ワレモコウ

紅の意味するもの


赤と一口に言ってもさまざまな彩りがある。紅(くれない)を辞書で引くとCrimson、つまり深紅とある。緋色はScarletだ。明るく激烈な印象がある。「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラにマーガレット・ミッチェルが託したパーソナリティに相応しい。Crimsonと言えば、King Crimson In the Court of the Crimson Kingを連想してしまう。どこか毒々しさが付き纏う。一方で、寒い地方の少女の頬が紅に染まったような仄かに暖かい印象も伴う。この二面性は、緋色が太陽エネルギーを象徴しているのに対して、紅が意味するものが血であるからに違いない。少女の頬を染める血は健康な動脈血だが、どす黒く流れるのは汚れを帯びた静脈血である。朱も同じようない見合いを持つが、これは動脈血だけを示すような気がする。
 がきデカの「こまわりくん」は信号を指してこう歌う。♪青は男が渡るとき、赤は女が渡るとき♪ 実際に赤で信号を渡るとトンでもないことが起きるのだが・・・。このように幼年期、人間は身に着けるものなどの色を何となく性によって区別する。夏目漱石の「坊ちゃん」に登場する赤シャツが鼻持ちならない人物であることは、この服装の嗜好によっても暗示されている。別段、男が赤を着ようとピンクを羽織ろうと構わないのだが、何か確乎たる理由がなければ、違和感は拭えない。

 小学校の四〜五年生の頃だったか、マイナーな少年漫画雑誌に「紅三四郎」という連載作品があった。雑誌の企画ページの判じ物のようなコーナーに、「モノをねだっても、ねだるだけムダな主人公は誰でしょう?」という命題が挙げられていて、回答は「何にもくれない(紅)三四郎」だった。それが杜氏の心にトラウマに似た感覚を以て残っている。少年漫画雑誌とは言え、公共に出る刊行物にこのようなダジャレ、地口のタグイを載せてもいいのだという事実は衝撃的だった。「紅」は熱血漢を、「三四郎」は体格に恵まれない格闘技系競技者を象徴しているのだろう。その恐るべき単純なネーミングだけが印象に残っており、内容はすっかり忘れている。おそらく憶えていても、モノの役には立たなかったに違いない。

 「紅染むる丘の上・・」のように空の色を示したりもするが、これは直接の太陽エネルギーではなく、雲などにそれが間接的に宿った場合のみに限定される。紅に染まった雲は、あたかも一個の生物のようでもある。生命活動が太陽エネルギーを受けて、それを活用する二次的な運動である以上、生命や血の赤は緋色ではなく紅の方が相応しい。紅葉の紅もまた同様である。「・・・唐紅に水くくるとは」

 花の開花時期が長い植物を「紅」で示す例も多い。百日紅と書いてサルスベリ。紅とは限らず、色々な色彩の花を初夏から秋口過ぎまで長く咲かせる。千日紅はセンニチコウという植物。紅が香になるとお線香の商品名だが、ヒユ科でアカツメクサに似た花をつける。コウは紅だ。

ワレモコウも同じように長い花期を持つ。秋の花と思われているが、実際には高原で8月上旬頃には既に咲いている。バラ科の植物である。丸い花穂に下から次々と小さな花を着けるが、花全体の暗紅色は花弁ではなく、顎の色である。実のところ、花弁はないのだ。

 山に咲く花である印象が強いが、寒暖いずれの環境にも強く、乾燥にも容易に負けないようである。鮮やかな花弁を誇らしげに開く華やかさはないが、独特の味わいを持つ。生け花、フラワー・アレンジメントでは脇役に欠かせない存在である。また、乾燥させたものはドライ・フラワーとしての利用価値も高い。

 ワレモコウという語感には独特の響きがあり、命名に諸説あるのもこの深い響きのせいであろう。吾木香というのが最も有力で、インド原産の薬効、香気共にあらたかなキク科植物・木香の根の国内(吾が国)ヴァージョンという意味らしい。吾木香である。割木爪というのもある。木爪とは鳥の巣に卵が育まれた様子を図案化した漢民族の模様らしいのだが、ワレモコウのひとつひとつの花が木爪模様に割れ目を入れた漢字に似ているという。で、割木爪。語感からいかにも後付けで派生したと思われるのが吾亦紅で、今では第一優先でこの字が使われるようだ。「吾も亦紅い」という意味で、俳句、短歌などの詩歌の中に好んで用いられる。杜氏などはそれが転じて「吾も亦恋う」なのだと随分長いこと信じていた。

 木香同様、薬効もある。根にはタンニンが豊富で、止血、下痢止めに有効なのだという。学名は「血を吸収する」という意味を持つらしい。やはり血に縁があるのだ。それも酸素を豊富に帯びた鮮血である動脈血ではなく、老廃物を体内の至る所で吸収した暗紅色の静脈血。それが毒々しい汚血ではなのではなく、役割を果たして家路を辿る安らかな気持ちを思わせる深い紅だ。

 「吾も亦紅い」というのは、世間的には表舞台に登場しない者が、自分だって非凡なところがあると自己主張しているニュアンスが強く、派手ではないにせよ、そこに存在するだけで独特の魅力を醸しているワレモコウには相応しくない気もする。別段主張などしなくとも、その存在感は多くの者が認知している。秋の七草にワレモコウは入ってはいないのだけれど、ふと「もしかして」などと思い、「萩、桔梗、尾花、撫子、・・・」などと暗誦してみる。やはり入ってはいない。入っていないところが、かえってワレモコウらしいなどと改めて感じる。そういう花だ。


 キング・クリムゾンは才気煥発なロバート・フィリップの下に若き日のグレッグ・レイクらが集った前衛的なロック・グループだった。「クリムゾン・キングの宮殿」をはじめ、「エピタフ(墓碑銘)」、「21世紀の精神異常者」など、タイトルを耳にしただけでもエキセントリックな世界をおどろおどろしく、かつ繊細に処理したプロダクツで、ビートルズ、ローリング・ストーンズに象徴される前時代のアーティストにはない魅力を醸していた。

 だが、フィリップについていけなくなったレイクらは抜け、やがてJazzyというよりはNoisyな方向へ進路を取り、作品は徒に不協和音を弄ぶ傾向を帯びて、その彩りは鮮紅色とはならなかった。
 この一事を取っても、欧米人には見ようによってはどす黒い色合いしか見せていないワレモコウが、奥ゆかしさと存在感を具備しつつ、日本人の歌に詠まれる魅力を醸していることなど理解できないのかもしれない。



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