ウキクサ

根がない訳ではありません


 高校時代からの三〇年来の友人が住民運動の代表になった。運動に巻き込まれているうちに先頭に押し出されたという印象が強い。弁が達ち行動力がありそうに見えるのかもしれないが、実際には手数が多い軽量級のボクサーのような人なので行く末が案じられる。CPUの回転は速いのだけれど、筐体が強靱とはいえないコンピュータを想起させるものがある。
 そもそも、彼が住む藤沢の鵠沼藤ヶ谷地区は海岸に近い平地を造成した閑静な住宅街だった。藤ヶ谷というくらいだから軽い盆地というか窪地のような地形なのだろう。大雨が降ると、住宅街に水が流れ込み、道は川と化すし、住宅は浸水に見舞われやすい土地である。それを緩和していたのが近所にある蓮池と呼ばれる池だった。オーヴァフローした水をポンプで汲み上げて廃することで、住宅は辛うじて浸水をまぬがれるか、軽い被害に留めていたらしい。その池は市の所有地であったのを、池を接して建てられた女子高校に貸し出されていたらしい。私立の学校法人は少子化の影響などで厳しいサヴァイヴァル状態を強いられている。今時女子校というご時世でもない。その学校は共学化で生き残り戦略に打って出た。男子が入ると、現在のグラウンドが手狭になることは必定。池を埋め立ててグラウンド用地に充てることとなった。実に池の半分以上が消滅するという工事案だった。たまらないのは近隣住民だ。池があっても浸水や冠水による住宅、自家用車の被害を泣き寝入りしてきたのに、それすら無くなったら・・・。
 この当たりの経緯は神奈川新聞などに報じられ、11/16のTBS系列「噂の東京マガジン」でも番組の半分近くの時間を割いて報道された。また、友人はこの件についてHPを立ち上げることを計画しているので、その折りには必ずリンクを張る予定である。TV報道の効果は絶大である一方で、運動が糾弾している市や学校側からの反撃も激しいらしい。是非何らかの力になりたいと、杜氏は切望する。

 湖沼というのは、何か人知を越えた存在が統べる聖域という印象がある。聖域と呼ぶと、崇高な存在を連想するが、妖怪変化に近い下級の神に近いものの住処という印象も強い。神社仏閣に池が多く、それがいかにも感覚的にしっくりくるのも頷ける。湖沼の怪奇を描いた文学作品や映画も多いかと認識していたのだが、いざ思い出してみると、泉鏡花の「夜叉ヶ池」やアメリカ映画の「悪魔のはらわた」などが挙げられるに過ぎず、意外に少ない。あまりにもリアルで、罰でも当たりそうな気がしてしまうせいであろうか。
 ジブリ・アニメでは「もののけ姫」で主人公アシタカが癒されるのはやはり湖沼であった。「風の谷のナウシカ」で、ナウシカが地下に水を引いて育てている腐海の猛毒植物が無毒で育つスポットも一種の湖沼であろうか。
 水は生命を育む揺籃であることは間違いない。だが、川では「かつ消えかつ結びて久しく留まりたる例なし」で、普遍性がない。普遍性がないこと自体が怪奇ではあるが・・・・。海のあまりに大きな懐は人のエモーションの産物である畏敬すら飲む込んでしまう。地球の特性を示すものは人が住む陸地ではなく海にあることは明らかだ。でも、その海は地球の神秘すら人間ごときが手の届く領域を越えた海底と封じてしまう。
 その点、湖沼には空間に限界がある。いくらでも人の自然への思いを吸収する豊かさと、そこに思いを馳せるべき閉空間を具備している。
 白土三平の劇画にこういうのがあった。幼くして母を失った男が、母が葬られている湖の底へ毎日潜る。湖底は低温で蛋白質を腐食させる微生物すら存在しない。従って母の亡骸はいつまでも若く美しいままだ。男は母に会いに湖底を訪ね続ける。微生物すら棲息できない条件に人間が立ち入れることには疑問があるのだが、人間には意志の力で障害を退ける力がある。やがて陸地より湖沼で生活する時間の方が長くなった男の肉体は半魚人化してしまう。おぞましくはあるが、悲しく美しい話でもある。

 ウキクサは湖沼や田、つまり淡水が貯まり流れを成さない止水の至るところに見られる。滅多に花を咲かせることもないのに、どこからやってくるのか不思議だが、とにかく容易に水面を覆ってしまう。根無し草などと呼ばれるが、それは大きな間違いで、水中に数本の根を伸ばして、養分を吸収する。確かに「根」を固定的な場に張る拠って立つ位置を確固たるものにする象徴的なものと見なせば、水に浮かび根を地面に張らないウキクサには「根がない」とも言えるかもしれない。だが、ウキクサの繁殖する止水は明らかに流動的なニッチとは違う。西部劇でよく登場人物達の足下を転がっている砂漠地帯を彷徨うタンブル・ウィードなどとは趣を異にする。少なくとも確固たる生活基盤を持たない人々に、「同じ定めと指を差される」筋合いはない。
 葉と根しかないように見えるが、一対の葉のように見えるのは実のところ、茎も兼ねた機関であるらしい。上にも触れたが、極稀に花を付け、結実するという。ただ、ウキクサに花など期待して見るワケではないから、あまり印象にない。知らず知らずのうちに見過ごしているに違いない。一年草(というのも似つかわしくないが)であるワケではなく、越冬は水底に沈んでするらしい。この一事からも根無し草が根拠のない言いがかりであると言える。
 とにかく群生して水面を覆ってしまうので、田の水温を下げる害を為す、などとも言われるが、これも疑わしいとのことだ。ある高校でウキクサに覆われた水槽とそうでないものを同じ条件で設け、日の当たる場所で実験を試みたところ、前者の方が水温が高かったという。そのレポートでは保温効果のようなものが仮説として挙げられていたが、ウキクサが繁茂する季節のほとんどの期間には、気温の方が水温より高い。従ってこのせっかくの仮説も無意味なように感じる。ウキクサも呼吸、蒸散、光合成といった生命活動を行うはずだ。それらによって生じたエネルギーが水に伝搬し、閉じこめられるといった仮説の方が相応しい気がする。同じように止水に苦もなく繁殖するアオミドロ、ホシミドロなども水温に悪影響を及ぼすように指弾されるし、これらが澱んでいる様は水に含まれた有機物を腐敗させているような印象を持たれる。だが、やはりアオミドロも汚染された水では住めないらしい。むしろ水質汚染のバロメータとなっている意味合いがある。ウキクサにせよアオミドロにせよ、「何だかよくわかならいが除去してしまうに越したことはない」という理由で排除されてしまうことが多い。これもあらゆる昆虫を害虫と見なし駆除する人間の傲慢さと同じ発想に端を発するように感じる。これらも自然があやなす巧まざる必然を以て繁殖しているのだ。ここでも害獣であるのは人間の方だ。
 興味があるのは気孔が裏表どちらにあるかという点で、ほとんどの植物同様裏にそれがある場合、呼吸時に排出される二酸化炭素が水質に悪影響を及ぼすことも考えられる。ただこれも光合成で派生する酸素とで「行って来い」になるはずである。自然の仕組みはこのようにうまくバランスが取れていることが多い。
 杜氏は首都圏の沿岸地方に住んでおり、東京湾では珍しくなってしまった護岸化されていない海岸で海水浴が楽しめる境遇にある。東京湾と言っても、それが途切れる西南の果てであるのだが、その水質はトロピカル・オーシャンに近い。背が立つギリギリの場所でも下に視線を向ければ、自分のつま先を見ることが可能だ。海水浴中に、ニートな体型を誇らしげに露出した水着ギャルが、波打ち際に打ち上げられた海草を見て「××海岸にはこンな汚いものはない」などとノタまっているのを小耳に挟んだ。××海岸は多くの人を集めることで有名な海水浴場である。馬鹿かと思った。杜氏にしてみれば、海草すら繁殖しない海岸の方がよほど怖いし汚いと思える。目の保養かもしれないが、耳障りだった。
 淡水でも同じことが言える。岸辺にはヨシやガマが丈の高い姿を見せ、水面をウキクサ、アオミドロ、ヒシなどが覆い、その下でヤゴ、タイコウチ、ミズカマキリ、タガメ、ミズスマシ、ゲンゴロウ、ガムシ、etc.といった水棲昆虫が育まれている豊かな生態系こそが健全な姿である。

 杜氏は一時期、蛇沼と呼ばれる土地に住んでいたことがある。もうかなり以前に沼は埋められ高校(女子校だったのが、今は奇しくも共学校化)が建っている。蛇は聖書ではアダムとイヴを唆した邪悪な存在だが、日本の三輪山伝説などでは人間に姿を変えて女性と交わったりする神であることが多い。忌み嫌われる姿も聖域を守っているためのものとも解釈できる。このような場所をむやみに人間の我欲から埋め立てるものではない。祟りとはこういった我欲が生んだ自然の均衡の崩れが、それを為した者達に還って来る因果応報とも言える。
 鵠沼は片瀬、江ノ島と並び、真の湘南海岸(逗子、葉山、茅ヶ崎、大磯などは湘南とは違う)であり、ここに居を構えるのもある種の人々には夢であるのかもしれない。地名からして、水鳥が群れる沼であったことは想像に難くない。寡聞にして鵠という鳥の実態は知らないが。元よりそのような沼を埋め立てて作った土地だから水害に見舞われやすいのだろう。しかし、それを咎め立てすることなど最早出来ない。そこまでのピューリタニズムは杜氏も持ち合わせない。既に宅地化したこの地域に住む人々の権利は保証されなくてはならないだろう。今回の騒動を客観的に見る限り、行政側は釈明の余地もないほどにいい加減であり、池の埋め立てにより生じる住民の被害になど何の配慮も為されていない。
 かつては自然に畏敬の念などあまり持っているとは思えなかった友人であるが、これを機に少しは生態系にも興味を覚えているフシがある。自然への敬虔な気持ちは、運動の展開から派生したものに過ぎないが、少なくとも行政側はこういう視点を持ち得ぬであろう。前途多難ではあろうが、運動が成功裡に終わり、池が元の姿で近隣の住宅地を水害から守り続けることを祈ってやまない。



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