ツユクサ

ありそうで滅多にないもの

 この世の中にいかにもありそうでいながら、なかなか見つからないものもある。北野武を名乗り幾多の業績と、犯罪歴と事故を重ねる前のビートたけしが、「この世のものとも思えないあの世」というフレーズを口走っていたことを思い出す。これはパラドックスであり、ありそうでなかなかないものとは少し違うかもしれない。それにそもそも、あの世を経験できても、それをこの世に語り伝えるのは不可能である。あの世の入り口まで行って還ってきたという臨死体験者は多いものの。

 植物の花は甘い蜜を秘める。それを目当てに昆虫が群がる。自身で動けない植物は花粉を雌蕊に付着させ生殖を昆虫に媒介してもらうものが多い。言わずとしれた虫媒花である。虫を集めるために植物は昆虫の視覚、嗅覚をターゲットにデモンストレーションを行う。薔薇の芳香は部屋に置いておくと息が詰まりそうなほどで、それをジャッキー吉川とブルー・コメッツはブルー・シャトウで女性の恋情がデフォルメされたものとして表現している。個人的には百合の芳香の方が強いし、好ましいと思う。だが歌詞としては「白い百合」よりは「赤い薔薇」の方が恋情を託すものに相応しかったのだろう。

 虫への信号としては色も無論有効である。顕花植物の花は色とりどりだ。白、黄、赤、オレンジ、ピンク、紫、更にそれらのコンビネーションも様々でヴァリエーションには数限りがない。自然界で最も数多いのは黄色の花であろう。昆虫はよく言われるように色覚においてオール・マイティではない。色によっては識別できないものもあるらしい。虫になった人など、フランツ・カフカの「変身」の主人公、ザムザしかおらず、これもまたフィクションなので何故そのようなことが断言できるのかは疑問だが、おそらく実験とスペクトル分析などによる類推であろう。とにかく、昆虫が黄色に最も鋭敏な反応を示すことには間違いはないらしい。多分、何代も世代を重ねるうちに、これらの植物の持つ黄色い花を咲かせる遺伝子が強まってきたのだろう。
 では、世の中の花がすべて黄色になってもおかしくないのでは、という疑問が呈される。そうならないのは各々の植物が生育し、繁殖してゆく条件が均一ではなく、決して黄色の花が最適ではない種類も数多いことを示しているのだろう。

 だがここに来てもうひとつの疑問が残る。青い花があまりに少ない。単純に考えれば昆虫の色覚では青を識別しにくいという仮説が成り立つ。反論はあるだろう。アサガオの花には赤も紫もある一方で、鮮やかな青も印象的だ。しかし、これは多分に人工的に品種改良された趣がある。ヒルガオから人手で栽培されることで花の色や形を変えてきたアサガオには、花本来の生殖、繁殖という意味合いを大きく逸脱し、人の目を楽しませるということに存在意義がある。青いケシも珍しいらしい。珍しいから価値もあるのだろう。だが、その青い花を見たところで、美しいなどとは思わない。不自然さだけが印象に残る。
 青い花が自然界に皆無なワケではない。意外な身近にそれは咲いている。前に挙げたオオイヌノフグリもそうだ。そして更にありふれているツユクサの花も青い。ツユクサはおよそどこにでも生えている。その花は僅かに紫を帯びてはいるが、快晴の空の色に近い。午前中に咲いて、午後早くにはしぼんでしまうので、朝露を宿していることも多い。だからツユクサの名があると思いがちだが、昔は着草(ツキグサ)と呼ばれていたらしい。同じ読みで鴨頭草とも書くのは形状からきたものか。着草の名は、以前は染料としても用いられていた名残らしい。だが、水や光に弱くすぐに流れたり色褪せたりしてしまうので、中国から伝わった藍にその座を譲ったという。逆に水に流れやすい性質を利用して、下絵塗りに用いられるようになったらしい。なるほど下絵は流れた方が好都合だ。ムラサキツユクサという栽培種もあったが、子供の頃「ツユクサ自体が紫なのに、なぜわざわざ紫と銘打って区別するのだろう」と思った記憶がある。だからツユクサが紫がかった青であることは間違いない。ムラサキツユクサの方が僅かにムラサキの度合いがやや強い。

 小さな花なりに三枚の花弁のうち二枚は大きく上側に開いており、残りの一枚が下から雄蕊、雌蕊を支えるように包んでいる。そもそもが開いている時間が短い。早朝から昼までに過ぎない。操業時間が短い魚河岸のようなものだ。その短時間に花粉を媒介する昆虫が訪れるかどうかは疑問だ。時間が経つと雄蕊が雌蕊を絡め取るようにして花を閉ざしていってしまう。その過程で自家受粉してしまう花が多いらしい。青い色が虫を寄せ付ける魅力を持っていなくとも繁殖の如何には関係がないのかもしれない。
 杜氏が記憶しているのは、ツユクサの葉を小学校だったか中学校だったか、理科の授業で観察したことだ。葉の裏の表皮は簡単にかつきれいに剥がすことが出来る。それをプレパラートに取って顕微鏡で観察する。明瞭な気孔をいくつも見ることが出来た。脆弱に見えて逞しく呼吸をしているツユクサの実態を見る思いだった。葉の裏の皮がきれいに剥がれるというのも、この植物の恬淡とした印象を反映しているような気がした。とにかく、どこにでも見つけることが出来るので、教科書に載るような理科教材にはうってつけであろう。全国共通の教科書では、北海道から沖縄までどこにでも生えている植物を実験材料として採用する必要がある。
 日本でなら、こうして全国津々浦々簡単に見つかるツユクサだが、欧米には見られないようである。極東の地から輸入されたツユクサが、オリエンタルでエキゾティックな花だということで、英国ヴィクトリア王朝の王宮で鉢植えにされたものが恭しく扱われていたのだという。こちらでは単なるペンペン草扱いなのがウソのようである。

 ツユクサは一年草である。そしてその花は一夜花とまでも長持ちしない朝だけの花である。珍しい青であるのに珍しがられもしない。庭にでも種を落とせば、雑草として摘まれてしまうのがオチである。人はおろか昆虫にすら一顧だにされないけれど、しっかり特徴を持ち、広い地域に定着している。そう考えると、「ありそうでなかなか見られないもの」というのは、ツユクサのしたたかさなのかもしれない。



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