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早川義夫という人がいる。才人である。だが変人でもあるに違いない。音楽家だが、活動をやめて最近まで書店を開業していた。その書店は杜氏が通勤する駅前にあったらしいが、怖いので探してはいない。グループサウンズ(って何だったンだろう?)のブームが末期に差し掛かった頃、登場し、ある意味で日本のフォーク・ロックの旗手となる。ジャックスというグループを率い、「からっぽの世界」などで好評を博した。戦争で亡くなった子供が「ぼく、死んじゃったのかな」などとモノローグを重ねる歌詞で、深夜にラジオから流れてくると、一人でトイレに立てなくなるという賛辞(?)を浴びた。
その早川の作品で最も知られているのが「サルビアの花」かもしれない。美しい旋律と叙情溢れる曲である。当時アマチュアとプロの界面で、一大勢力を誇っていたヤマハ音楽コンクール系の「もとまろ」という女子大生ヴォーカル・グループのヴァージョンが最もヒットした。歌詞も爽やか系と思いきや、そこは早川義夫。ケレンに満ちている。カンツォーネの名曲であるラ・ノヴィア(白く輝く花嫁衣裳に・・・祭壇の前に立ち偽りの愛を誓う・・・)の日本語版のようなのだが、微妙に違う。独善的なストーカーが一方的に想いを寄せている女性の結婚式に姿を見せ、迷惑がられ、それどころか怖がられているのに、祝賀の列を勝手にまびつ転げつしながら追いかけるという内容である。同じシテュエーションでも、映画「卒業」のラストでの花嫁略奪のカタルシスもない。早川自身、サルビアの花を女性器の象徴として捉え、それが血を流しているイメージで描いたとか、「サルビアの花をあなたの部屋の中に投げ入れたくて」というパートの「部屋」が子宮で花びらが精子を暗喩したものであることを語っている。「君が死ぬまで抱き締めていよう」というのも、相手が死んでも自分は生き続けていることが前提であり、よくよく考えると死姦を連想する異常さ、徹底した利己主義に行き当たる。作詞は早川の名義にはなっていない。気持ちの悪い使われ方で、サルビアが気の毒に思えてしまう。
サルビアはブラジル原産の多年草。シソ科である。在来種でもハルノタムラソウ、ナツノタムラソウ、アキノタムラソウ、アキギリなどが類似種であるらしい。和名はヒゴロモソウ。緋衣草であろうか。赤い花が印象的だが、青や紫などもある。日当たりのいい土地で、シソ科植物らしい茎の先端に多くの花を次々と咲かせる。陽気な印象の花である。だからこそ、早川義夫が屈折したモティーフとして用いたのだろうか。
花の奥の方にたくさん蜜を蓄えている。杜氏は子供の頃、下校の途中の人の家の庭先から花をくすねて、茎側の断面から蜜を吸ったものだった。正に道草を食っていたというヤツだ。大人になってからこのことを話したら、随分多くの人が同じことをやっていた。花にしてみれば人間は花粉を媒介しないどころか、手折ってしまうので迷惑な話である。青みかかった品種には花の入り口の方から奥へと白い筋が走っている。これは花に寄ってくるハチを奥へと導き、受粉を促す導線であるらしい。ハチは赤い色を認識できないらしいので、赤いサルビアには導線がない。では、赤い花はどうやって花粉を媒介してもらうのだろうか。原産地ブラジルではハチドリ(Humming
bird)が多く、鳥は赤を認識する。また、奥行きの深いサルビアの花粉を蓄えている部分まで、ハチドリの長い嘴は到達可能だ。赤いサルビアはハチよりハチドリの恩恵を受けているのだという。だが日本には野生のハチドリなどいない。母国から無理やり異国に連れてこられたサルビアは花粉さえ媒介してもらえないのだろうか。いや、日本には奥行きの深い花を好み、渦巻状に畳んだ長い口吻を必要なときに伸ばすスズメガの類が豊富だ。スズメガは赤い色も認識できる。サルビアはスズメガの恩恵をこうむっているのだろう。良くしたものである。
サルビアの花は初夏から11月頃という半年の長きに渉って咲き続ける。丈夫な多年草なので、放っておいてもよさそうなものだが、丈夫であるがゆえに徒然する傾向にあり、例によってガーデニングのガイドでは、「一年ごとにこまめにケアすべき」と支持されている。色鮮やかな絨毯を敷き詰めたようで、見映えもいい。花の観賞用に好まれるのも頷ける。
だが、この植物にはもうひとつの顔がある。流行のハーブとしての側面だ。ハーブとしてはセイジと呼ばれる。瓶詰めのスパイスとして恭しく販売されている場合、製品名は「セージ」。何のことはない。あれはサルビアの品種に過ぎないのだ。ムソルグスキー作の組曲「展覧会の絵」にも、セイジの絵をモティーフにした曲がある。グレイトフル・デッドの変装バンドとも言える(サザン・オールスターズとKuwataバンドのようなもの?)ニューライダース・オヴ・ザ・パープル・セイジのセイジも同じものであろう。欧米でも親しみ深い植物であることが窺われる。考えてみれば、シソは古くから梅干などに用いる自然の食物着色料であり、餅や肉や魚をくるむ補助食材であり、代表的なジャパニーズ・ハーブである。またハッカなどもシソ科である。同じシソ科のサルビアがハーブやスパイスとして機能してもおかしくはない。スパイスとしてのセージは肉の脂肪の臭いを和らげる効果があり、ソーセージ、ハンバーグなどの挽肉料理に多用される。杜氏もサルビアとは知らずに、ミート・ソースやビーフ・シチューに使っていた。そもそもソーセージという名は「セージで脂肪を取る(減らす)」という意味らしい。
薬効としては血液浄化、殺菌、防臭、脳や精神への刺激による集中力、思考力の強化などであるらしい。中国でも漢方薬として用いられていたという。芳香湯浴やマッサージの香油としての用途もある。たかがサルビアなどと侮ってはいけない。ヨーロッパでは古くから神聖な植物として扱われていたとも言う。
植物園などで、サルビアが植わっているのを見ると、あまりにありふれた身近な花であるがゆえにありがたみも感じられず、動物園で普通の犬や猫を見せられたような気分になることがある。だが、こうしてセイジとしての効能を眺めると疎かには出来ない植物であることがわかる。日本でシソが用いられるのも、殺菌とか抗菌とか、聖なるものを保護する清め、浄化の目的があるような気がする。紫蘇という字もどことなく宗教的な響きを持つ。
ただ、日本ではシソを葉ばかりではなく、実までも刺身の薬味や漬物に使ったりするが、サルビアの実を使った食料については聞いたことがない。ところ変われば品変わるということか。
セイジには本来、賢者という意味があるらしい。どことなく、その賢明さ、叡智を以て何かを護っているというイメージがサルビア、またはセイジには付き纏う。それが命であることは確かだ。人類が恩恵によくしている薬効が、それを物語っている。だがそれだけではあるまい。それを包含するもっと大きなもの。自然の営み全てなのかもしれない。早川義夫の表現はそれを思うと罰当たりでしかないのだが、罰当たりを徹底すると賢者・セイジから庇護されるべき存在になる? いや愚者であろうと、罰当たりであろうと、自然を護るものは地球上のあらゆる営みを護るだろう。そういうことを見越して「サルビアの花」は書かれた? そンなワケはあるまい。
「サルビアの花」という曲に美しいイメージを持っていた皆さん、イメージをブチ壊してしまい申し訳ない。
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