信仰への導き

初めに
 
 以下に述べることは、クリスチャンとなるための最低限のガイドラインや知識を与えるものです。もっと詳しく知りたいと思う方は、指南の書や教会の牧師にお尋ねください。

A.求道のプロセス

T.クリスチャンとなるための道筋は?
 だれでも、求道にいたるためには、神やキリストに向かう動機や関心があります。そして、動機や関心とは私たちの人生や社会への問いだと考えてもよいと思います。例えば、家族関係、友人関係、会社の同僚や上司との関係、社会にある差別や貧困や不正義・不公平、あるいは、環境の問題などかもしれません。信仰とは、それらの問いに神が最終的かつ最善の答を与えてくださるということを信じることに他なりません。具体的には、それら問いや問題に答を与えてくれる書物や牧師さんにたずねることになります。この段階は既に求道が開始されたことでもあります。第三に、それらの答えを信じ、神やキリストへの帰依し、信仰に向かいます。この段階には正しい導き手が不可欠です。導きに従いつつ自分の内側に信仰対象が形づくられることを念じ、祈ることになります。最後に、同じ仲間の前で自分の信仰と経験を告白して、洗礼を受け、クリスチャンとしての生活が始まります。教会生活はその焦点なのです。


U.クリスチャンの生活

 @.教会員として
 イエスをキリスト、救い主と信じ、告白し、洗礼を受けた人はクリスチャンとして、信仰を継続し、持ち続けることになります。独りでは、出来ないことも同じ思いをもつ人々の集まりである教会の人々の助けを受けるならば、可能となります。そこで、教会という組織に参加し、一会員として、責任を担い、信仰を保ち、まだ、信仰を知らない人にも神の恵みを分かち合うという生活が始まるのです。クリスチャンはこのことを神によって「選ばれた」者だと受けとめますが、その意味は全ての人が選ばれ救われるために責任を負った者だということです。

 A.家庭人として
 家庭は自分の信仰を具体化する絶好の場であり、社会の最小単位であり、その信仰を共有し、次の世代へと継承する場でもあります。信仰の伝達は、まず、ここに始まります。家族は常にクリスチャンであるあなたに向き合い、あなたを見ています。かれらが信仰を養うか、否かは信仰が具体化され、現実化されているかどうかの指標でもあることになります。複数のクリスチャンが家庭の中に存在するようになることはキリストの恵の輪がさらに大きくなることを意味します。クリスチャンファミリーが出来ることは、最大の伝道であり、証であり、恵です。

 B.社会人として
  人は、家庭人であるだけでなく、さらに大きな共同体の一員でもあります。学生、会社員、国民でもあるのです。このような家庭を越えて広がる社会にキリスト教の恵が具体化され、現実化され、実現されるならば社会、国家は恵と平和に満たされることになり、神の創造の目的と願いが実現することになるでしょう。そのための様々な社会的応答が求められることになります。特に今日の世界では、クリスチャンは和解と連帯と一致と平和の証し人であることが求められているといえます。

V.恵まれたクリスチャンの条件と責任とは
 常に、恵まれたクリスチャンであるためには、単に自律的であるということだけでは達成できません。それはどのように意志の強い人でも不可能です。まず、教会に属することで、その責任を負い、相互互助と訓練という二重の条件が満たされます。互いに祈り合い、とりなし、助け合うことで、人格や信仰が知らず知らずのうちに磨かれるのです。つぎに、それに見合う良いわざに勤めます。どんな小さなことでも継続し、達成を信じて行うならば、やがて、大きな結果を生み出します。そして、この全ての行いは一つ一つ神様に覚えられ、記憶され、評価され、神の喜びを増し加えるものとなるのです。神さまは永遠な方ですから、神に覚えられるわたしたちはやがて永遠の命をもつものとされます。つまり、この世界において「完全な者となる」ことは達成されないのであれば、「完全な者となれ」とのキリストの命令は天国にもち越されることを意味します。これが永遠の命があるという証拠なのです。

B.信仰のマトリックス

はじめに
 
信仰を持つためには最低限必要な事柄があります。それが信仰のマトリックスです。

I. イエスの教え
 イエスの教えは、聖書の四つの福音書に書かれております。それらを簡単にまとめてみましょう。

@.隣人愛の教え
 
イエスにとって隣人愛(ルカによる福音書10:25〜38節;マタイによる福音書18章12〜14節)とは量や形ではなく集中性、直接性です。信仰者は〜をしましょうということによって、隣人への行為を行うのではありません。逆に、そのような行いをするものが自分自身への関心の最も低いところでより完全な行いが出来るのです。ですから、隣人は、私たちの行いをするための手段ではないのです。私自身が隣人の内にあるのだと考えられる他者なのです。イエス様はこのような愛を、行いの根底に置いていたのです。
 このように主体である自己と他者の相互関係が考えられるとき、この関係はもはや倫理的関係というより信仰そのものと一つなのです。つまり、信仰というのは他者へと自分が開かれるということです。「自己中心から他者に開かれる」出来事が信仰なのです。
 イエスは信仰というものはこのように日常の生の内に起こる出来事だとみているのです。ですから、信仰とはある教義や知として承認し、信じる信仰というよりは、誰にでも開かれた日常のなかの出来事性であって、世俗の生と宗教の生とは相接しているのです。たとえば、イエス様は愛の集中性として「九十九匹と迷い出た一匹の羊」の譬えを語っています。九十九匹を残しておいて、つまり、それらを危険に晒して一匹を探しに出ることは愚かな行為だと見ることは効率主義的現代の世界観に浸り切った者にとって、当たり前でありますが、そのような見方のなかには宗教性は現れてこないのです。宗教性とは自己と他者の関係に立ち現れる出来事なのであります。だから宗教を職業とする人であっても宗教的でないということは当然にしてありうるわけなのです。(サマリヤ人の譬えのなかの祭司に対するイエス様の冷たい視線はそれを暗示しています。ルカによる福音書第10章25節以下。)

A.人は人を裁いてはならないという教え
 律法に罪人を裁く条文があることを盾にして人が人を裁くことは出来ないと教えました。確かに我々の日常社会においては、社会の秩序、安寧を保つため、人が人を裁いております。しかし、この裁きはある社会とか世界内での事柄であって、人が人を絶対的に悪であるとか善であるとかを言っているのではありません。人がその存在の究極の根拠が神にあることを知るとき、人が人を裁くことの不当であることが分かるのです。どのような人による裁きも相対的なものであります。例えば、ヨハネによる福音書8章1〜11節は、イエス様の思想を非常に良く現しています。

1イエスはオリーブ山へ行かれた。2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3そこヘ、律法学者たちやファリサィ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じている。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

 このような相対化の視点があるからこそ「私は善人ではなく罪人の為に遣わされた」とイエス様は言い得たのでしょう。

B.無限に許すという教え
 イエスは許しを存在論的に捉えています。許しは同時に慈愛です。神の許しと慈愛があるからこそすべてのものは存在できるのです(マタイによる福音書6章25節〜34節)。われわれは神の無限の許しのみ手のうちにあるといいます(ルカによる福音書15章11〜34節)。他者への許しは神から受けている無限の許しに基づけられねばならないのです(マタイによる福音書18章21〜35節)。人間は自己を絶対化する傾向があり、他者を許すことができません。自己に対する他者からの不利益をその多少に係わらず絶対化します。そして、他者を裁きます。しかし、日々のなかで我々は裁きますが、その裁きを絶対化してはならないのです。無限に許すことは、無律法主義ではありません。自己の主体性が失なるという危惧はいりません。例えば、無限の許しの一形体、ガンジーの無抵抗は、主体性を失った許しの姿ではなく、主体性を含む創造性から生み出されると考えられます。「赦してください」、といえば神は無条件に赦してくださるというのはイエスの確信であり、したがって、それは忘却でもありません。無限の許しとは、愛の律法なのです。これは、後にキリスト教教義で発展した犠牲を払って許しを受ける、といういわゆる贖罪の教義とは一線を隔する教えでしょう。

C.社会問題に対するイエスの微妙な教え
 一方において、正義を求むべしとして、支配者の悪への批判の言葉が述べられるかと思えば、他方では、現存社会体制の変革と解体を積極的に推し進めようとの言動は控えられているようにも見え場合もあります。特に、当時のローマの体制への反抗を先導するような言動は見当たらないし、弟子のなかでマタイのようにローマのために徴税の任に当たるものもおり、批判のような言動は述べられていません。
 この傾向はパウロ時代の原始キリスト教においても変わりません。既存の秩序を積極的に変えることよりも、置かれている立場で働きを忠実に果たすことが求められているようです。これは、終末が迫っており、今は中間の時代であって、イエス様が説いた様にただ神の国と神の義を求めることが第一の関心事だったということによるのでしょうか・・・。イエスは福音と政治的な言葉を区別しているように見えます。だから、諦めや消極的ニヒリズムと捉えることは間違いでしょう。むしろ、イエスは変革には積極的だったからです。

D.イエスのたとえ話に関する教え
 イエスのたとえ話を一律に、普遍化した言語で、一つの哲学的命題や倫理的命題のように語ることは禁物です。そうするとき彼の言葉の宗教的霊感は消え失せ、単なる格言となってしまうでしょう。その言葉は実存がかけられ、決断を喚起する言葉なのです。たとえば、マタイによる福音書20章1〜16節をマルクス主義者がかつてしたように階級のない共産主義社会の地上的実現の一つの典拠とし、イエスをその支持者とするのはイエスのたとえ話の誤解となります。イエスの言葉は主体の中に入って来る知ではなく生かされ生きる言葉なのです。

E.神の国の教え
 神の国にあたるギリシア語は「バシレイア・セウー」といい、文字通りには「神の支配」とも訳されます。しかし、支配という言葉はなにか強制的な力を指すのではなく、それに服することがかえって平安であり、自由であるような存在の根底ともいえるものに類比されます。イエス様は神の国を告知し、神の支配に悔い改めて服することを宣べ伝えました。この意味で、神の国は未だ人々がそれに属してはいず、神の支配は実現していないのです。他方、イエス様は神の支配に服従し、彼において現れており、今既に、神の国は人々の只中にあると告げています。つまり、神の国は未来超越的な、終末論的な現実だというだけではなく、内なる自然の自覚として、現成するもの、自然的、調和的生において、成長し、発展してくるものでもあるといっています。(マルコ4:26〜29)
 イエスは神の支配に服し、調和的な経験のうちにある人間存在のあり方を、第三人称で、人の子と呼んでいます。(マルコ、13:26;マタイ、24:27など)イエス様自身、神の支配あるいは自然、宇宙全体に服従している限り、人の子そのものなのです。別言すれば、それは霊から生まれたもの、(ヨハネ、3:5)新たに生まれたもの、(ヨハネ、3:7)です。人の子とは神の子と同じ意味です。

U.キリスト教の信仰はイエスを神と信じることです。
 
イエスは愛やゆるし、和解を説かれ、神様を具体的に啓(あき)らかにされました。神様と人との関にある罪を取り除き、神と一体となる道を示されたのです。これを贖罪(しょくざい)といいます。キリストの十字架はこの贖罪を示しているのです。キリストの贖罪を通して、私たちは罪なきものとなりましたが、現実の姿はなお罪あるもののようです。ですから、別言すれば、私たちは罪なき完全なものとなるという約束を現在手にしていることになります。神様の働きによって、完全なものにされるということです。(霊としての神、聖霊の果実として賜るものとされているのです。)

C.キリスト教の教義について
 
1.神について
  序
  神様は本来人間の有限な能力では捉えることも、言い表すこともできない方です。しかし、その神様が人間に信実と信仰を与えて下さって捉えられるようにご自身を現わして下さいました。その時、神様は人間や被造物と関係を持たれる神となりました。それが神様が示されたご自身のお姿です。
  a.旧約聖書の神
  旧約聖書に語られている神様は、イスラエル(ユダヤ人)に示された神様のお姿です。民族の父祖たち、アブラハム・イサク・ヤコブやヨセフやモーセ、ダビデ王や預言者たちなど数々の人々に現されました。
  神様は世界を創造し、イスラエル民族と契約(約束)を結んで、この民族の繁栄・発展を約束され、また、イスラエルの民もこの神への信仰を守る約束をしたのです。しかし、イスラエル民族は不幸や苦しみに会うと、この神の約束を反故にし、信じないで他の神様に向かう人々も出てきました。
  旧約聖書に示された律法や契約の神はイスラエルの民には厳しい神でしたので、そこに、イエスという方が現れ、優しくて柔和な新しい神様のお姿を示されたのです。
  b.新約聖書の神
  ガリラヤのナザレに生まれたイエスは人々の苦しみや悩みや困窮や必要に深い共感の心をもつ愛の人でした。彼は庶民・一農民として生まれたからでした。イエスは優しく柔和で共感の<愛の神>の姿を人々に示しました。上から臨む力のようにではなく、下から優しく説得し、包みこむような柔和な神の姿を示しました。そして、人々を内側から変えて行ったのです。この神の愛と恵みを信じる全ての人々、ユダヤ人もそれ以外の人も神様との約束の相手となることが出来ると説きました。後に、このイエスが示した神の姿が旧約聖書の神の姿と一体となり、キリスト教の神の姿となりました。ですから、神様を「父なる神」と呼ぶのは神様が父であり、男であるという意味ではなく、全ての人や被造物に配慮される愛の神ということです。旧約聖書の神が男性的だと言えば、新約聖書の神は女性的なので、「母なる神」と言っても良いのです。しかし、神様は男性でも女性でもありません。
  2.キリストについて
  ナザレのイエスは30歳ほどになり、この神の愛を伝える伝道を始めました。人々と響きあう心をもち、一緒に苦しみ、痛み、癒しました。その結果、沢山の男女が集まりましたが、最後に十字架刑に処せられました。しかし、その三日後に甦られたと聖書に記されています。弟子たちの原始キリスト教団はイエスの表した愛の神とイエスを一つのものとして、彼を「救い主」(キリストゥス)として伝道し始めました。原始キリスト教はローマ帝国の支配する地中海世界で苦しみ救いを求める人々に受け入れられ、またたく間に広がって行きました。彼は神の子イエス・主、つまり、神として信仰されて行きました。十字架はイエスの生涯を象徴し、復活はその生涯が命そのものであったことを表しています。
  彼は神の息子というより神の子(人の子という呼び方もしました。)と自らを呼んでいます。イエス・キリストは男性的な面と女性的な面の両方を兼ね備えた方だったのです。
  3.三位一体の神
  キリスト教の神は父、子、聖霊の三つの別々の人格を持ち一体の神だと教えています。しかし、三つの人格はどの人格も男性でも女性でもないし、どちらでもあると言って良いかもしれません。しかもこの神は一つです。従って、それは数字の一ではなく複数のものが統合した一(unity)だと言うことです。つまり、一つの社会という時の一の意味に近いと言えましょう。父なる神は創造のわざ、子なる神は救いのわざ、聖霊は今・現在働いて、救いを完成に導くのです。しかも、三人の神様ではなく、一つの神の異なる働きのことです。
  4.救いについて
  キリスト教では、神様から離れてしまった姿を「罪」と呼んでいます。単に規則や法を破ることは罪とは言えません。罪はもっと深いのです。この神様との罪にある関係が他者や自然と隔絶した関係(咎)を生みだしていると教えます。従って、正しい神様との関係を回復することが、「救い」ということなのです。
  神との正しい関係を回復するためのキリストの救いのわざを説明する二つの考え方があります。一つはキリストの死と復活に焦点を置き、キリストの十字架の死を<罪の死>とし、復活を<新しい生>に生まれ変わることとして捉えることです。救いはキリストの状態が信仰を通じて、私たち人間に移されるというわけです。キリストが身代わりとなって全てをして下さったので、私たちはその恵みを信じるだけで良いということです。もうひとつがアベラルドという人の説ですが、キリストの生涯、生きる姿に学び、そのような生涯を私達への呼びかけや啓蒙の業なのだと見て、それに応答してそのように生きるものとなれば、キリストのように罪のない生へと変えられていくという考えです

  「救い」とはこの両方を統合した捉え方が良い「救い」の捉え方だと思います。
  5.教会について
  「救い」を信じて神様との正しい関係に入ることを決断した人は「洗礼」という儀式を通して、教会という集団の一員となります。洗礼は神様との新しい契約関係に入る儀式です。そして同時に神様を親とした兄弟姉妹の関係に入ることでもあります。それは血縁の関係ではなく、他人性を残しつつ親しい関係に入ることです。親密さと他人性の両方を保つ緊張関係を保つためには、神様(イエス・キリスト)に於いてこの関係があることを常に覚えつつ交わりがあることを自覚しなければならないのです。主の晩餐と呼ばれる「聖餐」はそのための儀式です。この聖餐に与ることで私たちが聖なるものであることを覚るのです。そして、キリストの「からだ」を形作るのが教会共同体です。キリストは教会の頭です。
  6.聖書について
  聖書は常に立ち返るべき信仰の基点が記されているソースです。これを<正典>と言います。それによって様々な教えに対処したのです。それによって教会もまとまりました。従って、絶対・永遠不変というよりも、違った時代には正典を解釈して対処していくという意味での基点と言えます。なぜなら、聖書は神様が直接手を下して書いたものではなく、言い伝えや人間の理解を通して記されたものです。しかし、そこに聖霊が働く時、神様の言葉となるのです。これが聖書の成り立ちです。聖書は教会が定めたものですが、同時に教会は聖書によって、創造されたともいえます。従って、聖書は文字通りそのまま神の言葉とは言えませんが、聖霊の働きを通して神の言葉となるのです。
  7.礼拝について(下段の礼拝の手引きを参照)
  礼拝は神様を中心に据えて生きるために守る第一の信仰者の業です。礼拝が守られて初めて生きる力が生じるのです。礼拝において私たちの全てを神に献げる時、神の喜びが私たちの喜びとなり、力を回復し生きるものされるのです。
  a.礼拝とは献げること(サービス)であり、奉仕すること(サービス)です。神様からの召し(呼びかけ)があり、応答としての献げることがあるのです。「礼拝は生きた聖なる献げもの」である私達自身を献げる行為ですが、これは「献金」というお金で象徴的に表すのです。礼拝順序に献金という箇所があるのはそのためです。
  b.礼拝の式は基本的に「召し」と「応答」の繰り返しで構成されています。その上で、礼拝式は次の四つの基本的な構造から出来ています。
     @入場 会衆が主の名において共に入場すること。これには挨拶、奏楽、賛美、祈り、讃栄などが含まれる。
     A宣言と応答 聖書朗読、説教、証言、奏楽(音楽)など。
     B感謝と聖礼典 聖餐: a)パンと杯を取ること、b)パンと杯を通じて感謝すること、c)パンを裂くこと、d)パンと杯を分ち与えること 聖餐のない礼拝では、イエス・キリストにおける神の全能に感謝を献げる。洗礼:志願者がいる時に行われます。
     C会衆が世へと派遣されるための祝福。
  8.この世の生について
  人間の業は礼拝を始点として、世界に拡大されて行くことが求められています。神の愛はその時世界に拡大され伝えられるからです。
  このように神に仕えること(礼拝)と人に仕えて生きることは一つのこととして捉えられるとき、この世の生は、これを生きることで神のみ栄をあらわすことであり、人に与えられた創造の目的を全うする場となり、「救い」の完成と直結することになるのです。
  日常の生は俗と言えますから、神様との交わりがなければ俗のままです。救いが完成するのは聖とされることですから、聖なる生は神様からいただかなければなりません。この聖なる・生きた命は神に祈ることで受け取ることが出来ます。祈りは神に聞き、従うために欠かすことのできない神様との会話です。
  9.終わりのことについて
  「救い」の完成は、使徒パウロが言ったように、信仰によって、「義」と認められたことが「聖化」として実質的に成就することです。その時、神との隔たりは解消され、神と人は和合し、神の創造の業が完成を見るのです。これが世の終わりとしての終末に起こるとされています。終末において、神と人と自然は和解に到達し、一体となり、永遠の命なる者になると言えます。
  10.補遺
  a. キリスト教の信仰と他者の信仰の関係
  冒頭に「神様は本来人間の有限な能力では捉えられない、言い表せない方です。しかし、その神様は信実と信仰を与えて下さって捉えられるようにご自身して下さいました。」と述べたように、神が信実と信仰を誰に与えたかによって、現わされる姿が異なってきます。異なる民族、異なる個人、異なる言語、異なる文化、異なる気候風土と様々な要因によって捉えきれない、言い表せない神が世の前に現れることになるのです。従って、神は様々な姿・形を取ることになります。しかし、複数の神の姿かたちは複数の神様がおられると言うことではなく、一つの神の異なる現れと捉えるべきでしょう。各々は各々の現わす能力や現わし方に尊厳と敬意を払うべきです。各々は互いに平和的な関係を作ることによって、共存するのです。グローバル化する世界というのはそういうことです。
  世界全体がそのような関係を形作ることは、各々が他に代わることの出来ない価値と美しさを持った世界を実現するということです。美しく調和した世界の実現に諸宗教の平和的関係の樹立は欠かすことの出来ないことなのです。
  b. キリスト教の伝道
  キリスト教の伝道とはキリスト教の勢力の拡大とか他の人々を回心させて教会に無理やり連れてくると言うものではありません。そうではなく、あくまでも、イエス・キリストに示された神の愛の形を、具体的な行為によって伝え・行うことです。教会は神の愛の形の焦点であるにすぎません。このような愛に触れた人は自発的に教会を求め、決断し、洗礼を受け、この交わりの輪に組み込まれるのです。

  祈り
  
  祈りとは、神様との対話であり、神様の御心を聞く方法です。どのような祈りであっても、神様は受け止めてくださいます。祈りの中心はあくまで神様ですから、自分の願いを単に吐露する祈念ではありません。イエス・キリストが弟子たちに示された「主の祈り」は祈りの基本を教えておりますので、紹介しましょう。

  主の祈り

  天にまします我らの父よ
  ねがわく
はみ名をあがめさせたまえ
  み国を来たらせたまえ
  みこころの天になるごとく
  地にもなさせたまえ
  我らの日用の糧を
  今日も与えたまえ
  我らに罪をおかす者を
  我らがゆるすごとく
  我らの罪をもゆるしたまえ
  我らをこころみにあわせず
  悪より救い出したまえ
  国とちからと栄えとは
  限りなくなんじのものなればなり
  アーメン


解説:イエスはその神との対話のためのロゴスをここに示しています。主の祈りは立派な祈りの模範ではありません。そもそも祈りが神との対話であるならば模範は必要ないのです。
 9節で、イエスは神に親密に呼びかけています。出エジプト記
207に「みだりに神を呼んではならない」とあるようにイスラエルの伝統的社会では考えられない事柄でありました。特に厳格に律法を守ろうとしていたパリサイ派にとって涜神的行為とも映りました。マルコによる福音書1436節ではイエスは神をアバ(パパ)と呼びかけております。イエスにとって神はそれほどに親密な存在であり、同時にその親密さに目覚めることを、人々に求めました。

10節の御国とはイエスの宣教の中心であった神の国(バシレイア・セウー)のことです。それは領土的なものではなく、神への所属関係を表しています。たとえば幼児はその心を常に母親が占めており、占有が続く限り幼児は平安と安心のうちにあると言えます。この占有は苦痛でなく喜びなのです。これが神の国とイエスが言っている事柄に類比されるのです。それゆえに神の国を神の支配と訳す人がいるがこの訳は本来誤解を生み易いといえます。言語的には可能ですが、イエスがその語源に則して使っていたかは不明です。イエスの思想全体から判断すべきであろうと思います。イエスにとって神が支配する力として捉えられていたとは考え難いのです。とにかく存在の基盤の確立をまずイエスは求めることを祈るのです。神の国とはイエスにとって、愛と和解と喜びに他ならないのです。

  11節でイエスはパンを求めて祈ります。イエスには物質が価値の低いものであるとか、卑しいものであるとかといった考えはありません。イエスにとって、物の所有は部分的なものであり、その部分が神の創造の全体の一部を構成するのだという確信がありました。だからこそ物を求めてもそれに支配されることがない。イエスにとって過度の所有は必要ないものです。日ごとの糧、パンだけで十分なのです。

  12節、この個所を私たちは負い目のあるものを許しましたから私たちの負い目を許してくださいと理解すると分かり辛いです。負い目という言葉は神に従い、正しい道に歩むはずの我々がそれを怠り続けるという意味であり、罪という言葉と大差はありません。 ギリシア人は祈りを神との取り引きと考えました。つまり負債のあるものを許したのだから私の負債を許してもらおう、と。これでは神への全面的依頼というより、神は取り引きの交渉相手となってしまいます。小さく捧げて大きくいただく御利益宗教の論理です。 我々は祈りにおいて、ありのままの自分をさらけ出し、神の臨在のなかに入り、心底から、必要を主の前に吐露するのです。とすれば、我々が他者を許すためには我々自身が許されていなければ不可能であるといえます。自分が許しを持たないまま他者に許しを与えることは出来ないのです。 私たちが負い目のあるものを許したのは既に我々が受けている許しを他者に分かつことです。それは許しを受けているものの義務です(マタイによる福音書18章21〜35節)。もしもわれわれが日々の生活のなかで他者への許しと愛を貫き通すならば、キリストの許しがより現実的なものと確証されるでしょう。ルターはこの二つの許しの構造を内的許しと外的許しと呼びました。許しの祈りとは神へのトータルな助けを求める祈りです。この助けは私への助けを越えて、他者にまで及ぶのです。負い目としての許しを求めぬ者は、自己を義とするものでもあります。そして、その様な人はあの放蕩息子の兄のように(ルカによる福音書15章)神の祝いの外に立つことにもなります。結果として、この個所の許しの教えには循環があります。つまり、負い目のある他者を許すためには、自分が既に許されているという、恩寵への信仰がなければならないし、他者を許すことができれば、自己は既に神の恵みによって許されているということであります。このように罪の許しということを、イエスは単純かつ明解に理解していたのです。そこには、後のキリスト教教義に見られるような複雑な贖罪論のかけらも見あたりません。ルカ伝の放蕩息子のように、本当に悔悟し、許してくださいというものを、神は許してくださるというのです。

  13節、これは主の祈りの最後の部分です。(主の祈りを唱和する際に、通常、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」という言葉とアーメンで終わることになっていますが、これは後の教会によって追加されたものというのが、今日、多くの学者の意見となっています。)
「試み」とは人が最後には自分自身をも破壊してしまうような偽りの行為をなさしめる力のことです。しかし、これと違った試みもあります。たとえば野球チームの監督が選手達に課すものです。実践のプレッシャーに潰されたり、ケガをしないように訓練のために課す試みです。ここでイエスがいう「試み」は前者の試みです。それは積極的に避けなければならない。イエスも正しい試みかどうか検証してサタンの試みを退けられています(マタイによる福音書4章)。危険な試みは神の前に進み出て回避すべきものです。そもそも人間が試みに逢うのはどうしてでしょう。それは人間が可能性という自由を与えられているからです。可能性や自由を持たないものは試みはないでしょう。動物の選択は多くの場合本能や経験のままに行動するのです。もちろん動物といえども社会的性格をもちますから、<意図的な>行為規範があると十分考えられますが、人間のそれに比較するならば、はるかに僅かなものであると言い切ってよいでしょう。試みとは極めて人間的なものといってよいのです。ここからして、イエスが否定するのは悪へと傾斜する試みのことです。悪は侮り難いものです。それは時に人間のコントロールを越えたものであることは創世記に人間の外なる力として神話的に表現されていることでもあきらかです。それゆえ悪より救い出したまえ、と祈るのです。
試みはまた不安に通じます。人間の限定性と可能性に満ちた自由との間で不安が生じるのです。不安のアゴニーを静める方法は権威に依存することです。しかも、この権威は世界内的権威であってはならないのです。そうではなく世界を超えた権威でなければならない。なぜなら世界内的権威は全て歴史的であって、究極的なものとはならないからです。本当の安らぎは得られません。我々はこの意味でも、神に対して救い出してください、と祈らねばならないのです。

 
 信仰告白
  
  信仰は直接神様に出会うという経験でありますが、その経験を言い表すのは、告白と呼ばれます。告白は救いの客観的な表現です。そして、その表現に出会った他の人に新たな神との出会いを再現します。こうして、信仰は次々に受け継がれていくのです。原初の信仰告白を教会では、「使徒信条」(古くからのものが、現在のかたちとなったのは、7〜8世紀頃だという説があります。)と呼んで大切に受け継いできました。使徒たちの信仰を言い表した原初の形で、後に、教義となっていった原型といってよいでしょう。したがって、特定の時代の枠組みの中で生まれたということを忘れてはいけないものではあります。
  
  使徒信条
  
  我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
  我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず、主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(ヨミ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて生けるものと死ねるものとを審きたまわん。我は聖霊を信ず 、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
  アーメン


 

  信仰を持つ人も、この世に生きる人に他ならない。罪がなく聖い生とは、神様の約束として、なお、未来の方に横たわっている生であろう。種々の困難に日々出会いながら、様々な試みを受けながら人は完全な約束の生に導かれるのです。クリスチャンの日々の応答の生こそ、「聖化」の生と呼ばれるものであり、それは倫理的な生の形をとります。「十戒」はモーセという預言者に与えられた十の戒めであり、今日でも信仰と倫理的生になくてはならない基本です。

  十戒(*プロテスタント教会とカトリック教会では多少異なった箇所があります。)
  
   わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

   

  1. あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
  2. あなたはいかなる像も造ってはならない。(*)
  3. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  4. 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
  5. あなたの父母を敬え。
  6. 殺してはならない。
  7. 姦淫してはならない。
  8. 盗んではならない。
  9. 隣人に関して偽証してはならない。
  10. 隣人の家を欲してはならない。




信仰への導き
 

礼拝とは最も価値あるものを神様に献げることです。英語では<worship service>と呼びます。
キリスト教では日曜日を主の日と呼んで、キリストを信じることへの信仰者の応答の行為として礼拝を守っています 。
礼拝のプログラムの例

2012年4月22日 午前10時30分
日本キリスト教団八王子栄光教会
復活節第3主日
日時
教会名
教会の暦を表しています。


司会 龍崎靖子
司会者名
奏楽 相磯聡子 演奏者名
前 奏 礼拝が始まる先ぶれです。
招 詞 司会者 礼拝へと招く言葉です。
讃 栄 会衆一同 導入の賛美歌です。
交 読 90:1−17 会衆一同 司会者と会衆とが交互に詩篇を読み交わします。
信仰告白 使徒信条 会衆一同 信仰を公にした信条を唱えます。
交わりの挨拶仰 「主にある平和の挨拶をしましょう。」
「シャローム」
司会者

会衆一同
司会者の音頭で周りの人と握手・挨拶をします。
牧会祈祷 郷義孝 牧師が行うとりなしの祈りです。
讃美歌 49 会衆一同 一同で賛美します。
聖書朗読 創世記10章21−32節 P.60 説教の聖句からの朗読です。
み言葉への祈り 司会者 みことばのためのとりなしの祈りです。
讃美歌 533 会衆一同 二番目の讃美歌です。
説教
「ノアと子孫たち」      郷義孝 牧師の説教があります。
聖餐式 77(1;3;4) 郷義孝 キリストの食卓です。第1の主日に行います。
讃美歌 579 会衆一同 三番目の讃美歌です。
奉  献 献金を献げます。(自発的なものです。)
主の祈り 93−5 A 会衆一同 キリストの教えた祈りを唱えます。
頌  栄 26 会衆一同 短く神のみ栄を讃えます。
祝  祷 牧   師 祝福の祈りです。
派遣の讃美 486 会衆一同 会衆がこの世へと派遣される賛美です。
後  奏 奏  楽
礼拝当番 田島清江、窪田米子 礼拝の受付かかりです。
配餐当番 沼尻真理子、佐々木利子 キリストの晩餐を配ります。

初めての方は教会員が隣に座って導きますからご安心ください。  
聖書と賛美歌と交読文は用意されています。
受付で記名され、プログラムをお受け取りください。
座席は自由ですが、当番が導く時は御協力ください。
お体の不自由な方・お弱りの方は着席のままで結構です。
プログラムのなかの「奉献」は神様への献げ物の意味ですが、原則自由な献金となっており、義務ではありません。 


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