ツワブキ
蕗は蕗でも
金田一京助という人は国語辞典の親玉のように思われているが、実はそれは真の姿ではなく、何でも気安く本の監修の類を引き受けてしまった結果であるらしい。物故者となってしまったが、子息の春彦氏が父の人となりとTV番組で語っているのを聞いたことがある。ある日、京助氏が慌てふためいて出版社に詫び状を書いているので、何ごとかと訊いてみると、原稿の締め切りを気づかずにやり過ごしてしまったらしい。だが、程なく出版社から返事が来て、その原稿の締め切りは一年以上経過したものだと判明したとか。学者の世知らずを地で行く人であったらしいが、ここまで徹底するとかえって清々しい。
京介氏は国語学者ではあったが、専門は辞書のような一般的な言語ではなく、一番の業績はアイヌ語の研究であった。日本人の祖は侵略(天孫降臨)により、日本列島の南北のはずれに追いやられたらしく、琉球語(ウチナ口)やアイヌ語にはその形跡が顕著に見られるらしい。
アイヌ語でカムイは神を指すが、なるほどカミはカムイの音便と解釈できる。杜氏は鴨居という地に住んでおり、鴨居小学校、鴨居中学校卒業だが、鴨居は鴨が居たからそう命名されたのではないらしい。カムイ、つまり神の住処が訛ってカモイとなったのを、鴨居と当て字をされたのだという。横浜にも鴨居があって、県の中学陸上競技大会などでは「横浜鴨居」「横須賀鴨居」などと、互いに普段自称しないような名称で紛らわしさを回避している。横浜の鴨居には杜氏の勤める企業グループの事業場があって、レーダだのロケットだのマル防関連の物騒な装置を扱っていたが、最近撤収されてしまい、跡地には大きなレジャー施設が建つらしい。不穏当な産業廃棄物でも掘り出されなければいいのだが・・・。
いずれの鴨居も辺境で人が立ち入りにくいことから聖地とされていたのだろう。平たく言えば、田舎ということだ。
金田一氏が研究材料としたと思われるアイヌの民話の中に、コロボックルという小人が出てくる。蕗の葉の裏に住む妖精のような存在だ。原日本人を侵略した側の現日本人の神話ではスクナヒコノミコト、またはその末裔に相当するらしい。両者には共通点が多いという。コロボックルとは特定の存在ではなく、複数の小人達の総称であるらしい。つまりは、蕗の葉の裏にはすべからく神に似た存在が住んでいるということだろう。
コロボックルといえば、何の脈略もなく、西洋版浦島太郎であるリップバンウィンクルが連想されてしまう。今では数十年前の角川映画・「野獣死すべし」で松田優作が狂気に憑かれたように語るリップバンウィンクルか、同時期に活躍していたプロレスラー、ニック・ボックウィンクルと言ったところで、通用する層は非常に限られている。リップバンウィンクルもニック・ボックウィンクルも、コロボックルとは無関係であるらしい。
蕗というのは北日本や本州山間部ではとても重宝な植物だ。函館出身の亡父は、北海道の蕗はとても大きく育ち、葉を傘の代わりにして雨を凌ぐことが出来ると、よく話していた。また、立松和平氏が剽窃で罪に問われてまで上梓したがった連合赤軍事件の顛末を描いた「光の雨」の冒頭近くで、大菩薩峠での訓練中にメンバが蕗を主な食材としていたことを窺わせる記述がある。尾篭な話だが、山の中で用を足した際、蕗の葉をトイレット・ペーパーの代わりにするともよく聞く。「光の雨」では、メンバが蕗の食事に辟易とする描写があったが、セリ科の植物と違い、癖や香りが少ない蕗は飽きの来ない食材であるように感じる。有効かつ、親しみやすく、葉裏に下級とはいえ神に近い存在を隠す多様な面を持つ植物である。
蕗は主に山林を日当たりのいい場所に生えるが、平地でも宅地に空き地でも出来ようものなら、すぐに生えてくる。フキノトウなどは珍しくもなく、ありがたみも薄く、スーパー・マーケットなどの流通に乗っているのには違和感が伴う。だが、関東地方の都市部では、蕗よりもっと親しみやすい植物がある。ツワブキである。
葉の表面に艶があることから艶葉蕗が訛ってツワブキとなったらしい。北限が太平洋側で福島、日本海側で山形というから、どちらかと言えば南方系の植物である。肉厚の常緑性の葉は海浜性植物を思わせるが、生育する環境は必ずしも海浜地域ではない。海に面した日照条件のいい崖に群生しているのが似合ったりもするのだが。
秋に咲く黄色いツワブキの花は、蕗の類がキク科植物であることを改めて痛感させるたたずまいをしている。頭花と呼ばれる構造で、一見して花弁と認識できる舌状花が開き、その内側に多数の筒状花が外側から次々と開花する。頭花全体でひとつの花のように認識されるが、実際には多数の筒状花が合わさったものである。何だか説明するだにややこしいが、タンポポやヒマワリの花に非常に近い構造である。これらが群生する光景はなかなか壮観で美しい。
加えて光沢のある葉には斑入りのものもあり、観葉植物的価値も孕んでいる。本来栽培種ではないのだが、庭に好んで栽培されるケースも多い。その在り様は同じく本来野生種で葉も花も観賞に耐えうるギボウシにも似ている。葉は傘になるほど大きくはならないが、光沢を帯びることを除けば、蕗そのものである。
花の時期が終わると、タンポポの綿毛と似た羽毛をつけた種子が実る。これが風に乗って遠隔地まで飛来することで、繁殖地を広げる。植えた覚えがないのに、いつの間にかツワブキが芽生え、多年草であることから定着してしまうことがある。これは近所の庭に植えられたツワブキが種子を散らした結果であろう。雑草と思えばそれまでだが、なかなかに味わい深い植物なので、儲けた気分にさせてくれる。
多分、庭に栽培している人達は、これを食用にする目的で丹精しているワケではないだろう。だが、どっこい、ツワブキはれっきとした蕗で、食べても普通の蕗と変わらない味がする。
二〇年以上前に亡くなった祖母は、昔の人にしてはおそろしく家庭的なことがダメで、料理の腕もカラッキシだった。当然、「おばあちゃんの豆知識」なども期待できるハズがなかった。さくらももこ氏の「ちびまるこちゃん」に出てくる控え目で物知りなおばあちゃんが、世間一般の祖母のイメージなのだろうが、杜氏にはうらやましい限りだ。母が留守のときなど、祖母が炊事をすることになるのだが、そのレパートリーたるや、鶏の炊き込みご飯と野菜と鶏のごった煮のみだったと言っていい。その二種の献立が不味かったというワケではなく、正に祖母の味ではあったのだが。
その祖母がたまに作るのが、庭に勝手に生えているツワブキをむしってきて、灰汁を抜いて時間をかけて煮込む伽羅蕗だった。これがスーパーで売っている蕗を煮込んで作るものといくらも変わらない味がした。見かけは堅そうでも、じっくり煮込んで煮詰めると、立派な伽羅蕗になるのだ。鑑賞用になるとか葉に薬効があるとか、蕗本来のものではない面ばかり強調されるが、普通の蕗としても通用するのである。
蕗もツワブキもその辺に当たり前に生えているペンペン草の類である。ありがたみは薄いかもしれない。だが、食べられるし、傘の代用品にはなるし、葉裏に妖精モドキを宿しているという得難い存在なのだと思う。何気なく生えている草こそ大事に扱わなければならない。何も珍しい動植物をレッド・データ・ブックに載せて保護することが自然愛護とは限らない。足元に目を落として、その恵みをときには味わい、たまたま偶然に庭に舞い降りたささやかな僥倖を愛でるのも、確かな自然とのふれあいだと感じる。自然とは人の生活の外に存在するものなのではなく、人が他の生物と共に生きる大きな、そして逃れようがない器なのだから。
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