つましく暮らす者にこそ幸運がもたらされるということなのかもしれないが、印象的なのは魔法で繕った主人公の豪奢な装いが、時間制限付きで消えてしまうことだ。ガラスの靴が適合して、主人公は幸福を手にするだろうが、人の生涯もまた時間制限付きである。結局は手にした幸運も、シンデレラに与えられた現世に留まる時間が尽きれば灰燼に帰してしまう。こうなると、魔法でもたらされたものが二重に悲しく感じられる。人間は自然界の魔術によって、限りある時を生かされているのであって、全ての人類がシンデレラに思えてくる。
一夜に咲いて一夜に消えて行く花で有名なのは月下美人だ。サボテンの一種で、闇に生える純白の大輪の花を開かせる。観賞用の植物として普及しているので、その美しさには目を瞠らせるものがある。ただ、一日花は月下美人だけではない。
ユリの花は見た目にも美しく、強い芳香を周囲に放つ。生き延びるためのエネルギーを花に集約したような植物である。名前の語源も花が重くて、風に首が揺れるような形態をしていることから来ている。咲き誇る期間も他の花よりかなり長い。花屋で売っている切花は、当然エネルギー源の球根から切り離されているが、それでも十日以上は保つだろう。ユリの花が普通の切花より高価なのも、花の見事さと共に長く楽しめるからであるように思える。だが、ユリ科の植物は多岐に渉っており、必ずしも長く花をつけているものばかりではない。
ノカンゾウはヤブカンゾウ、ハマカンゾウなどと同じく萱草と綴られる。ユリ科ではあるが、ワスレグサ属という分類もされている。ユリに似た形状の花をつけるが、一日花で、朝開花した花は夕方にしおれて枯れてしまう。ワスレグサという名称が哀れを感じさせる。花の色は紅を帯びた橙。花弁の中心はより黄色味が強い帯となっている。ヤブカンゾウと花の色や形が良く似ているが、ヤブカンゾウが八重咲きなのに対して、ノカンゾウは一重咲きで、よりシンプルである。地上に近い位置に細長い葉を伸ばし、その中心から花茎をかなり長く(50〜70cm)伸ばす。次々と開花するので長く咲いている印象があるが、そうではない。杜氏は長いことカンゾウ=甘草だと認識していたが、ハーブや漢方薬、茶などに用いられる甘草はリコリスというマメ科の植物であり、全くの別種である。
湿地などに多く見られるが、元々海に近く、かつては湖沼が多かった三浦半島にはそこかしこに見られる。少なくともヤブカンゾウよりは多く見られる。川沿いの土手などに咲く印象が強いが、京急線の線路脇の傾斜地に群生しているのを毎年見かける。鑑賞にも堪えうる花なので栽培もされるが、野に咲いているのが似合う花である。この花が咲き始めると梅雨もそろそろ明けると感じる。梅雨明けから盛夏にかけて開花する。
花茎の若芽を酢味噌和えにすると絶品らしいのだが、ノカンゾウと言えばやはり花を楽しみたいと考えてしまうので、食したことはない。ヤブカンゾウも薬草として用いられるらしい。一日花とはいえ、一株に咲く花は多く、花に多大なエネルギーを注いでいることはユリと変わらないのかもしれない。そのエネルギーゆえに若芽は美味なのであろう。
短時間で枯れてゆく弱々しい印象は薄い。しっかりした花である。月下美人もそうなのだが、自然はなぜはかなく消えてしまうものにかくも鮮やかな姿を与えるのだろうか。虫媒花である。花粉を一度雌しべが訪れる虫達から受ければ、花の役割はそれで事足りる。短時間にそれを為すには、昆虫にとって魅力的で、目に付く在り方が必要なのであろうか。
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」 自らの女性としての煩悩に苦しみながら、それを綴り続けることをライフ・ワークとした林芙美子の慨嘆である。このように花は美しく咲き誇るがゆえに、はかない存在であることを引き合いに出される傾向にある。短期間に咲いて散るのをよしとする日本人の価値観は、桜を最も好むことからも窺われる。ただ、殆どの昆虫が一年をライフ・サイクルとしているように、生物の一生の価値は長さでは決まらない。開花は植物の生殖行為である。セックスが刹那的であり、耽美的であるのは、植物の世界でも変わりがないのかもしれない。苦しきことのみ多いというのは人間側の勝手な感情移入に過ぎない。芙美子女史には失礼ながら。
灰被り娘は大概灰を被りながらその境遇を全うする。メリー・ポピンズのように煙突掃除に労働の歓びすら見出すかも知れない。辛い境遇なのかどうかは本人にしかわからない。恵まれた姉達も、大概は寓話の世界のように意地が悪いワケではなく、物質に恵まれ精神的に満たされている子供は、素直で思いやりがある人間に育つ可能性の方が高いように見受ける。そういった恵まれた子供達に悪い性格を仮定するのは、恵まれない側のやっかみであるケースが多い。ただ、恵まれている側の性格が歪んでいなければ、おとぎ話は編みにくくなるだろう。"And
they're happily ever after"は「そして二人はずっと幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」という童話のお約束の結末である。だが佐々木小次郎を倒した宮本武蔵がそのまま無敗剣豪伝説に彩られて生涯を終えたワケではなく、雄藩に就職して権力の傘下に入ったように、永遠に続く幸福に主人公達が浸ったワケではあるまい。生きてゆく以上は、幸福感に包まれたままではいられない。逆にそうだとしたら不幸でしかないのではあるまいか。美しく繕われた絵の中に永遠に塗りこまれるようなものだ。シンデレラは刹那の幸福を抱き締めながら、ガラスの靴公募キャンペーンに応じることなく、かいがいしく働き続けた方が幸福だったと思われる。少なくとも杜氏にはなれない宮廷での暮らしが、彼女にとって、不幸の向こうにあるもうひとつの不幸であるように思えてしまう。
次々と日々花を咲かせ、すぐに枯らしながら盛夏を駆け抜けるように生きるノカンゾウも、それが毎年繰り返される限りは幸福なのかもしれない。
悠久の地球または宇宙の営みにとって、数十年の人の一生も花の一日の命も、限られた短い時であることに変わりはない。
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