ヤマボウシ

やはり野に置けとは言いながら

 やはり野に置け蓮華草、などと人は言う。だが一方で観賞用の植物を「野趣溢れる」などと愛でつつ栽培する。端から栽培用だった植物はなかったワケで、人間が品種改良などというワケのわからない言葉を弄して野生種を捻じ曲げて栽培種にしてしまった。野菜、果物などはすべからくそうだと言っていい。野趣なる言葉の正体は人間の身勝手で出来ている。元々植物は野生が似合うように出来ているのだ。
 ハナミズキは日米親善の樹として知られる。二十世紀初頭に東京市長だった尾崎行雄が、ワシントンに桜の苗木を贈った。それが今ではポトマック河畔の桜並木として有名になっている。その返礼としてアメリカから贈られたのがハナミズキ(花水木)であった。今は街路樹としてそこかしこに見られているが、それまで日本にハナミズキはなかったということだ。ハナミズキと似ている在来種が、山でしばしば見ることができるヤマボウシだった。分類学上も当然近似種である。そのため、ハナミズキのことをアメリカヤマボウシと呼ぶようになった。これを混同して、「アメリカハナミズキ」などと口走る人もいるが、これは誤謬である。
 ヤマボウシは本来野生種で、清楚でシンプルながらちょっと変わった印象が愛されていた花だった。一般的には、花の様子が白い頭巾を被った山法師のようだからその名があるとされる。杜氏は寡聞にして、「山法師」など職業の存在を存じ上げない。法師の白い頭巾に似ていて、山に咲くからヤマボウシではなぜいけないのだろうか? だいたい、山伏にしても山賊にしても、山に潜伏している住所不定の輩は怪しげだ。善良な市民とは言えない。山法師と聞いて連想するのは高野聖のような宗教者としては最下層で、行商人と区別がつかない俗悪化した存在を想起させられる。食い詰めた民が身をやつした虚無僧と変わりがない。どこか高貴な印象があるヤマボウシに似つかわしくない名前であるようにしか思えない。
 五月頃の山を歩いていると、目の端に清冽な視覚的衝撃を受けて、歩みが自ずと止まることがある。ヤマボウシの樹が近くに立っており、花が咲いていたりする。余人はいざ知らず、杜氏はこの路傍の花を無視して前へ進むことができない。先端が尖った木の葉状の白い花弁(実は花弁ではなく総苞)が、無頓着なほどシンプルにシンメトリックなデザインで並んでいる。白一色のあまりに単純な色彩、形状に意表を衝かれてしまうのだ。花は四枚の総苞に囲まれた内側に多数固まっている。これも単純な緑色をしている。白と緑のコントラストもありふれているように思えて、正面から突きつけられると一瞬たじろぐほど鮮やかに目に映る。花が成熟する前、総苞は淡い緑をしており、やがて純白に変わる。このコントラストが一見不調和に思えて、その実そうではないのは、元々緑だった総苞が白くなっていった経緯から来ているのだろうか。
 ポインセチアはやはり花弁のように見える部分が実は葉であり、赤く色づいて人々の目を楽しませる。ヤマボウシにしても、昆虫が活動を始める前の植物が他の動物の目を惹く美しい花を持っておらず、風媒花が主流であったところを、虫の活動を利用する虫媒花となるために葉を花弁へと発達させていった過程を想起させてくれる。無論、ハナミズキも同じ構造をしている。だが、色とりどりな花を持つハナミズキにはかえって人の歩みを押し留めるだけの魅力は持ち得ない。
 杜氏はお姉さん達がたくさんいるお酒を飲む店に法外な投資を日常的にしている者ではない。だが、ホンの一時期、極短い期間、近くに勤める先輩に付いてそういった行脚をしていたことがあった。その中に「花みずき」という店があった。特にコスト・パフォーマンスが悪い店だった記憶がある。お姉さん達の多くは極々近くのS足学園の学生で、水商売のプロではなく、従って途轍もなく気が利かない人達であり、客の方が気を遣わなければならなかった。そういった必然からだったのか、その時期の杜氏はおそらく人生の中で最も気の利いたジョークが次から次へと口を衝いていた気がする。こういった不純なオジサン達とオツムの充実度が足りないお姉さん達の空しいゲームの仇花がハナミズキなら、手練手管に長けたオジサンを後ろめたさからたじろがせる作意のない少女のまなざしがヤマボウシであるだろう。もっとも、ここ数十年ばかりで、そういった古典的な少女など、めっきり姿を消しているようにも見受けるが。というより、そういった存在は最早、「こうあって欲しい」と念じているオジサン達の妄想の世界でしか生存していない複素数の如きイメージとなってしまったのかもしれない。

 花はやがて、総苞を落とし、真の花だけを残す。この頃には花は棒の先に突き刺した丸いキャンディのような形状となり、やがて実へと変わってゆく。この実も少し変わっていて、サッカー・ボールのような亀甲模様を成している。秋になると真紅に変わって成熟する。あえて口にする人はさして多くはないが、実は甘く食べられるそうだ。スカスカしていることから、果実としての利用価値は低そうだ。杜氏もヤマボウシの実を食べた経験はない。
 ハナミズキは英語でDogwood。犬の木だ。奥様は魔女で、ヒロイン、サマンサの夫はダーリン・スティーヴンスだったが、サマンサの母エンドラは彼を、アメリカ版サザエさんである「ブロンディ」の夫であるDogwoodと故意に間違えて呼び続けていた。パンと具を幾重にも非常識なまでに重ねたダグウッド・サンドウィッチは、「ブロンディ」から来ているのかもしれないが、ダグウッドというのはそういった馬鹿げたものを好む「間抜けな男」という意味合いで使われていそうな雰囲気であった。だとすると、ハナミズキにもそういった語感がこめられているのかもしれない。因みにハナミズキの皮には強力な薬効があるらしく、強壮剤として作用するばかりか、皮の煮汁を活用して犬のノミを駆除することから、こういう名前がついたらしい。
 よくよく植物としてのありようを見比べると、ヤマボウシとハナミズキは出自や人間の活用の仕方が違うだけで、殆ど同じような存在であるように思えてくる。家でハナミズキの苗を購入して植えたとき、「上から眺めた方が映える花だ」と植木屋に言われた。階下に住む母がこの花を所望したのに、恩恵は二階に住む側が受けたことになる。確かにハナミズキもヤマボウシも、樹の上の方に花をつけるし、花は真っ直ぐに天を仰いでいる。

 いくら似てはいても、この二つの類似種を明瞭に分かつ点がある。冒頭で触れた野趣である。間違っても、ヤマボウシは外交などに使われない毅然とした印象が強いし、街路樹として人と自動車の境界を愛想よく示したりはしない。もし、人間がヤマボウシをそのような用途に使っても、違和感しか醸さない。野趣を愛する人が庭に植えたとしても、飼いならされることがない無愛想な趣が色濃い。好きな人にはそれが野趣なのであり、一層愛されることにつながってしまうのだが。
 チンパンジーを何代育てて、人間へ進化するのを待ったところで、未来永劫おそらくチンパンジーはチンパンジーでしかない。野生のヤマボウシを際限なく繰り返し栽培していると、いつかはハナミズキに変わるような気もするのだが、それは無理な話である。アスナロ(翌檜)はいつまで経ってもアスナロであり、ヒノキになろうなどと志しているワケではない。そンな想像は戦前、戦後教育の愚かなミスディレクションに過ぎない。
 何度か述べている通り、生物を擬人化して人間の価値観で論じることに意味はない。だが、杜氏がヤマボウシに、酷似しているハナミズキとの比較においてどうしても預託してしまうイメージは、毅然たる気高さ、犯し難い清冽さである。それを野趣などという限定的なイメージに封印してしまうのは、野趣ではなく野暮に過ぎないなどと、杜氏には思えるのだが・・・・。



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