ゼンマイ

何もそこまでして食わなくても・・・


 ファースト・フードで事足りる時代である。大概の料理がレトルト食品となって流通している。パスタのような微妙な茹で方で違いが出る食品も、レンジで温めるだけでアルデンテが実現するようになっている。男の料理は日常生活に密接した女性のお惣菜と違って、手間隙を掛けるものだが、お父さんの労作も正直な子供にかかればレトルトに到底敵わなかったりする。スロー・フードにはスロー・フードを作る以外の意味がなくなってしまった。所要時間ばかりではなく、費用面でもレトルトの方が合理的だったりする。最近の主婦は殆ど料理をしないことが、アンケートでも明らかになっているが、それもさもありなんである。
 杜氏? 作りますよ、スロー・フード。カレー、シチューには四時間、豚の角煮に六時間、ミート・ソースに三時間、きんぴらゴボウに一時間半、スープ・ストックに一昼夜・・etc. カレー、シチュー、角煮が比較的短時間なのは、圧力鍋を活用するせい。ただ、作っても返ってくるのはお世辞ばかりであるが。

 杜氏の住んでいる土地に近い海には、波打ち際に寒天の材料となるテングサが大量に打ち上げられている。誰もそれを拾って寒天にしないのは膨大な手間隙がかかるせいだ。洗って、灰汁抜きしながら辛抱強く煮て、濾して、固めて、脱水して保存可能にする。本物志向なら脱水は乾燥した寒冷地、長野県の特定な地域限定で行わなければならない。家庭で出来ないワケではないが、手間隙を考えたら、スーパーで買ってくる方が遥かに効率的である。いわば、アリを撃つのに核兵器を使うようなものだ。
 昔は流通機構が発達していなかったために、たとえば真夏に氷を欲すれば、富士山の氷穴のようなところから切り出して、馬で江戸まで運ばなければならなかった。輸送の間に大半が溶けてしまう。コスト・パフォーマンスが劣悪な品が高級品として罷り通っていた。葛もそこいらをのたくっているクズには澱粉を抽出できる根はなく、山で殆ど大木化したクズからしか葛粉は取れないのだという。奈良の吉野はそういった大木化したクズの名産地だったのだろう。だが、川崎大師などで厄除けのマジナイに大量に出回っている葛餅の原料は、こうした高価な葛粉ではなく、単なる小麦粉なのだそうだ。それを「ツルツルした食感が旨い」などと喜んでいるが、本物の葛はそのようなまがい物とは格段に味も風味も異なるのだという。

 先日、北海道のある有名な公園を散策していたところ、何か懐かしい雰囲気を醸している植物が視界の端に留まった。沼と呼ぶには大きな面積を占有している止水域の周辺の、手付かずの自然環境に恵まれた国定公園である。沼のあちこちには羊草が花を咲かせ、ルリボシヤンマ(彼の地では「青いオニヤンマ」ルリボシヤンマ(補足))が悠然とテリトリをパトロールしていた。その植物があまりに普通に生えていたので、うっかり見過ごすところだった。それはゼンマイだった。無論、秋のこと。食用になる状態ではなく、しかもそれは食用にするのとは別形態の株だった。ゼンマイには確か胞子葉と栄養葉があって、食用になるのは栄養葉のみで、二つは同じ植物とは思えない似ても似つかぬ姿をしていた。彼の地で見たのも、成長し切った栄養葉だった。旬ではないので最早食べられない。
 杜氏が幼い頃、住んでいた社員寮の裏山にはゼンマイが大量に生えていたが、目に付くのは一見シダ類には見えない葉の幅が広い栄養葉ばかりだった。栄養葉も繊毛に覆われ、くるくる内巻きになってこごまっている状態でしか食べられないのだが、すぐに成長してしまう。これがゼンマイだと父に教えられても、食えない状態であることが殆どだった。胞子葉は初めはオレンジ色で覆われ、全体に胞子を孕んでいる。やがてそれが茶色に熟し、胞子を撒き散らすようになる。土筆と杉菜の関係を連想すればイメージが近いだろうか? だが、ゼンマイの場合、食用となるのは土筆とは逆に、杉菜に相当する部分だ。ほどなく引っ越した横須賀南部でも自然は豊富ではあったが、温暖過ぎるのか、ゼンマイを見かけることなどすっかりなくなっていた。とすると、四〇年振りの再会となる。四〇年前? 杜氏は生まれていない。(ウソ)
 ゼンマイは銭巻からその名があるという。ゼニマキが訛ったということだ。バネの形状として名高く、どちらがどちらの語源なのかわからなかったが、調べてみたら植物の方が本家で、バネは植物のゼンマイに形が似ていることからそう命名されたのだという。自然のものの方が本家で、人工のものは自然を模倣しているという面で、真っ当な現象だ。漢字にすると、植物の方が薇でバネの方は発条だ。余談だが、日本発条という会社の略称はNHKである。ゼンマイと双璧を成すシダ類の山菜であるワラビは蕨と綴る。埼玉県蕨市住民には当たり前のことだ。カンガルーの小型の動物のことではない。いや、ワラビーの大型種がカンガルーなのだが。

 駅の立ち食い蕎麦のトッピングになっている山菜や釜飯と一緒に炊き込まれているものや韓国料理でナムルになっているもので馴染み深いゼンマイであるが、これらの多くは韓国産であるらしい。身近な存在なのだが、本当に美味しい食べ方は山野で採ってきたものを手間隙かけて調理するに限るらしい。だが、これが途轍もなく厄介なものだ。
 まずは大量に生えている繊毛を除去する。そして食用になる茎だけに剥く。これだけでかなり厄介な作業となりそうだ。何しろゼンマイは動物の毛皮のように、繊毛に覆われつくしている。
 とにかく灰汁が大量に出るらしい。灰汁抜きをしておかないと、後で黒い灰汁でグチャグチャになり、食べても苦いものでしかなくなるという。何度も煮汁を捨てながら、丹念に灰汁を抜く。で、一旦乾燥させて、食べるときに戻すのが一般的である。そのまま食べても構わないのだが、乾燥させた方がシイタケ同様栄養も旨味も増すのだろうか? だが、同じ灰汁でも、ワラビには毒性が強く、家畜の飼料に混入して牛馬が病気になることもあるらしい。ゼンマイの灰汁はそれほどではないようだが、毒ではないだけで旨くはないだろう。
 乾燥させるにせよ、そのまま食べるにせよ、ここで熱いうちによく揉む必要がある。そうしないと堅いまま食べる羽目になる。繊維を捻るように、かなり強く揉む。このとき本当に繊維が捩れ合って、独特の食感を招くようになるらしい。逆にそうしなければ、食べられたシロモノではないらしい。
 乾燥させたものを戻す際には、これまた念入りな灰汁抜きをする必要がある。乾燥ワカメのようにいきなり熱湯で戻したり、味噌汁にそのままブチ込めば済むものではなく、念入りに戻してから調理を加える。干しシイタケ、キクラゲと同じだが、違うのは灰汁抜き作業だ。こうしてやっとゼンマイは人が食用として許容しうる形になる。
 手順を記すだけで疲れてしまう。

 だが所詮、ゼンマイは植物性繊維質に過ぎず、食卓の主役の座を占めることがない。肉や魚と併せて調理することは珍しく、せいぜいが油揚げをパートナーとする精進料理的な応用となる。食べ盛りの子供がいる一般家庭なら、付け合せに留まる。付け合せにこれだけの手間隙が要るとしたら・・・・・。気が遠くなりそうだ。
 クズといい、寒天といい、掘り出すのに大仕事となる自然薯といい、ゼンマイ/ワラビといい、効率化が不能な作業を伴う。自然、高価なものとならざるを得ず、現代の流通機構にはそぐわない食品である。ただ、そこから得られる野趣は捨て難いものがある。効率が悪いからと言って切り捨てるべきものではない。高価でもそれに見合う価値を見出して対価を支払う需要がそこにあるのだ。
 会社の同僚で、新人の頃の同期同士の自己紹介で「レトルト食品ばかり食しているが、レトルト食品は案外旨い」と発言したヤツがいた。旧七帝大出身者でオベンキョーだけは出来るヤツなのだが、以来陰で「レトルト」と呼ばれ軽蔑されている。当のレトルトは自分がエリートだと自覚しているから、そう呼ばれていることすら知らない。で、仕事振りは、自分では些細な決断ひとつ下せないレトルト野郎でしかない。
 便利なものに慣れてしまうと不便なものを見直す気にはなかなかなれない。杜氏の作る料理には不味いものなどないのだが、コスト・パフォーマンスの面で見合うかと言えばそうではない。所詮男の料理など、気張ったり威張ったりしているだけで、お惣菜には敵わないのだ。だが、だからといってレトルト一辺倒の生活が理想だとも思えない。かくして杜氏の家人達は、頼んでもいない杜氏の手料理を月に数回程度食わされる羽目になる。

 彼の地で見たゼンマイは懐かしさを喚起させてくれた。だが、だからといって、血眼になって食べられる状態のゼンマイを春先の山野に求め、莫大な労力をかけて調理する気にはならなかった。やはりゼンマイは育った姿を見ながら、時期が時期なら食べられるのになあ、などと思いを巡らすに適した植物でしかないのだと感じる。



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