オオイヌノフグリ

顔と名前が一致しない


 世の中にはひどい名前のつけ方もあるものだ。今朝TVで、ある「科学情報番組」を見ていたら、福岡県のある地方ではイソギンチャクを食用にするらしいということを報道していた。普通の魚屋の店頭に並ぶ商品となり得るらしい。地元では「ワケ」と呼ぶらしい。これは通称で、フルネイムはワケノシリノスだとか。「若い者の尻の穴」が語源らしい。地元民は「ホラ、似てるでしょ」と言っていたが、似ているも何も、そンなもン「似ている」とわかる方が怖い。どうしてそのような倒錯的な命名が通ってしまったのか不思議である。
 因み九州で食用にする若い者の尻の穴は、好物にしているアサリの影響もあるのか、味噌汁、から揚げ、湯引きなどで旨いらしい。
 一時期脚光を浴びたホイチョイプロダクションというのは、杜氏個人としては受け容れ難い連中だが、どうでもいいことで正鵠を得た発言をすることがある。刑事ドラマで太田黒とか蛭田だとか鮫島とかいう名前が刑事側でない人間に命名されていた場合、ほとんど犯人か悪役であると見て間違いないが、例外もあってスポンサーがそのような名前であればその限りではないとか。う〜ん。大黒という名で(摩季ではない)清楚な美人も知り合いでいたし、比留川という後輩はいいヤツだったし、世の中そういう単純なものではない。本人が拒否できない苗字でそういうことを判断されても困る。

 杜氏は気候温暖な地方で生まれ育ったので、あまり冬と春に極端な差はないのだが、それでも子供の頃は春になるのが待ち遠しかった。童謡・春よこいの図式にすっぽりはまっていたかもしれない。春を最も直裁的かつ的確に象徴しているのが、いっせいに咲き始める種々の花だ。日本人は花といえば連想ゲーム式に桜を思い浮かべるかもしれないが、桜の開花に先立って南関東ではさまざまな花が既に咲いている。梅は勿論、ユキヤナギ、コブシ、ヤマブキ、サザンカ、寒ツバキ、そして菜の花。桜は確かに日中見ると心を晴れがましくさせてくれるし、夜には妖しげな気持ちを誘う華やかさと奥行きを持っているが、杜氏にとって「花といえば何」と問われれば、答えは桜ではあり得ない。一番好きな花はヤマユリにとどめをさす。また、杜氏にとって花といえばオオイヌノフグリを連想してしまう。
 春の野ばかりではなく、路傍に当たり前に咲いている花である。地面近くに低く生え、瑠璃色に近い明るい青のとても小さな花をつける。群生していることがほとんどで小さな花が数多くかたまって咲くが、キク科の花のように花弁一枚が独立した花で、大輪の花に見えるのは実は花の集合体というようなものではない。ちゃんと一輪ずつ独立した花である。春になって外出すると、低い子供の視線からは必ずこの可憐な花がまず最初に目についたものだった。オオイヌノフグリの咲いている風景には必ず明るい陽光が付いて回るような気がする。ちょうどツユクサが球状の朝露を孕んだ葉を伴っていたり、ホタルブクロが梅雨の木陰にひっそり咲いているように、オオイヌノフグリは心浮き立つ春の遠足を思わせる。小さ過ぎて花束にも首飾りにもできない。名もない路傍の花といってしまえば、それで終わりかもしれない。でも杜氏にとっては印象的で忘れなれない花なのだ。
 名もない花などはない。「名もなく貧しく美しく」などと人は清貧を称えるが、名のない人間もいない。それぞれのアイデンティティを持っており、生きて行く上で自己同一性を求めなくては埒があかない。で、オオイヌノフグリである。フグリとは睾丸の古称である。しかも犬の睾丸。その上、大きな犬と来ている。これほど外見とそぐわぬ名前も珍しい。花の形がその名称が示すものに似ているらしいのだが、これほど可憐なものに犬のキン×マを連想する人間の方が少数派に思えるのだが。

 サルノコシカケなど形状や材質感をみごとに表現しているし、マツヨイグサやツヅレサセコオロギのように叙情を感じさせる命名がいくらでもある。生物にとって人間が勝手に為した命名など自分の活動には何ら関係がないのだが、時にあンまりと思えるような名前もある。バフンウニのように、あンまりではあるが見かけからして納得せざるを得ないもののあるが、同じウニでアリストテレスノチョウチンのようなシュールでユニークで哲学臭さえ漂うものもあると思うと、考えさせられてしまう。名は体を表すというのは、時として必ずしも真ではない。
 せめて皆さんは道端でオオイヌノフグリを見かけても、犬の睾丸など連想しないで頂きたいものである。


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