

小学校三年の冬に一戸建ての家に移り住んだ。横須賀の北端、横浜市との境の日産自動車の町として賑わう場所から、市の東南の外れで田園と漁港の名残がある田舎町への転居だった。父が買った土地に空き地の状態から何度も訪れた。鬱蒼とした草むらで、棘を帯びたタラノキが猛々しく茂っていた。当時はそれが貴重な山菜なのだとは知らなかった。住んでいる土地と較べ、どこかワイルドな感じが、植生からも窺えた。今考えれば大差はないのだが。
そこが庭になるとは、空き地であった頃には想像も出来なかった。そもそも、アパートや社員寮でしか生活した経験がなかった杜氏には、庭という概念が明確ではなかった。花壇は他人が整え、足を踏み入れてはいけない場所であったし、植物は植えるものではなく、野山に生えているものでしかなかった。
転居してみると、父は庭木をほうぼうから集めてきた。無論、ちゃんとしたものもあったが、近くの林を散歩しながら移植可能なトベラやアオキ、グミの小さな株を物色したりもした。杜氏も庭というものはそういうものだと認識していた。
家庭菜園もこしらえた。トマト、ナス、キュウリ、カボチャ、ジャガイモなどを収穫して食卓に上らせたこともある。レモンなどもあったが、実は着けなかった記憶がある。
最初にプランターに種を蒔き、移植して開花まで育てたのはペチュニアだった。自分が植えた植物が花を咲かせるのは嬉しいものだった。そのうち、ベンケイソウやカンナ、サルビアにパンジーなど、色々なものを植えることになる。父が身体をこわして入院することになる小学校5年の年に初めて植えたのがオダマキだった。
苧環と書く。芋はイモではなく、麻の糸のことらしい。それを中が空洞になるように珠状に巻く道具、または巻き取っている様からついた名であるという。苧は本来、「お」ではなく「を」と綴られるべきものらしい。確かに外側に花弁にも擬せられた萼がつき、内側に筒状の花が突き出た形状、萼から花の後方に象られた蘂の存在、花から覗く雄蕊など、他の花にはない趣を持つ。高山植物、山野草と位置付けられるミヤマオダマキ、野趣あふれるヤマオダマキ、生育しやすいセイヨウオダマキなどがあるというが、杜氏が育てたのは普通のオダマキだったようだ。紫色の萼、同色の花弁で萼先には白い縁取りがあったように記憶している。とても育て易かったように記憶しているが、そうでもないらしい。単に植えた場所が適地だったのだろう。暑さと乾燥に弱いようだが、家の北側の日陰に植えたものだ。単なる怪我の功名か。
葉や茎はキンポウゲそのものに見える。キンポウゲ科の植物の常として毒草でもある。ということは薬草にもなりえるということだが、寡聞にして薬にしたということは知らない。
源義経の愛妾であった静(白拍子の静御前)が捕らえられ、源頼朝、政子の前で「しずやしず 賤の苧環繰り返し・・」と舞い唄ったというのは有名なエピソードである。ここで「しず」は無論静の「しず」であり、倭文の「しず」であり、賤の「しず」でもあったらしい。柴田勝家が豊臣軍に滅ぼされた賤ヶ岳のしずであろう。「倭文(しず)のおだまき」というのはそれだけで慣用句でもあったらしい。つまりは語呂合わせと枕詞で出来たような歌だが、当時の最高権威である鎌倉武士団の頭領と敵対し、破滅が運命付けられている恋人への思いと併せると哀切な響きに充ちる。この場合は残念ながら苧環は花のことではなく、詮ない繰り言としての糸巻きを指すのだろう。ただ、苧環の花にはそういう静の思いを連想させるものがある。
余談だがこの賤しいを意味する「賤」だが、静岡県(静岡市)の名の元にもなっているらしい。本来、その地方の中心地を示す府中と呼ばれていたのを、ふちゅうは不忠に通ずるということから、賤機山を臨むことから賤ヶ丘がいいのではという案が出たが、賤はまずいということで静の字が振られたという。
静の一途な思いにほだされた政子が情けをかけるというのが定説になっている。政子と言えば浮気性の頼朝への嫉妬深さや尼将軍としての気丈さが喧伝されており、このエピソードは政子の意外な女性らしい心遣いを強調する機能を果たしている。それだけに北条側のプロパガンダの臭いがする。第一、当時の「正史」である吾妻鏡は徹底して北条側に都合のいいように出来ている。頼朝は当代一の権力者であったのであるから、側室の五,六人もいてもおかしくはないと思われるのに、政子はそういう気配があると相手の存在を抹殺にかかっている。頼朝が無類の女性好きであったというより、政子が異常に嫉妬深かったのではあるまいか。
その後の静の行方が杳として知れないことからしても、頼朝の前を退いてから、静はひそかに処刑されたのではあるまいか。鎌倉幕府誕生後の血腥い権力抗争と死屍累々の惨状からして、そう考えるのが自然である。例えば、左遷先に送られる途中で惨殺された梶原景時などは名のある鎌倉政権の中心人物なので、その経緯が今に伝えられるが、今で言えばアイドル歌手の静の最期は歴史に残る可能性が薄い。
花と鎌倉幕府の目まぐるしい政争とは無縁だが、女性の繰り言も権力抗争も花の一生も、すべからく生命の営みは「詮ない糸巻き」に似ることでつながっている。
杜氏の家の庭に咲いたオダマキは、多年草でありながら宿根というイメージにはほど遠く、ほとんど一年草のように毎年同じ場所に種を蒔いていたように思う。聞けばやはり寿命は短いらしい。その代わり、実は歩留りよく実り、種も効率よく採取できた。改良種が多いことのひとつの原因には、容易に他の株と交配して様々なバリエーションを持った花が出来ることにあるという。花の色が変わったり、萼先の縁取りが違っていたり、フリル状になったり・・・。他の品種の種子を蒔いた憶えもないのに、例年と違ったパターンが現れることも屡々だという。セイヨウオダマキなど花の色の明るく、いかにも多様な形態を持っていそうに見える。
だが、ウチのオダマキは在来種で頑固だったのか、濃い紫の花を毎年つけ続けた。杜氏は交配しやすいとか、多年草であるとか、暑さや乾燥に弱いというこの花の基本的な性質を知らぬまま、毎年決まった場所に種を植え続けた。長い入院生活から退院した父が戻った小学校六年の冬が過ぎてもそれは続いた。そのうち、塾通いだ、部活だ、生徒会だ、ホレタハレタだ、受験だのと、杜氏の生活が雑多なものに浸蝕され、家の庭をいじくることの優先度が相対的に下がることになり、いつの間にか庭の隅からオダマキはひっそりと姿を消してしまった。
また植えてみたい気もする。何の配慮もせずに、「元々そこいらに生えているキンポウゲみたいなもの」という認識で育っていたオダマキであるが、今はガーデニングブーム。ガーデニングの本やインターネットで調べてみると、中級者向けだの、水やりがどうだの、日当たりがどうだの色々なことが書いてあり、とても面倒な敷居の高い花になってしまった感がある。品種毎に扱い方も違うし、ミヤマオダマキのように高山植物として扱われているものすらある。気軽に生えてきて、簡単に面白いように種が取れた気むずかしいことなど少しもなかったオダマキが懐かしい。
変わったのは植物の方だろうか? それとも杜氏達人間の方であろうか?
しずやしず 賤の苧環繰り返し 昔を今になすよしもがな
静御前の歌がいみじくも、いつの間にか庭の植物を蔑ろにするようになってしまった杜氏の心に染み入ってゆく。
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