ス ギ
「世界で一番嫌われている花」というモノイイが既に傲慢
日本人の苗字を調べれば、松と杉がいかに日本人の生活に恩恵を与えてきたのかがわかる。杉井、杉内、杉江、杉岡、杉崎、杉沢、杉下、杉田、杉谷、杉戸、杉並、杉野、杉橋、杉林、杉淵、杉村、杉森、杉山、上杉、大杉、小杉、高杉、一杉、美杉、三杉、若杉・・・、etc. これが同じ風媒花で、日本人の生活に親しまれている柳になると、そうはいかない。柳井、柳生、柳内、柳川、柳沢、柳下、柳田、柳沼、柳橋、黒柳、小柳、一柳、当たりで打ち止めである。防風林、防砂林として集落を守り、山の斜面に根を張って水害から土地を庇護している。木材として家屋を提供するばかりか、昆虫の食害から自衛する目的で放つ芳香でアロマテラピー効果まで活用される。
どこかのHPの見出しで「世界で一番嫌われている花」というのを見かけた。クリックしてみると、案の定スギ花粉の話題が画面を覆った。これほど花粉の害が甚大ならば、杉の木を残らず伐ってしまえばいい、などと言う人もいる。気持ちはわかるが、そうなったとき、住宅産業は成り立たなくなるだろうし、家屋は雨風砂などから身を守る術を失い、少し大雨が降った程度で、山から直接街に洪水が襲い掛かるだろう。スギ花粉がもたらす被害より、スギが人間に与えているメリットの方が遥かに大きいのだ。スギ自体は悪くなど少しもない。スギ花粉を害毒に変えているのは、ほかならぬ人間なのだ。
事実、スギ花粉は単独では悪さをしないようだ。汚染された大気の粉塵などと化学的、物理的に合わさって、初めてアレルギー反応を起こさせるらしい。粉塵を撒き散らしているのは何か? また本来、受粉ならなかった余剰の花粉は地面が土に吸収するハズなのだ。花粉症の症状がひどい人は、花粉の時期に下を向かないように心掛けるという。舗装された地面から花粉が反射してくるのだという。都市部の地表から土を奪い、アスファルトで覆い尽くしてしまったのは何か? 花粉症が人災であることがよくわかる。
アレルギーとは、アレルギーの元、つまりアレルゲン(荒れる源ではない)が直接身体に障るのではなく、異質な物体が体内に入ってくたのを身体が感知し、防御のために体内物質から生成した抗体が身体に支障を来たす現象だ。つまりは自家中毒である。スギ花粉は下手人ではなく、それを誘発しているに過ぎない。アレルギーは千差万別だが、誰の身体にも起きる。蚊は人体から血液を拝借するときに、血液凝固で口吻が固まって抜けなくならないようにある物質を注入する。そこを目印にすれば、次の吸血の際もスムーズに事は運ぶ。だが、人間の身体はその物質に反応してヒスタミンを生成する。それが腫れや痒みを巻き起こす。アレルギーは不自然な行動に終始する人間が、自らの体内に持つ自然のシステムである抗原抗体反応に内側から罰せられているという現象なのだ。
罰は軽いものばかりではない。重度の花粉症で悩む人達は、これほど重いアレルギーはないと感じているかもしれないが、トンでもないことだ。ハチに刺された際に起こるのもアレルギー現象だ。刺された傷は癒えても、幾年も人間の身体に抗体を残す。そして次に刺されたとき、場合によってはアナフィランキシーショック死をもたらす。杜氏も小学校低学年の頃、不用意にアシナガバチを刺激してしまい、人相が変わるほどの症状を呈して以来、スズメバチ、アシナガバチと出会ったら、にこやかに応対し自然にお引取り願うよう心掛けている。決して騒いだり、増してや駆除しようなどとしないことだ。特に人間の周囲を旋回しながら「カチ、カチ」と音を立て始めたら、それは危険信号だ。攻撃に転じる前の警戒音なのだ。ハチとて、無差別に攻撃などしてこない。無用な殺生を避けるために、サインを送ってくれるのだ。自然界ではそれを読み取れないことが罪となるのだ。
花粉症を引き起こすのはスギだけでは決してない。ブタクサやスズメノカタビラのような風媒花によるアレルギーも珍しくない。アレルゲンの種類によって抗体の働きも違ってくるのだろう。個々の人間によってもその顕れ方は違ってくる。家によって鍵が違うのと同じ理屈だ。花粉症と聞いて、一様にスギを連想するのは妥当ではない。他の植物に反応してしまう人は、そのアレルゲンをやはり撲滅したい気持ちかもしれないが、もしそのようなことを実行するのなら、生態系は必ず破綻を来たすだろう。スギを伐ればいいってモンじゃないというのは、そういうことでもある。
世に自然保護団体というシロモノは多い。環境問題への取り組みと相まって、これらの団体に属している人は自分達がボランティアで慈善活動に近いことをしていると認識しているかもしれない。だが、「日本人は捕鯨を(観察捕鯨すら)やめろ」とか「韓国人は犬を食糧にする習慣をやめろ」とか、その主張は皮相なものばかりである。特定の動物の側に立てば、他の利害が対立する動物を圧迫することになる。事実、鯨の保護によって最近生態系に悪影響が出ている可能性が取り沙汰されている。「犬を食うな」など、その国の文化への干渉であり、一言で言えば「大きなお世話」だろう。そういう現象を踏まえると、自然保護団体の多くがマスヒステリーに捉われたカルト教団と変わらないように見えてくる。
キリスト教の見解では、地上に生きる生物はノアが洪水に際して一つがいずつ方舟に乗船させたことからも、普遍であるとされているに違いない。地球も未だ方舟であり、同じ成員でクルージングしているのだと。だが明らかに恐竜が絶滅したように、これまで長い時の移ろいの中、無数の種が興亡を繰り返してきたのだ。三葉虫、アンモナイトが今、目の前にいるだろうか? 滅びたものは滅びるべくして滅んでいったのだ。また、自然保護を叫ぶ人達の胸には、「人間だけは滅びない」という根拠のない確信があるように感じられる。トンでもないことだ。核兵器、原子力のエネルギー活用、遺伝子組み換え、ヒートアイランド現象、etc. 人間の手で様々な自然を操ろうとする手段が進んでいる。産業革命が起きてから、たかだかこの数世紀の短期間にそれは加速度的に暴走している。人間という種がその役割を終えて地上から姿を消すのは約束されたことであるが、これらの動きはその退場のタイミングを確実に早めているのだろう。
杜氏は幼稚園児の頃、何かの本で人間の生物としての命運はいずれ尽きるし、地球が永続する星であるワケではないという記述に接し、夜も眠れなくなるほどに思い悩んだ。悩み尽くして、自分という生物の一個体がいずれは朽ち果てることに思い当たり、ようやく仮の安息に辿り着いた。死は恐怖を喚起し、避けられないことには変わりがなかった。だが、当面は考えなくてもいい問題だった。幼児は死を生きるのではなく、生を生きるものだ。個々の生命も、種としての人間の命運も、地球の存在も永続するものではないことについて思い悩んだことは、無駄だったのかもしれないが、杜氏の人生観、世界観を形成するのには必要な関門だった。
人はバベルの塔の寓話を「文明を過信して自然に逆らうようなことが高じると身を滅ぼす」という教訓として理解していると思い込んでいる。だが、実際にやっていることはバベルの塔建設と何ら変わりがない。「世界で一番嫌われている花、それはスギ」と喧伝したり、「スギ花粉症を撲滅するためにスギを伐ってしまえ」などと短絡的なモノイイをすること自体、身を滅ぼす傲慢さの反証なのだ。自然保護団体、動物愛護団体にしても、拠って立つ場所は人間としてのそれであり、その主張は危険なほど単純な価値観で形成されており、「自分達がいいことをしている」という自覚(思い込み)が強い分、始末に良くないかもしれない。
「犬の落し物は飼い主が始末しましょう」などと言う看板を立てている人、あなたも同類だ。犬の落し物も過剰なスギ花粉も、土に還るべきものなのだ。センチコガネなどの糞虫に食糧を提供し、分解され、やがては植物の生命作用にエネルギーを与え、完全に土へと期してゆくものだ。子供は犬の糞を踏むのが当然の存在なのだ。地上はきれいなものばかりで覆われているワケではないことを、子供は犬の糞を思い切り踏みつけることによって学習し、注意力を以て大地を歩むようになる。地上をアスファルトで覆ってしまったから、大人すら道端に犬の糞がないのが当然で、足元に注意を払わなくなる。糞虫にとってはそれ以上の災難である。
スギは決して悪くない。悪いのはどんどん無自覚に増長するターミナル・アニマルであり、アレルギー反応はその無頓着さへのペナルティなのだ。それに気付かぬ限り、人類の滅亡への疾走スピードは緩まないであろう。
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