
(★本文のみです。写真、統計、資料などは掲載されていません。)八王子栄光教会60年の歩み
序 歴史とは人間の諸事実の時間的推移の叙述であり、従って、歴史はその諸事実のいわば羅列に尽きる。その結果、そこに何らかの流れや関連が見えてくるという考え方がある。一方で、われわれは、歴史を単に人間の諸事実に尽きるのではなく、神を信じ神に従う人間の諸事実であると考えている。であるから、歴史は単なる諸事実ではなく、その諸事実が如何に見られるのかという観点を抜きには語れないと考える。その意味で、われわれはキリストの体としての教会である八王子栄光教会の物語(ナラーティヴ)を語ろうとするものである。「キリストに従う」人々のリアルな生と共にあり、現実の人々の生の問いを受肉している現実そのものへとご臨在したもうリアリティーとしての神と人との愛の関わりこそがこの物語の中心だと信じる。
その意味で、われわれは何度も会合を重ね、共同体としての八王子栄光教会の物語を分かち合い、共に形づくる作業を行った。それゆえ、ここに語られる歴史は八王子栄光教会の共同体としての物語だと言えよう。私たちは公同の教会の一部を相互に形づくる諸教会の皆様と共にこの物語を分かち合いたいと願う。
第1章 教会成立前史 日本同盟基督協会とその歴史
八王子栄光教会は1948年(昭和23年)7月16日を教会の創立の日と定めているが、実はこの日に先立つ教会の長い歴史が既にあった。それは途切れることなく今日へと流れていると言ってよい。その意味で教会の創立は戦前に遡るともいえよう。それが1935年(昭和10年)に始まる日本同盟基督協会としての歴史であった。そこで、以下、まずその同盟教団とは何であったのかに触れてみたいと思う。(*記述内容は同教団のホームページや『日本同盟基督協会略史』などに依った。従って、それらの個所は引用符と、「です。ます。」調で記されていることをお断りしておく。*)
「1891年11月23日、15名の宣教師が横浜に上陸しました。男女15名の宣教師は、米国シカゴにある北米スカンジナビア・アライアンスミッション(日本語では同盟宣教団と言いますが)、そこから派遣された人々です。男子6名、女子9名、最年少者は18歳、最年長者は35歳です。ほとんどが20代後半の宣教師でした。15名中伝道者が3名、学校教師であった者1名、他の11名は伝道経験のある平信徒。この15名の宣教師によって、日本同盟基督教団の宣教は開始したのです。
この宣教団の創立者は、フレデリック・フランソンという人であった。彼は、1852年6月17日、スウェーデンのある山村に住む信仰深い両親の8番目の子として生まれました。家は鉱山や農地を持ち、比較的豊かでした。彼は優れた語学力を持つ青年に成長していきました。17歳の時、一家は米国に移住しました。スカンジナビア諸国の人々にとって、アメリカ大陸は自由の天地で、大きな魅力でした。アメリカに移住して数年後、フレデリックはマラリアにかかりました。病床生活は一年に及びましたが、この時、母親から熱心に勧められて、彼は聖書に深く親しむことになったのです。彼の魂は、御言葉と御霊によって養われ、これまでの不信仰を悔い改め、罪を告白し、新しい生涯に入ったのです。それは、1872年(明治5年)、彼がちょうど20歳の時でした。
1875年(明治8年)、23歳の彼は、シカゴで大衆伝道していたD・L・ムーディーに出会います。やがて、フランソンはムーディーの教会に籍を移すようになります。フレデリック・フランソンは、1881年(明治14年)1月、29歳の時、伝道者として按手を受けます。またこの頃、アメリカの中部や東部へと巡回伝道に励みました。決心者を募り、恵みの座を設けてする集会は、これまでの形式にとらわれないものであったことから、周囲からは狂信者のレッテルを貼られました。しかし、集まる人々は習慣的な信仰から信仰を復興し、罪を告白し、救いを受け、いきいきとした新生活を始めました。やがて、彼の伝道は母国スウェーデンを含め、ヨーロッパに及びます。行く先々の集会は恵みに溢れました。
彼はドイツを巡回していたとき、1890年(明治23年)、ハドソン・テーラーの中国伝道へのアピールに接します。やがて、この招きに応じて献身した人々によって、宣教団が生まれていったのです。
そのひとつは、母国スウェーデンに生まれたスウェーデン同盟宣教団(頭文字SAM)です。フランソンのヨーロッパ伝道はおよそ10年に及び、アメリカに再び戻った彼は1891年シカゴに、アメリカにおける同盟宣教団を組織しました。かくして、今から90年前、フランソンによって組織された同盟宣教団は、日本に宣教師を派遣してきたのです。この時の宣教団の名前は、北米スカンジナビアン・アライアンス・ミッションと言いました。
当時、日本の他、中国・インド・アフリカにも宣教師が送られました。1891年(明治24年)11月末、日本に到着した15名の宣教師たちは、他の宣教師たちが踏み込まない未開拓地に伝道する使命に燃えていました。伝道地は飛騨高山・伊豆半島・伊豆離島・房総半島、そして北海道アイヌ伝道です。当時の宣教団名は『日瑞同盟基督協会』というものでした。『きょうかい』は協力する方の協会を使用していました。
当時の日本は、明治政府が国家神道を基礎に据え、天皇制支配体制を確立した時代です。明治天皇を頂点にして、帝国憲法・皇室典範・教育勅語を発布したのです。15名の宣教師が日本に着いた年には、内村鑑三の不敬事件が起きています。
1921年(大正10年)には、今日の同盟基督教団の母体としての歩みが始まります。これまで宣教師だけで運営されてきた年会に、日本人牧師と教会代表が加わりました。このことは、教派を作らず世界に宣教してきた宣教団にとっては、大胆な決定でした。年会は高山教会で行いました。
こうして、日本同盟基督協会は、新しい歩みを踏み出したのですが、それは経済的独立を選択したことでもありましたから、大変苦しい船出でした。加えて、関東大震災という天災にも見舞われ、その困難さは増し加わりました。
1936年(昭和11年)には、リーベンゼラーミッションが同盟基督協会に加わることになり、教会数も17、伝道所18と増えていきました。しかし、伝道が進展するかに見えたこの時期、日本の全教会を強大な力で一つの方向に引いていく政治の流れが始まったのです。それは、帝国主義的軍国主義を企てるファシズムです。
やがて政府は、全体主義国家体制強化のため、宗教界をも掌握しようとします。1939年(昭和14年)、時の平沼内閣は宗教団体法を成立させました。これによれば、教会数50、信徒数5000未満の教会は宗教団体として正式に認めないというのです。少数である同盟基督協会は、他の教団教派と合同せざるを得なくなりました。当時の同盟の年会の写真には、十字架の旗と日の丸が並び翻っています。
1941年(昭和16年)、同盟基督協会は、宗教団体法のために自由メソジスト教会・ナザレン教団・世界宣教団とともに日本聖化教団を形成します。その一年前、第17回年会は同盟基督協会の解散年会となりました。こうして、政府の介入によって、全ての基督教会は一つの教団組織となり日本基督教団を作ったのです。同盟基督協会と他の3教派が作った日本聖化教団は第8部として、日本基督教団に属しました。
1940年(昭和15年)には、日本中が神話に基づいた皇紀二千六百年を祝いました。皇紀とは、天皇の御支配の御代を意味します。基督教会もこれを祝い、奉祝信徒大会を催しました。こうして教会は、国家神道に飲み込まれていったのです。
戦争が激しくなるにつれて、牧師も軍隊にとられたり、また教会堂は空襲で焼かれたりしました。やがて、敗戦を迎えることになります。
第2章 同盟宣教団の内紛と日本基督教団からの離脱
「1945年(昭和20年)、日本は戦争に敗れました。日本同盟基督協会は、これまで政府の行政措置によって、日本基督教団に大同団結して歩んできましたが、1948年(昭和23年)、教団から出ました。同教団の中に聖書の根本的信仰を否定したり、自由主義神学の立場を持つ人々があったりしたからです。戦後まもなく来日した、アメリカの同盟宣教団本部のD・ジョンソン理事長の発言は、教団離脱に大きな影響を与えました。
ジョンソン氏は、『同盟教会は教派を超えて、世界の未開拓地伝道をするため協力することをビジョンとしているので、日本基督教団にとどまることは不可能である』と述べたのです。
同盟基督協会はジョンソン氏の発言に応じて、1949年(昭和24年)、再建の年会を持ちました。これより一年前、戦後第1回の年会をもっていますので、これは第2回年会となりました。『世の光』には、日本同盟基督協会の信仰的立場なる一文が掲載されています。再出発した同盟基督協会は、宣教団側の方針を受けてその運営を日本人の自主性によってすることにしました。1952年(昭和27年)には、新しい宗教法人法の下に宗教法人「日本同盟基督教団」を設立し、三年後には、日本人総会と宣教師総会の二部制を採りました。こうして新たな、さらに強い協力関係をもって宣教に励みました。これと前後して、同盟基督協会の名称は日本同盟基督教団となり、アメリカの宣教団もゼ・エヴァンゼリカル・アライアンス・ミッション (略してTEAM)となっています。1955年の同盟基督教団総会の教会数は33,牧師数11,伝道師数21です。TEAM年会は、教会と伝道所数およそ30,宣教師数およそ150です。戦後10年間に大きな進展を見たのでした。」
そして、今日に至るわけだが、このジョンソン宣教師の発言とその結果として、同盟協会が日本基督教団から離脱し、一つの教派としての日本同盟基督教団となる経緯と、同盟教団の再建年会に参加してからさらに離脱して、再度日本基督教団の教会となったわが八王子栄光教会の歴史をさらに詳しく見るためには、当時、何が起こっていたのかもう少し大局から検証してみよう。
このジョンソン宣教師に先立つこと3ヵ月、戦後、1947年(昭和22年)5月16日テモテ・ピーチ宣教師が再来日している。彼はバプテスト派に属し、1913年5月14日、ニューヨーク市の米国人牧師の家庭に生まれた。ムーディー・バイブル・インスティチュートを1935年8月1日に卒業、1936年(昭和11年)5月4日初来日し、日本伝道を開始した。
彼は「日本基督教団は日本の軍国主義の副産物であり、神社参拝を許容した偶像崇拝の権化であり、教団のなかには自らの聖書観と異なる人々が含まれており、協力不可能であるということで日本人教師たちに離脱を迫っていった。」(『日本同盟基督協会略史』、430頁)。この背景には米国の福音派の中にモダニズムに反対する原理主義的な保守派が台頭し、ある種の排他主義的傾向が生じたことによると言われている。彼は戦時中帰国していた間にこの影響を受けたものと推測される。
他方、カールソン宣教師らはこのピーチの立場には行き過ぎを感じ、両者には亀裂が生じ始めていた。こうして同盟協会は教団に残る組と教団を離脱する組とに二分することになった。カールソンやラングといった宣教師は教団残留組に対して経済的な援助を打ち切ったピーチの向こうを張り、経済的基盤の弱い教会に対しては福音教会の宣教師ポール・メイヤーの援助を受ける約束を取り付けることとなった。
その後、ジョンソン総理は1949年1月1日までに、教団を離脱するように勧告書を送付してきた。しかし、同時に、米国本部はピーチの行き過ぎた言動を巡り、彼を日本宣教師から解任した。
こうして、八王子栄光教会が一旦は同盟教団の再建年会に参加したが、後には再度離脱し、教団に再度加入するという背景にある歴史の流れを見てきた。
この大きな流れの中、志村牧師と八王子栄光教会は、日本基督教団の一つの教会であるという選択と決断をして、戦後の教会の歩みを始めたということが出来よう。
第3章 同盟基督教団と志村牧師
第1節 中町時代の教会
同盟協会は、1938年(昭和13年)、年会を開催、飛騨、船津教会に新任の伝道者志村静雄を迎えた。志村牧師は1909年(明治42年)11月23日、高知県に生まれ、1928年7月に高田ホーリネス教会で齋藤喜八から受洗し、1930年9月東京聖書学院に入学、1932年(昭和7年)4月同校を卒業し、朝鮮黄南ホーリネス教会の福音使を経て、1936年4月秋田小坂ホーリネス教会の牧師となり、1937年10月辞任、同年年会で同盟教会に転入、翌年船津教会牧師となり、10年間同教会を牧した。それに続いて、1948年(昭和23年)5月、八王子教会(八王子栄光教会)に赴任した。
「35周年記念誌」に、八王子教会について志村牧師の記すところによると、「当時の八王子は、新教のいくつかの教団が、八王子伝道に手を染めましたが、多くの教団の業が不発に終わり、八王子はキリスト教不毛の地の一つに数えられておりました。現在の教会堂の前にある「これく亭」は、八王子伝道を志ざした、ドイツのリーベンゼラミッションの宣教師館として建てられたものです。この宣教師館で、伝道の計画が立てられ、昭和10年に万町で日本同盟基督教会八王子教会が発足しました。確実な資料がありませんが当初の宣教師は、モジマン師、日本人牧師は堀三郎先生であったと思われます。引き続いてブッス宣教師、平沢牧師が奉仕に当たり、時代の急変により、1941年(昭和16年)6月24日、全日本の教会が、日本基督教団を形成した時には、この教会は「日本基督教団多摩教会」と称したようで、そのころは宣教師は引揚げ、泉谷信造牧師が、少数の信徒と共に教会の「ともし火」を守り続けられました。昭和20年の大空襲で八王子全市が焦土と化し、教会も焼失しました。泉谷牧師が自力で得た建物が、八王子市中町2番地にあり〔約10坪〕そこが信仰の交わりの場であったようです。」
1948年(昭和23年)5月17日、家族6名と共に船津を発って、翌18日朝、八王子に着く。このときの様子を志村牧師は「35周年記念誌」に次のように記している。
「富山、長野、高崎、上野を経て、5月18日の朝八王子に着きました。私は所用の為、途中、中野に松田牧師を尋ねたため、中村氏(船津の信徒)と家族五人が駅前で私を待っていたところ、親切な「おまわりさん」が近づいてきて、「あなたがたは今夜身を寄せる所が有るか」と尋ねて下さったと聞きました。家族揃って中町の、備えられた家に参りました。駅から徒歩五分くらいで、中町二番地の家を尋ねあてました。雨、露をしのぐことの出来る基地が私どもを待っておりました。」
兎に角、志村牧師一家が宿泊し、かつ、仕事の基地と言える教会が既に備えられていたということは、無から始める開拓伝道というより、はるかに重要な助け手が既にあったということになる。
実は、八王子教会は、『日本同盟基督協会略史』(302頁)によると、宣教師、シーリング、モジマンが子安町5丁目に八王子基督教会として開始し、後に、1935年(昭和10年)万町157番地に会堂を建設、この年の11月21日に認可され、八王子教会と称し、日本人牧師堀三郎が伝道師となったもので、最初の受洗者は高橋志那姉であったという。1937年(昭和12年)には、現住会員9名、準会員、求道者30名、受洗者7名、転入者2名、ミッション補助金660円、礼拝平均出席5名、伝道会出席12名、祈祷会出席10名、講義所(2ヶ所)18名、日曜学校3校教師6名、生徒140名という年会報告が残されている。翌年には平沢政経伝道師が牧会に当り、1940年(昭和15年)には、泉谷信造牧師となり、戦時下の国家による統制と弾圧の時代へと向かった。
志村牧師はこのような時代状況を経て、戦後、中町の教会を基地として、伝道を開始したのであった。
第2節 米軍宣教師の支援と交流
八王子教会は草創期より宣教師の働きが大きかったが、同盟協会のC.E.カールソン宣教師は進駐軍従軍牧師扱いとして、再来日し、物心共に援助を惜しまなかった。彼は同盟教団の中でも穏健派であり、日本の伝統や宗教にも一定の配慮を持って宣教を進める立場に立っていた人だが、後に、より過激で、排他的であったテモテ・ピーチらとの間に亀裂を生じることになる。これがやがて同盟協会全体を巻き込み、わが八王子栄光教会が同盟協会を離脱し、日本基督教団に再編入する道へと間接的に繋がって行くことになるのである。
志村牧師はカールソン宣教師の特権と援助によって集会場を改修、増築した経緯を「35周年記念誌」に次のように記している。
「着任の最初に手がけたことは、家の改修と集会場の増築でした。建築と申しましても、古い家の庇の部分を取り除き、そこに五坪の集会場を建てることでした。その費用は、カールソン師の配慮により教会の本部が負担して下さいました。教会に残されている資料によりますと、南多摩地方事務所長に建築申請書が提出された日は、私が八王子に着任した翌日、5月19日付になっております。書類を提出した直後に、カールソン師の協力を得て、地方事務所に建築課長を訪ね、伝道の急務を訴え、許可の促進をお願いしたことを思い出します。」
後に同盟教団を離脱し、日本基督教団となってからも、米軍横田基地のチャプレンであったミラー宣教師の援助は大きかった。中町に新会堂が建築された時の宣教師たちの援助を志村牧師は次のように回顧している。
「約30万円の募金を目標とし、信徒がそれぞれの友人知己を尋ね、募金活動を始めました。しかし窮乏生活の中、毎日を生きることに必死の人々からの募金は、思ったより至難なことでした。そのような中でも、横田基地からの献金、ワイラック・ニュートン師等からの献金が相つぎました。そしてその秋、日本基督教団八王子栄光教会平和記念会堂の起工式を盛大に挙行致しました。その日は天候に恵まれ、全教会員を始め、チャプレン・ミラー師ほか基地の教会関係者等多数が集まり、恵まれた一日でした。夢が、作文の一つ一つが受肉してゆく、困難が一つ一つ解決し、それぞれが互いに起爆剤となって、明日への活力を生み出してゆきました。1951年(昭和26年)のクリスマスの季節になる或日、米軍第5空軍の将校数名が教会を訪れ、日本の子供達の為に市民クリスマスを催したいので協力して欲しいと要請されました。そして参加者に贈物をしたいから便宜を図って貰いたいということで、私は彼等を案内し、市内の商店で、衣料品・菓子等を購入しました。会場は第一小学校の講堂を使用させて頂き、子供達は市役所を煩わして集め、盛大なクリスマス集会を祝うことが出来ました。また12月21日夜には、商工会議所で国際親善クリスマスの集会を、チャプレン・ミラー師、チャプレン・マックウィリアム師を迎え盛大に執り行ないました。
チャプレン・ミラー師は、八王子栄光教会に対し、良き理解者として協力、援助を惜しまれませんでしたが、日本に於ける任務を終えて、1952年(昭和27年)1月18日に新任地に向け出発されました。当日は多くの教会員が基地差し向けのバスを利用し見送りました。(『35周年記念誌』)
その他に、既出の福音教会の宣教師ポール・メイヤーの援助なども忘れられない。
第4章 日本基督教団と八王子栄光教会
第1節 同盟基督教団との対立と離脱
第2章で述べた戦後の同盟協会を巻き込んだ混乱の中、日本基督教団に残る諸教会と、離脱して、宣教師たちと共に新たに教派としての日本同盟基督教会となるものに分かれていった。前者には西千葉教会、伊東教会、宇佐美教会、熱海教会、大島元村教会、波浮教会、新島教会、横浜菊名教会などがあった。そして、後に、南久が原教会と八王子栄光教会が同盟協会から離脱して日本基督教団となった。
宣教師が主導権を取ることに甘んじなかった諸教会の兄弟姉妹は独立教会の道を選択するものが多かった。「35周年記念誌」には、志村牧師が同盟教会との個人的な確執として離脱の道を取ったかの一文が記されているが、真相は大きな日本の諸教会を巻き込む流れの中で起こったことであると理解するのが正しいであろう。この時期の週報に志村牧師自身が次のような一文を寄せているので、再録しよう。
「『時が来た』盲目的に放たれた矢のように、数ケ月前より会堂に『日本教化のために八王子教会の自給を確立し』という決議が出て、集会のたびに信徒の心に刻まれてきた。この矢は不思議に我々の考へを示していた。我々の教会は喜びと感激を覚えつつ、1950年1月1日を新しき発足点として教会の独立を計り、自給を断行することになった。思えば1948年7月16日発足以来1年半、伝道の教会として血みどろにたたかい来たった戦闘の果てとして、その性格の賜物として独立をかちえたことを喜ぶとともに火の柱、雲の柱として我等を導き給う主の助けを確信しつつ、信徒、求道者の心を結集して八王子教化に進みたい。」(1949年(昭和24年)12月11日週報)
第2節 日本基督教団への加入
宣教師団との確執の中にあった諸教会を直に経験してきた教会は、1950年(昭和25年)ごろ、遂に決断し、同盟協会を離脱し、日本基督教団に加入する道へと進んだ。その経緯をやはり、「35周年記念誌」から再録しておこう。
「独立教会の道を歩むか、或いはいずれかの教団に加盟するか。こうした課題を担って新しい年の歩みが始まりました。・・・・その為に信徒の目を広く日本のキリスト教会の現状に向けさせることと、その中から一つの教団を選ぶことでありました。そして市民教養講座でふれあった、日本基督教団に所属する教会の牧師と信徒とのふれ合いから、同教団への加入が望ましいという意見が多数となり、時が熟して1950年(昭和25年)4月30日、信徒総会が開かれ〔出席議員22名・準議員13名〕、日本基督教団加入が議決されました。直ちに書類を日本基督教団東京教区に提出するよう準備を始めましたが、全て完備する迄約4ケ月を要しました。このことの為に、当時の分区長でありました青梅教会牧師久山峯四郎先生、富士見町教会牧師島村亀鶴先生のお力添を頂き、また室野玄一先生、本田清一先生方の御好意に深く感謝いたします。 こうした先生方の協力により、日本基督教団東京教区に、8月31日付で所属承認申請書を提出しました。教団所属承認申請書に添付した書類は次の通りです。信徒総会決議書・八王子キリスト教会規則書・信徒名簿・八王子キリスト教会現況書・資産目録並びに財政現況書・昭和25年度予算書、これに東京教区長の推薦書が添えられ、10月10日付けで教団本部に送付されました。その後教団の委員会より本件に付き、呼び出しがあり、出頭し委員の質問に答えました。1950年(昭和25年)11月20日、日本基督教団総会議長小崎道雄師により教団加入が承認されました。教団加入と共に名称を日本基督教団八王子栄光教会と改めました。今から36年前のことでした。その年12月17日教会堂において、東京教区長・金井為一郎先生の司式により教団加入式が執行されました。式は金井先生の信仰とお人柄がにじみ出た、よき集まりであり、今も身のひきしまる思いがいたします。加入時の信徒数は57名で、教団では第一種教会として遇されることになりました」。
ここに日本基督教団八王子栄光教会が誕生したわけである。
第5章 子安町時代の教会
第1節 中町から子安町への教会の移転
教会は草創期の中町から子安町へ移転することを決意し、さらに、伝道の基盤を充実させようと企てることになるが、「35周年記念誌」からその経緯を再録してみたい。
「中町での教会活動が定着した頃より、教会の健全な成長とその将来について考え、祈りに導かれるようになりました。開拓伝道を始めて早くも十年を過ぎ、礼拝堂は完成しましたが、牧師館のない現状に不安を感じ、将来を考えざるを得なくなりました。そうした時に、市街地から少し離れても良い場所があれば、移転も又やむを得ないという気持ちが動き始めました。しかし、いざとなるとなかなか困難な大事業でした。暗中模索の時に、教会にとっては好適地と思われる候補地がニケ所浮かびあがってきました。一つは子安町3−17番地で、約600坪の敷地に50坪の建物がついて、価格が約6百万円でした。そしてもう1つは同じ子安町の3−22−8番地で、267坪の借地に40坪の住宅がついて、こちらは価格が約100万円でした。前者の難点は、刑務所と地続きになっていることと、価格の点で購入が困難であったため、欲しくはありましたが、あきらめ、第二の候補地〔現在地〕が選ばれました。しかし、この買収した家屋には居住者がおり、この人達の立ち退きについて問題がありました。しかし、やがて解決し、移転する事が出来るようになりました。
中町の土地売却については、教会関係の有力者を介し、土地会社に依頼しましたが、こちらの望むような買主がなかなか現れませんでした。たまたま、当時の八王子市議会議員で土建業を営む、高橋寅之助氏との間で売買契約が成立し、子安への移転が決定しました。その頃には先の居住者も全員転出し、いよいよ移転が始まりました。十年余住みなれた中町の会堂での最後の礼拝を守ったのは、夏も逝く頃でした。新住所には、当時今の牧師館が敷地の中央に有り、それを曳家し現在地に移しました。この工事は日野市在住の大野工務店が担当しました。会堂の解体、移築は高寅組が施工しました。担当技師との間で、充分な打ち合わせをしたうえ、棟梁のよき判断により、この種の工事では最良の結果が得られ、樹木に囲まれた子安の岡に、聖堂が移築されたのが、1959年(昭和34年)11月のことでした。会堂と共に竣工の予定でした幼稚園舎は、高寅組の都合により延び、翌35年5月に完成、ここに凡ての工事が完了しました。当時は今のように市街地に高層建築物が無く、教会堂から八王子市内を一望のもとに俯瞰することが出来、駅より徒歩7分位のこの高台にある教会は、宣教の拠点として、最適の場所と考えられました。友人の中には、市の中心地を去ることに対し、その次は何処へ行くのかと、冷笑する者もいましたが、今にして思えば、まこと主の正しき導きであったと確信しています。
会堂移転後に、日本経済は高度成長期を迎え、中町には西武デパートが進出し、教会の跡地が高額で取引されたとき、知人が『先生、今まで中町の土地をお持ちになっておられたら』と言われましたが、私は移転のことを振り返り考え、悔いは浮かびませんでした。1960年(昭和35年)6月12日、新装なった会堂で、祝福のうちに献堂式を挙行しました。子安移転の理由について再び振り返ってみます。1、礼拝堂・幼稚園舎・牧師館の整った教会を建設すること。2、幼児教育の為、奉仕出来る場を備えること。そしてその時私の心の奥底に、潜在意識として、若い日に歩いたソウルの街の、丘の上の教会から流れくる夕べの鐘の音を聞きつつ、丘の上の教会を夢みたことが働き子安への移転を決断したのではないかと考えさせられています。伝道開始後11年目にして子安への移転を完了しました。その工事費は、中町の土地売却費と信徒の献金によって充当しましたが、信徒の一人川端信一兄の父君から隠れた御協力を頂いたことも忘れられないこととして、明記しておきます。」
こうして、子安では充実し、多様なといえる伝道が開始した。
第2節 栄光幼稚園の併設と多様な伝道
この多様なともいえる伝道について、志村牧師は『35周年記念誌』に次のように記している。
「中町の頃から教会の地域社会への奉仕として、幼児教育の場を作ってきましたが、それは完全なものではなく、時代の要望に添いかねたものでした。しかし、とりあえず未認可で幼稚部を開設していました。子安に移転し園舎も完備されたので、その働きを継続いたしました。当時子安町にはこのような施設が皆無であった為、園児の募集には問題もなく、経営も一応保たれ、人々の信頼も得て発展してきました。当初の教諭は大林淑子・志村郁子があたり、現在は栄光幼稚部として、園児45名が通園し、卒園生は900名を超えています。
子安での伝道について記す前に、当時〔昭和30年代〕の八王子市の状況について書き記します。市の中央を東西に貫通する国道20号線〔甲州街道〕の拡張工事が進展し、都市計画による放射線通りの工事が始められ、経済面ではインフレが進み、庶民の生活には余裕が有りませんでした。しかし、敗戦の傷は次第に薄れ、人々は自分の生活を取戻しつつあり、人口も日を追って増加し、子安地区住民の念願であった、国鉄八王子駅南口が開設され、行政に当たる人達の口からは、50万都市建設の話題が提供されるようになってきました。子安の伝道は、中町とは一味違ったおおらかさがありました。それは伝道の為に必要とする諸条件が整ったという安心感からくる、ゆとりでもあったと思いますが、礼拝には常時20数名が出席し、新しい人の顔もボツボツ見え始めました。毎年の創立記念日にはキリスト教界の知名の士を招き、伝道心の高揚することを常としました。講師として元内閣総理大臣片山哲氏・キリスト教新聞社々長武藤富男氏・佐古純一郎氏等の協力を頂いたことを思い起こします。1965年(昭和40年)代に入り八王子市は変貌しました。1967年(昭和42年)12月1日に京王高尾線が開通し、市郊外には次々に団地が開発され、多摩ニュータウン計画も進められ、周辺の多摩丘陵地帯は住宅に覆われ、様相が一新しました。人口の流入に伴い、基督者の移住も多く、本教会にも家族単位での信徒が加わり、着実にその数を増してゆき、基礎を強固にすることが出来ました。この大切な時期、昭和30年より40年代にかけ、私が、日本の矯正施設の収容者の宗教々講の問題と取組み、全国教誨師連盟の常任理事、事務局長或いは事業部長としての奉仕に当たり、多くの時間をその為に費やしたことから、教会の伝道活動に大きなマイナスを与えたことを、卒直に認めなければなりません。しかし、又この期間に、私が法務省の担当者、宗教界の著名者、財界人達と出会うことにより、多くの利益を得、それが牧会、講壇の仕事に、大いなる益をもたらしたことも事実であると信じています。八王子での宣教活動は、多くの若い人々の支持を得て発足し、まがりなりにも独立教会として歩んできました。教会は、主がお教えになられたように、宝を天に積むことが大事な任務であります。昭和28年の秋、吉村孝子さんを天に送ったことで天国が近くなり、ついで本井永子さん、そしてこの教会の始めからの一粒種、高橋志那姉を送りましたが、昭和五十年には、1月に窪田嘉明兄・中村安吉兄、5月に矢野豊吉兄・神田清子姉、10月に菅原喜代助兄、つづいて増田仲姉を天に送りました。天国が近くなったという思いと共に、天国が私達の中に来たように思えてならなくなりました。なお八王子の伝道で知り合い、天に帰った忘れ得ぬ人々の名をここに書きとどめます。〔多摩少年院々長徳武義氏・同副島和穂氏母堂まつみ姉・元陸軍少将西山啓吉氏・浅川かねよ姉・倉本と志子姉・窪田藤江姉・小林茂氏・清川一郎医学博士・みんせい社々長福山 朗氏・織物研究家森村四子郎氏等を思い起こします。〕中でも矯正施設の中で、天国に行きたいという願いを燃やし、「天国に行けるか?」と私に尋ねられたので、私が「天国に入れます」と答えました○○君の姿が思い浮かびます。教会は天に結ばれ、天国の姿が写し出される所であることを、身をもって知ることが出来ました。」
以上、志村牧師が『35周年記念誌』に、自分が思い出すままに記されたと思われる記述をそのまま、転載した。
志村牧師の印象は、内外に激しく伝道を展開された方だった。野外伝道や市民講座などを度々行い、一般の方々が多数参加、来会した。志村牧師は天性とも言える伝道の能力の持ち主であったと回顧をする古くからの会員もいるほどで、教会外でもミッション系・スクールの理事や医療刑務所の教誨師などもなさり、そこでも一定の働きをし、重んじられていた。
説教に関しては、狭い意味での聖書の解説や解釈にとどまらず、聖書を離れ大胆に世の中に起こっていることどもを含んで語られるという形の、いわば自由なトーク的な要素を持ちながらも、幅広い福音理解に立った話をされたようである。
当時は、副牧師として、森武夫、久保亨両先生が協力され、礼拝説教をされるということはあったが、教会は教師の謝儀を出せないような状況にあった。
栄光教会は志村牧師の開拓伝道的な出発を契機としたがゆえに、教会運営を牧師に委託する形で行われてきた。そのために、不都合なところも発生した。例えば、教会規約の不備、会計上の手続きなどの不備が上げられる。教会内に会計監査がなく、外からの会計士が来て、総会で報告するといったことであった。
1988年(平成元年)3月、志村牧師が引退を決められ、次の山田静夫牧師の招聘は志村牧師が行われた。志村牧師はその後、一線を退かれ、名誉牧師となり、1990年(平成2年)交通事故による不慮の死を遂げられ、天に召された。
第6章 志村静雄牧師から山田静夫牧師へ
山田牧師の就任の経緯は、1988年(昭和63年)ごろ、志村牧師が80歳ごろであったが、大島の波浮教会から山田牧師を連れてこられたということに始まる。波浮教会はかつて教団に残った旧同盟系の教会の一つでもあったからだと思われるが定かではない。
1989年(平成元年)、山田牧師は、就任時にまず、自分は牧師という身分であるが、神様の前には信徒と同様であるという教師観を披瀝し、長く教会が志村牧師に依存しすぎたという伝統を壊し更地にするために来たと言われた。
これが自主的に信徒が活動し、行動するという体制となって現われた。教会員を頻繁に訪問をされ、寸暇も惜しむほどに伝道に励まれ、いわば、内を固める教会形成を心がけられた。この点が志村牧師と対照的であったこともあり、信徒は強い印象を受けた。礼拝出席者も一時期上向きとなっていった。「神の家族」を目指し、クリスマスの時期には楽しい愛餐や交わりに会員の心は喜びに踊った。また、年に一度の一泊旅行が企画され、良き交わりや楽しい時を過ごすという伝統ができた。
この点に関して、1994年度の教会総会資料、「前年度を顧みて」という牧師の総括には、就任時に目指した信徒の参加する主体的な教会を形成する意図を表す言葉が、「信徒によって担われる教会・・・」、「信徒が支える教会・・・」と幾度も現われることでも伺える。
一方、洗礼を受けていない求道中の信徒にもオープンな姿勢で臨まれ、信徒以外の方達の結婚式も頻繁に行われた。これは会衆中心型の教会形成の一環として、一般の人々を引き込むための伝道の一方策だったと言えよう。従って、先生は開かれた教会形成を目指されたのではないかと思う。
しかし、役員会に、誰でも陪席を許された結果、不規則発言が目立ち、混乱を生む萌芽が隠されていったとも言えるかもしれない。自由と恣意性との区別を会衆派の伝統に養われてこなかった信徒の側が、履き違えたということもあったであろう。牧師の側も、秩序をもって制するという点に関して、先生のやさしさが出たということであったかもしれない。志村牧師時代の教師中心の教会形成から山田牧師の信徒主義的な教会形成への変化が急激であった為に、そのような伝統で養われてこなかった信徒にとっては理解が十分でなかったとも解釈できるかもしれない。
1990年(平成4年)、幼稚園の経営が財政的に困難となり、廃園となった。子どもの数が減少し、人件費が負担となったことによると言われている。日本のキリスト教会はかなりの教会が幼稚園を併設し、地域への伝道の拠点としてきた。子どもから、母親そしてその家族を巻き込む絶好の伝道拠点だったといえるだろう。しかし、そのような幼稚園経営は、少子化の進む社会の中、一方で、教会の財政を圧迫したことも事実であった。やがて、多くの教会付属幼稚園は送迎バスや施設の充実した大規模な公立や私立の幼稚園に取って代わられていった。八王子栄光教会付属栄光幼稚園もその大きな流れに巻き込まれたのだと言えよう。
山田牧師、辞任の経緯は1993年、夏頃に、先生から突然必要とされている教会があるとの告白がなされたことに始まる。さらに同年10月の臨時総会で教師異動の件が承認され、そして、1995年3月に正式に辞任され、次の任地へと向かわれた。
1995年度の総会資料、「前年度を顧みて」には次のように記されている。「山田牧師赴任以来課題とされてきた『信徒によって担われる教会』建設はいまだ緒に就いたばかりです。前年度の総会においても1994年度は『信徒によって担われる教会の実質が問われる一年になろう』と位置づけられました。しかし、この目標のために歩んだこの一年は、果たしてその目的のために正しい歩みをしたであろうかと問い直さなければなりません。」
このような総括を、当初、誰が予期したであろうか。しかし、牧師があまりに早い時期に離任を決められ、離任までの一年半は足早に過ぎ、就任時に目指された教会形成という課題が充分に実りを迎えられなかったのは、教会員も返す返すも残念であった。しかし、教会員は先生の新たな場での宣教の働きを祈念して送り出したのであった。
第7章 山田静夫牧師から三枝千洋・文子牧師へ
1995年(平成7年)の正月、三枝千洋・文子牧師夫妻がいわゆるお見合いの説教に訪れ、千洋牧師を主任、文子牧師を担任教師として、二人を招聘する運びとなった。両牧師は4月に着任された。招聘時には皆が誓約書に署名をするなどして、教会員の間での招聘への一致を図った。
会衆を中心とする教会形成という印象は山田牧師が去られた後にも会員の中にはまだ、残っていた。一方、三枝千洋牧師は仙台の東北学院で薫陶を受け、育たれたということもあってか、長老主義的な教会形成を志向していたようだ。長老主義は会衆主義の向こうを張った教会形成の伝統が強く、牧師も宣教長老と呼ばれ、ある種の権威主義の伝統をもっていた。この伝統では長老は信徒とは一線を隔したのである。とはいえ、千洋牧師の人柄については、「天衣無縫な方、常に微笑を浮かべ、熱意のこもった愛情とユーモアのある良き説教をなされた方だった」と述懐する人もいる。
三枝文子牧師は阪神淡路大震災の折に、現地でボランティア活動をされ、その後、自らが講師となって、教会の特別伝道集会を開催、「神の愛とボランティア」を説かれ、会員に深い感動と啓蒙を与え、良い宣教を行われた。また、西東京教区の設立時には、若手の陰の力となり尽力し、貢献された。
しかし、上述の教会形成に関して、会員との微妙なずれは積もり積もって、やがてぶつかり合うということになった。二人の宣教がまだ緒についたばかりだったというのにもかかわらず、信徒のなかに牧師の反省を求める短兵急な要求が起こり、教会として憂えるべき事態に発展した。三枝千洋牧師の教会形成論と一部信徒とのすり合わせが異なったことで大きな結果が生まれることになったのかもしれない。
教会創立60周年の歴史と教会の未来を見据えた上で、人の愚かさと罪の現実に向き合うことは必要なことであろう。今なお、癒えない傷が会員の内にあり、この試練を乗り越え克服したとは言いがたい。同時に、その罪の現実が深く自覚されればされるほどに、神の恵みが増し加わり神の栄光が現れると聖書が語ることも真実であると信じる。よって、このことは長く教会が記憶し、伝えていかなければならないことだと思う。
総じて、牧師と信徒間の相互不信が積もり積もって、爆発する前に解決の道筋を見出していくことが、教会の未来の方向であると言うべきであろう。牧師と教会員との愛と信頼の関係について反省し、爾後、再び同様のことが発生しないように肝に銘じたい。愛があふれ、節度と礼をもった教会創りを全員で進めて行きたいものである。
この後、三枝千洋牧師が主任担任教師を辞し、代わって夫人の三枝文子牧師が主任担任教師となり、事態の収拾に当られた。役員会への一般信徒の陪席を原則として認めないとの合意ができた。また、家庭集会や家庭訪問がきめ細かく続けられ、痛みを負っている信徒の信仰の養いと訓練に心を用いられ、牧師本来のよき働きは、内外ともに認めるところとなった。三枝文子牧師は任期を全うし、次の任地へと赴かれた。
第8章 三枝文子牧師から郷義孝・かしこ牧師へ
第1節 郷義孝・郷かしこ両教師招聘までの経過
1999年10月17日、三枝文子牧師の任期終了(2001年3月)を1年半後に控えて、臨時教会総会を開催。後任牧師の招聘委員会設置を可決。11月28日、教会懇談会。数年来の経験を経て、様々な思いが語られた。@教会員同士の話し合いを深めて方向を出したい。A牧師に頼るのではなく、信徒も教会形成にかかわる思いを大切にしたい。B教団とのかかわりを視野に入れ、広い範囲からの人選が望ましい、など。
2000年1月16日、臨時教会総会。招聘委員を選出。中村恵二(委員長)、山田悦子(副委員長)、松原美智子(書記)、佐々木利子(会計)、玉川昭夫、沼尻真理子。
2月20日、教会懇談会。3月26日、後任牧師の紹介を西東京教区に依頼することとする。招聘条件を確認。@年齢は40、50歳代の方が望ましい。A謝儀年額300万円。(借地料年額150万円の支出があるため、これが精一杯である。)B牧師館に住んで、ウィークデーの活動をお願いできる方。
4月13日。委員2名が西東京教区議長大宮溥牧師にお会いし、当方の事情、希望などをお話しし、紹介を依頼する。大宮牧師より、「牧師は神様が与えて下さると信じて、教会で祈りつつ備えていただきたい。謝儀の点から考えて、新卒の若い方か、他に仕事をもっている方、退職前後の方などの範囲で考えてみよう」とのお返事をいただく。10月22日、教区より推薦された教師について教会懇談会で話し合い、教会の現状を先方に伝えることを確認。10月29日。先方より断りの返事があった。
11月23日。教区伝道協議会の折、教区三役と面談。招聘条件の故に、人選の困難を告げられる。
2001年1月14日、教区より、郷義孝教師を主任担任教師に、郷かしこ教師を担任教師に推薦したいとの連絡があり、今後の進め方を検討。1月24日、郷義孝・かしこ教師宅を牧師と委員が訪問。当方の情況など話す。2月4日、郷義孝教師が礼拝宣教をし、その後、両教師と懇談会をもった。委員会は両教師の招聘に賛成する旨、役員会に報告。
2月25日、臨時教会総会で、郷義孝牧師、郷かしこ牧師の招聘が決定する。3月4日、招聘状作成。6日送付。10日に両教師より受諾の書面届く。3月29日。両牧師、牧師館に引越し。4月1日、両牧師着任。当教会の情況により、牧師招聘条件には無理があり、招聘は困難であったが、西東京教区三役の尽力があったことと、現状にとどまることなく前向きにと願う当教会の思いを、郷義孝、郷かしこ両牧師は理解してくださり、条件を了解して、招聘を受諾してくださったことにより解決したことを、神に感謝する。
第2節 会堂・牧師館の老朽化と新築への動き
八王子栄光教会が八王子市中町から現在の子安町に移ったのは1959年11月である。「牧師館のない現状に不安を感じ、またあまりに街の真っ只中にあるため環境が悪化、伝道活動に支障をきたすようになったからだ」と教会創立35周年記念誌『溢るる恩寵の記』にしるされている。
八王子市の住宅地子安の丘に262坪の土地があって、 そのうちの162坪が長谷川家、100坪が小川家の所有であった。そこを河合正恭氏(八王子織染学校―現・八王子工業高校―校長)が借りて44坪の自宅を建てていた。八王子栄光教会は河合氏から引き継ぐ形で、その262坪の土地を長谷川・小川両家から借り受け、河合正恭氏からその家屋を買い取ったと、これも上記記念誌に書かれている。
262坪の土地のほぼ中央に建っていた家屋を南側に移して牧師館とし、北側から中央部分に、築6年を経た中町の会堂を解体して移築した。地主、小川一麿氏の記憶によれば、昭和10年ごろにはすでにそこに河合氏の住まいがあった、と言うから、教会が牧師館としたその家屋は築30年を経ていたに違いない。
八王子栄光教会が子安町に移って40年が過ぎた2000年ごろになると牧師館の老朽化は甚だしく、土台は腐食し、廊下は軋み、襖や障子もきちんと閉まらなくなっていた。耐震強度を専門家に調べてもらったが強い震度の地震に耐えられそうもなかった。浴室は強い雨が降ると、雨漏りがした。その都度応急の修理を重ねてはきたが、そろそろ限界にきていた。手の込んだ和風建築ではあったが、築70年近くは経っていたのである。
2003年、この家屋を取り壊すことになった折、まだ使用可能なエアコンなどを取り外しに来た建築士がほれぼれと眺めながら「すばらしい造りだ」と感嘆した。
会堂はまだ使用に耐えられる状態にはあったが、会堂に付属して建てられていた幼稚園舎は柱が傾き、窓の開閉もままならなかった。少子化のため幼稚園事業を停止してすでに久しかった。牧師館だけの建替えも考えられたが、借地契約の更新やら建替え承諾料の支払いなど余分な経費が生じることになる。更にこれから先、毎月13万円余りの借地料を払い続けなければならない。借地料の値上がりも視野に入れなければならない。老朽化ゆえ、補修費用も大きくなってきた。それよりもなによりも教会員の半数はすでに70歳を越えていた。教会の財政力から見ても、この辺が決断のしどころか、と考えられた。
しかし、慎重論もあった。建築には教会員の一致した支えが必要である。われわれに果たしてその力量があるかどうか。外よりも先ず内を固めるべきではないか。郷義孝・かしこ両牧師を迎えて、新しい体制は整いつつあったが、会堂建築という大きな仕事に取り組む自信はなかった。蓄えはわずか300万円ほどしかなかった。両論にそれぞれの理があったのである。
毎週のように議論を重ね、ほぼ1年が経過した。2001年の全体懇談会で、とにかく、一歩踏み出してみよう、という意見が出てきた。この間の話し合いの過程で、地主との間にいわゆる借地の等価交換が可能であることを、中村恵二兄、日本聖書神学校の神学生で土地建物などの問題を専門とする弁護士の鶴田岬兄のアドヴァイスとして提示したことが新会堂建築へと傾斜する上で重要な要素になった。こうして、一歩一歩進める中で自分たちの力を試してみようという意見に傾いた。教会堂という外側を造る作業の中で、教会という内側も造ろうじゃないか、ということで大方の一致をみた。
第3節 新会堂・新牧師館建設への歩み
(1)土地交渉始まる
新しい会堂を建てるにしても、どこに建てるか。めじろ台はどうか、片倉はどうか、という話も出たが、この地、子安の丘を離れたくない、というのが終始動かぬ大勢であった。しかし、次の一歩をどう進めたらよいのか。全く先の筋道が見えなかった。地主さんを訪ねて、私たちの現状と希望を正直に話してみよう、と考えた。
2002年7月15日(月)、郷義孝牧師、田島兄、中村兄、森谷姉の4名が、小川一麿氏を訪ねた。「現在地に会堂と牧師館を新築したい。そのために、現在借用している土地の借地権の一部を買い取っていただくか、土地を等価交換していただけないか」という趣旨のことを率直に申し上げた。小川氏は即答を避け、言葉に慎重ではあったが、教会側の考えに前向きな姿勢を見せてくれた。
一週間後の7月22日(月)、「土地の等価交換に応じてもよい」という小川氏からの回答があった。「ただし、長谷川さんの東側の後ろに入り込んでいる短冊形の小川の土地を、長谷川さんの南側部分の土地の一部と交換すること。つまり小川の土地が長方形になった上で」という条件が付いていた。
翌7月23日(火)、早速長谷川氏を訪ねた。小川氏に最初話したのと同じ趣旨の教会側の現状、希望を述べた上で、小川氏からの条件付提案を伝えた。長谷川氏は突然の話に特別驚いたふうもなく、終止黙って聞いていた。「わかりました。ただ、私一人では決められないので少し時間をもらいたい」という長谷川氏の答に、われわれはかなりよい感触を得た。
それから一月が経った。長谷川氏からはなんの返事もなかった。手紙を差し上げたが、反応はなかった。小川氏に相談すると、「私から長谷川さんに話してみましょう」と言って、11月4日(月)、小川氏が長谷川氏宅を訪ねてくれた。その結果を電話で小川氏に尋ねると「長谷川さんは土地の等価交換に反対のようですよ」と言う。11月12日(火)、長谷川氏本人の口から正式の回答をもらうために、長谷川宅を訪ねた。「長谷川さんは土地の等価交換に反対のようですが」と切り出すと、意外にも「いや、小川さんが賛成なら、私のほうはいいですよ」と言う。小川氏が旧制第二商業学校で長谷川氏の数年先輩に当たることも、多少は関係したのかもしれない。
具体的な話合いに入り、専門家の意見も聞いた。子安町は路線価格から見て、6:4で借地権所有者に有利、ただしこれは一つの基準であって、法的根拠はない。地主との話合いでまとめるのがよい、というものだった。長谷川氏は不動産業の免許を持っていて、取引の実際にも明るかった。「このあたりでは5:5が普通で、自分もそのように処理してきている」と言う。小川氏も5:5を主張した。教会側は役員会と建築委員会の合同会議を重ね、最終的に、長谷川・小川両家からの提案「長谷川家は西側と北側道路に面した部分、小川家は西側の道路に面した部分を、それぞれ50% 保有し、教会側には東側50% を分与する」を了承した。
2003年1月20日(月)、午後3時から八王子栄光教会にて地主側長谷川・小川両氏と教会側代表が正式に会合し、土地分配、土地測量・分筆費等の負担、借地料納入停止などに関する「合意書」を確認了承した。
八王子栄光教会は借地262坪の50%を自分たちの土地として所有することができた。長谷川・小川両地主が終始好意をもって教会側の話を聞き、誠実に対処してくださったことに感謝しなければならない。これはまた40数年にわたって営々と教会を支え、けっして楽ではない教会会計の中から滞りなく月々の借地料を払い続け、両地主との間に信頼関係を築き上げてきた教会員諸兄姉の力以外のものではない。
(2)建物の規模と資金の調達
新しい会堂と牧師館はどれほどの広さにしたらよいのか。すべては調達できる資金次第ではあったが、今の礼拝堂は40.7坪だからやはりそれくらいは必要だろう。牧師館も20坪は欲しい。小さいながらも集会部屋が欲しい。炊事場、トイレ、…と数えていくと80坪くらいにはなる。坪単価60万円としても5,000万円近くになる。更に内部備品、外構、それに旧会堂・牧師館の解体費用、仮礼拝所の確保などを考えると、必要経費はふくらんでいった。
所有地の一部を売却することも考えた。しかし、建物は小さくてもいい、粗末でもいい、教会の将来のために土地は売りたくない、というのが教会員の総意であった。教会員による一括献金、教会債の発行、外部への献金依頼、この三本柱で一歩踏み出すことにした。
教会債は1口1万円で、無利子にした。資金調達の様子を見て、銀行ローンも視野に入れなければならないので、先ず、教会員から協力してもらえる予定金額を出してもらった。
一括献金1,500万円、教会債購入3,000万円。これで、銀行ローンという選択肢は消えた。
そして、これは少し先の話になるのだが、設計会社、施工業者が決まり、会堂と牧師館の設計図が出来上がり、必要経費の概算が出たところで、牧師や教会員関連、西東京教区、全国の諸教会に献金依頼を約1000部発送した。A4版二つ折りで、一面に新会堂の完成予想図、二面に建設趣意、三面に建設必要経費、四面に内部の設計図を載せた。毎日のように処処の教会から献金が送られてきた。それは金額の多寡に関係なく、私たちにとっては等しく大きな声援であった。総額400万円近くに達した。教会に出席されている求道者、また教会員につながる方々からも広くお力添えを頂いた。
工事が完了し、諸経費を支払う時点で、私たちの手元には5,000万円を越える資金があった。
内部献金:16,887,897円(求道者・教会員関係者を含む)
外部献金: 3,839,960円
教会債 :30,250,000円
合計 :50,977,857円
(3)創建委員会、そして工事始まる
実務を遂行するために、従来の建築委員会を改組して、創建委員会とした。「創建」とは単に「建物としての教会」をつくるのではなく、同時に「内なる教会」も創るのだ、という意味を込めたものであった。
創建委員会の下に、いくつかの小委員会を置いた。教会員は原則として全員いずれかの小委員会に属するものとした。
創建委員会
○ 設計構想小委員会――教会の理念・使命に基づき、建築構造・設備・外構などについて提言する。
○ 祈祷小委員会――建築完成のための連帯祈祷を組織し実行する。
○ 臨時礼拝所小委員会――臨時礼拝所を確保し、教会の備品・器具等の移管を手配する。また、引越し作業を主導する。
○ 財務小委員会――献金の依頼・管理・記帳を行う。また、教会債の発行・管理・返済を担当する。また、建築に関する一切の支払い・帳簿管理の責任を持つ。
建築の進捗状況を全員が共有するために、『創建ニュース』を発行することにした。創建委員会第1回会合の内容を伝えた第1号(2003年3月16日発行)から、新会堂・新牧師館が完成し、教会の新しい日常が見え始めた3月半ばに至るまでの1年間、月に1〜2回の発行を続け、第15号(2004年3月14日発行)をもって終刊とした。(巻末資料集参照)
建築施工会社の選定には紆余曲折があった。新築計画が持ち上がった当初から、東京ミサワホームには大変お世話になった。建物の設計構想から資金捻出のための土地売却に至るまで、懇切な助言を頂いた。当然、施工依頼を前提としたものであった。しかし、2003年に入って、ミサワホームの経営危機が表面化し、いくつかのマスメディアによって報じられる事態が起こった。実際の教会建築に支障をきたすとは考えられなかったが、教会員の中には不安の声があった。創建委員会は東京ミサワホームとのつながりを断つことを決めた。苦境の中にある会社に追い討ちをかける結果になった。忸怩たる思いはあったが、止むを得なかった。
設計構想小委員会を中心に検討をすすめ、創建委員会は村井合同設計に設計・管理を依頼することに決めた。村井敬氏はカトリック信者で、教会建築の経験もあった。西新宿に大きな設計事務所を開いていた。創建委員会と村井設計との間で会議を重ねた。われわれはしばしば西新宿の村井設計を訪ねた。村井設計もしばしば設計図を携えて八王子を訪れた。牧師館と礼拝堂を別棟平屋にする案も出たが、最終的には一階を牧師館、二階を礼拝堂とすることで落ち着いた。村井設計の斡旋で施工業者が決まり、「経費見積り」が示された。
設計監理: 株式会社 村井合同設計
施工 : 株式会社 間組
完成保証: 安藤建設株式会社
経費見積り
基本費用 :40,400,000円
外構追加工事: 561,200円(フェンス・アプローチ等)
別途工事費 : 4,186,000円(エレベーター・キッチン等)
役所手数料等: 195,300円
消費税 : 2,263,825円
______________________________________
合計 : 47,606,325円
JR八王子駅南口近くに臨時礼拝所を見つけることができた。いよいよ引越しである。差し当たっての日程を決めた。
2003年4月20日(日)………イースター礼拝の中で、会堂へのお別れ会
4月27日(日)………教会総会
5月 1日(木)………引越し完了
5月 4日(日)………臨時礼拝所での最初の主日礼拝
旧会堂・牧師館の解体作業は2003年7月半ばから始まって、2週間ほどで終わった。
13年前、八王子栄光幼稚園の最後の園児たちが卒業の記念に埋めたタイムカプセルが掘り出された。その園児たちもそろそろ二十歳の成人式を迎える。
2003年8月18日(月)、すでに更地になった旧礼拝堂跡地で郷義孝牧師司式の下、起工式が執り行われた。前日まで雨模様のお天気が続いたので、足元はぬかっていた。所々に板を渡し、椅子を並べた。時折爽やかな風が吹き抜ける中、詩篇127「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ守る者のさめているのはむなしい」が朗読された。
(4)新会堂・新牧師館成る
2003年11月8日(土)、新しい会堂の棟上げが行われた。二階に礼拝堂(31.3坪)、一階に礼拝堂ホールなど(11.5坪)、そして牧師館(19.8坪)の全容がようやく見えてきた。
11月の末に屋根葺きが終り、先端に十字架が立つに及んで、それまでは何の建物だろうと不審そうに眺めて通り過ぎていた人たちが「ああ、これは教会なんだ」と合点がいったように頷き合った。
年が明けて1月7日から作業が再開され、内装の仕上げが行われた。外構も整備段階に入ったところで、1月31日の完成引渡しを挟んでの教会日程を組んだ。
1月27日(火)――教会側による新会堂・新牧師館の完成点検
1月31日(土)――完成引渡し・業者からの使用説明
2月8日(日) ――臨時礼拝所での最後の主日礼拝
2月9日(月) ――新会堂・新牧師館への引越し
2月11日(水)――臨時礼拝所返還
2月15日(日)――新会堂での最初の主日礼拝
3月28日(日)――新会堂落成記念コンサート
5月23日(日)――献堂式 (のち、5月30日〈日〉に変更)
新しい会堂の広さは旧会堂とほぼ同じだが、講壇の位置が南北逆になった。旧会堂では、会衆は南に向かってすわったが、新会堂では北に向かってすわった。礼拝中はカーテンが引いてあるが、礼拝後カーテンを開けると、JR八王子駅やそごう百貨店や京王プラザが一望できた。天井も高くなり、オルガンの音も賛美歌の歌声も広く深く響いた。
講壇の机と椅子、それに聖餐台を特注して新しいものとした。しかし、聴衆のすわる長椅子20脚は古いものをそのまま使用することになった。300万円近い費用を支出する余裕がなかったのが第一の理由ではあったが、黒ずんで少々ゆがみも見えてきたこの長椅子に、教会員たちの長年にわたる思い出が込められていて、手放しがたい愛着があったことも確かだ。椅子の上には手製の細長いクッションが敷かれていて、おそらく、新品の堅牢な椅子よりはすわり心地がよかったに違いない。
箱舟をイメージした二層の会堂が再び子安の丘に浮上した。闇が迫ると、屋上の十字架が燃えるように赤く点灯した。
「五つのパンと二つの魚」を携えて歩み始めた私たちの旅は多くの人々に助けられながら、ようやく目的の地に辿り着いた。そして、2004年3月末、ほぼ大方の支払いを済ませた時点で、240万円近い繰越金をもって2003年度の決算を迎えることのできた不思議を私たちは互いに語り合った。
教会の用地問題から新会堂・新牧師館の完成まで、ほぼ1年半を費やした。9ヶ月に及ぶ臨時礼拝所での礼拝を守り、教会行事もそれまで通り執り行うことができた。その間、教会員一人一人の力の結集があった。教会員につながる多くの人々の支えがあった。また、日本聖書神学校関係、関西学院関係の諸教会や、西東京教区の諸教会からの励ましがあった。
2004年5月30日の献堂式には、これらの人々で会堂は一杯となり、入りきれないほどであった。すべて神に感謝しなければならない。
第4節 仮礼拝所の9ヶ月
(1)仮礼拝所が決まるまで
2003年2月16日、臨時礼拝所小委員会を開催、まずは実際に不動産屋に行って見ることにした。八王子駅南口にある博進商事へ天野兄、中邑姉、沼尻姉で行き、礼拝堂と牧師住居を兼ねた物件を探した。駅の近くに適当な一軒家を紹介されたので、すぐ郷義孝牧師に連絡し一緒に見に行った。これなら良さそうだと思っていたら、連絡を受けた家主が飛んできて、宗教関係には貸せないと断られてしまった。仕方なくもう一軒の不動産屋へ行ってみた。子安五差路の近くの家を見せてもらったが、あまり気にいらなかった。
2003年2月23日、博進商事から別の物件を見せてもらえることになり、義孝牧師、中邑姉、沼尻姉で見にいった。駅の近くの3階建ての2階、3階を借りられることになった。1階は会計事務所で日曜日は休みなので 、礼拝を気兼ねなくできるのが何よりありがたく、神様がわたしたちの為に用意してくださっていたのはこの家だと確信した。
2003年4月13日、天野兄、田島兄、沼尻姉で博進商事へ行き、正式に契約書を交わす。
(2)引っ越しまで
個人の家の引っ越しと同じで、長年住んでいると物が増え、いざ引っ越しとなると、それらを整理、処分する必要がある。新しい教会は、敷地が今までの半分になるわけだから、建物も当然狭くなる。何を処分するか、何を取っておくかの判断が非常に難しく、教会員のみんなで話し合いながら作業をすすめた。最後の最後まで迷ったのは会堂の長椅子だった。一旦は処分することにしたが、予算のこともあり、愛着もあって、あとから改めて引っ越し業者に頼んで運んでもらった。
(3)引っ越し
荷物は仮礼拝所に入り切らないので、教会員の家にも預かってもらうことになった。
5月1日 引っ越し当日、荷物は仮礼拝所、小林洋子姉宅、松原美智子姉宅の三カ所へ、日通に頼んで運んでもらった。そのほかにも、本や陶器など窪田義男兄宅、龍崎靖子姉宅に預かって頂いた。オルガンとピアノは4月30日業者に保管を依頼した。6月1日 長椅子20脚を小林洋子姉宅へ運んでもらった。
4.仮礼拝所での日々
2003年
5月 4日 仮礼拝所での初めての礼拝
6月15日 バザー
7月20日 昭和記念公園へピクニック(12名参加)
8月18日 起工式
10月12日 伝道集会(本多峰子先生)
10月26日 バザー
11月23日 収穫感謝祭礼拝と祝会
11月29日 クリスマスの準備 クランツ作り
12月20日 こどもクリスマス (子安市民センターで)
12月21日 クリスマス祝会 (子安市民センターで)
12月24日 燭火礼拝 (子安市民センターで)
2004年
1月18日 引っ越し準備
1月25日 引っ越し準備
1月27日 新会堂の検査(業者と教会側)
1月31日 建物引き渡し式
2月 8日 仮礼拝所での最後の礼拝
2月 9日 引っ越し
2月10日 仮礼拝所の掃除
2月12日 博進商事、郷義孝牧師、田島兄、沼尻姉が立ち会い仮礼拝所の返還2月15日 新会堂での初めての礼拝
この仮礼拝所での9ヶ月は大変ではあったけれど、後から振り返ってみると困難を共に乗り切ったことにより今まで以上の深い絆で結ばれた気がする。なにしろ狭いので、礼拝中も身動き出来ず、隣の人と肩が触れ合う有様。教会学校のこどもたちは、おとなの礼拝中は隣の和室で静かに遊んでいて、この和室が大のお気に入りだったとか。
毎日生活して居られる牧師夫妻は、真夏は3階の酷い暑さに悩まされたとのこと。それでも、みんな不自由にも困難にも文句を言わず耐え、知恵と工夫で克服出来たことは感謝。
教会建築は信徒をはじめ、全国の教会員その他多くの方々の献金で支えられたことは言うまでもない。しかし、仮礼拝所での9ヶ月の長期間、教会の備品を保管してくださった信徒の方々と、そのご家族の深いご理解、ご協力があったことも忘れてはならない。
長椅子、ピアノ、本箱、食器棚、その他大きな荷物を長い間保管させてくださった小林洋子姉とご家族の方には特に感謝したい。また松原姉、窪田兄姉、龍崎姉にも書籍、食器その他を預かっていただいた。
牧師の車は、教会の近くに駐車場を借りることも考えたが費用節約のため、ちょっと離れているけれど沼尻姉宅の空いている車庫を使って頂くことにした。牧師は仮礼拝所から自転車で来て車に乗り換え、用が済めば又自転車で仮礼拝所へと帰った。
目に見えないけれど、縁の下の力持ちとして教会建設を支えてくださったこれらの方々を、心からの感謝と共にここに記しておくことにした。
第9章 借入金の返済と教会の展望
2004年3月31日、教会債30,250,000円を含む収入(内外の献金、前年度繰越、利息)54,980,342円より設計、工事費、設備品等の支払いを完了後2,383,622円を次期繰越金として計上した。
2003年度会堂建築会計収支報告(2004年3月31日)
収入
(円)
支出
(円)
献金(教会員一括)
15,494,737
設計管理費
4,620,000
献金(教会員月定)
1,492,160
本体工事費
37,800,000
献金(外部)
3,957,960
追加工事費
4,717,650
教会債
30,250,000
設備備品費
4,113,204
預金利子
147
諸経費
1,345,866
小計
51,195,004
小計
52,596,720
前年度繰越
3,785,338
次年度繰越金
2,383,622
合計
54,980,342
合計
54,980,342
外部献金内訳(円)
個人 138件 2,777,760
団体 153件 1,180,200
繰越金内訳(円)
郵便局 104,210(設備備品用)
多摩信用金庫 787,246(設備備品用)
多摩信用金庫 1,492,166(教会債返済用基金)
教会債返済計画
総額30,250,000円を年間300万円の積み立てを計算基準として、5年間で半額、10年間で全額返済を予定している。年間300万円の積み立てを確保する為に、教会員有志からの月定または随時の建築献金11〜12万円、教会会計より132,000円、加えてバザーの収益金などをお献げいただけるように願っている。毎月末の教会債返済用積立金総額は原則として、翌月第2週の「週報」に掲載する。
2004/1〜2004/12
2009/1〜2009/12
2005/1〜2005/12
2010/1〜2010/12
2006/1〜2006/12 2011/1〜2011/12
2007/1〜2007/12
2012/1〜2012/12
2008/1〜2008/12
2013/1〜2013/12
2004年6月の「栄光たより」新会堂竣工記念号をお持ちだろうか。牧師をはじめ教会員の喜びにあふれたことばの数々を読み返し全員が「おもてをあげえぬほどのめぐみ」を見ていることを改めて知るだろう。会堂建築は「栄光たより」の1頁にあるように出エジプト、箱舟など旧約聖書の美しい記事を思わせる出来事である。箱舟を思わせる新会堂は、トレドの大聖堂にコメントさせれば、「ん?これはニホンの笹舟であるか」と言うかもしれない。かつて寒村の飼い葉桶に全世界をしろしめすお方が眠りたもうことがあったのだから。出エジプトを成し遂げた民はカナンに入った時、長い旅路を振り返り仮庵を思い返して懐かしみ改めて感謝の祈りを捧げたことであろう。「仮庵の祭り」はいまでもユダヤの大切な祭りだそうだ。私たちもあの仮庵を思わせる9ヶ月の仮住まい、一つ心で祈り、耐え、待ち望んだ日々を忘れることはないだろう。民が喜び勇んで入ったカナンの地にも、アモリ人、ペリジ人、エブス人、カナン人、ヘト人などの先住民、そして、「野のけもの」(出エジプト23章)など困難や高ぶりを防ぐためかのように多くの問題があった。「会堂建築はまだ終わっていません」は創建委員会の報告に入った言葉である。債権返済、補修など目に見える課題だけでなく会員が一つ心となり祈ることが必要であろう。天の祝福と地の祝福を願い続けることが出来ますように。祈念。
第10章 神の未来と教会の発展
1.教会の過去の伝道の総括
今から30〜40年前の子安町の社会環境は、高度成長期にあり、いわゆる働き盛りの年代の人々が都心から移り住むという状況であった。これは多摩地区への国の大規模開発という政策によるところが大きかった。
このような歴史と状況の中、八王子栄光教会の歴代の牧師、教会員諸兄姉など教会に関係する人々は、既に亡くなられた方、今なお生きておられる方とを問わず、今日ある教会を形づくる人々であることに変わりがないであろう。彼らが多くの宝と労を捧げられたからこそ教会の今日があるのである。従って、誰か一人の功績ではなく、皆の功績であり、神の功績ということになる。その意味でわれわれは感謝の思いを尽くしえないのである。
しかし、これからの未来の教会を展望するに及び、苦言を呈し、厳しい見方をしておくことは過去の聖徒たちとも共有できるのではないかと思う。
つまり、あえて厳しい言い方をすれば、八王子栄光教会は様々な事情により、冒頭に述べた流れに十分に乗って発展したとは言い難いと思う。
内的な事情を別とすれば、まず、立地の問題が考えられる。一般的に言って、宣教師に始まる日本の伝道は、教会を駅の近辺や交通の要所、市街中心地に置いてきた。今日のいわゆる規模の大きな、と言われる教会のほとんどはこのような立地にある。八王子栄光教会も当初は例外ではなかったが、中町から子安三丁目に移った時に、子安の現地は中心街でもなく、かといって郊外でもなかった。丘陵地へと上る中腹という中途半端な位置に立地した。その結果、駅周辺の市街の人々も高台やその外に住む人々をも引き込むことが出来ないままで今日に至った。「もしも」は歴史の禁句だが、もしも、中町に留まっていたら、八王子栄光教会は現在とかなり違ったものになったであろう。
それゆえ、二つ目は、宣教対象を絞り込めなかったことがある。対象が、駅周辺の市街地や平地の人々なのか、それとも、高台から外の人々なのか、あるいは、全く別のカテゴリーの人々なのか、明確に出来なかったということである。例えば、対象を特化して成功した教会としては、典型的な郊外地に立地した鶴川にある町田八王子地区のある教会などがある。
さらに、三つ目は、信仰的な伝統である。八王子栄光教会の信仰の特徴は?と聞かれたときに、明確に答えることが出来るだろうか。
こうして、@八王子栄光教会は信仰的伝統のアイデンティティーも、A伝道対象のアイデンティティーもはっきりしないで今日に至ったと総括できるかもしれない。歴史を顧み、主の御心を尋ね求めつつ歩むことが如何に困難なことであるかを改めて知らされる。
にもかかわらず、八王子栄光教会は神の恵みのうちにあり続けてきたということはなんびとも疑うところではないであろう。自己批判とは自己を越え出る動きでもあるから、以上の批判は前を向いて自己を鼓舞するものであると受け止めたいものである。
2.今日の伝道環境の分析
今日、子安町地区は八王子市においても最も高齢化の進んだ地域と言われている。(巻末資料、図3参照)つまり、このままでは、教会は衰退の一途を辿るかもしれない。宣教方策を明確化する時期に来ているのかもしれない。
他方、駅周辺はこのところ都心への交通の利便性に乗じ、マンションが次々に新たに建設され、あたかも建設ラッシュの様相を帯びてきている。その上、建物の高層化も進んでいる。2008年暮れからは南口の再開発事業により、地上41階の高層建築と10階建てのツインタワーが着工となり、マンション、多目的商業施設、市民会館などが入ることになっている。これは市街中心地の拡大化と捉えることも出来るかもしれない。その場合、教会は市街中心地の教会となりうる。
既に、人口の動態が始まっており、第六小学校には放課後の学童保育所の建設がなされた。これはかつての専業主婦というよりもいわゆるワーキング・マザーの増加が既に進行していることの証であり、この傾向が逆行することは、まず考えられず、益々、共働きの核家族が増加するものと考えられよう。(巻末資料、図2、4)
3.未来への展望
私たち八王子栄光教会はこのように、社会の動態に呼応する信仰と行動する教会であることこそが、主が喜びたもう教会であるという観点から、新しい時代に則した教会形成と宣教を展開したいと思う。そして、この方向にこそ八王子栄光教会の希望の光があると信じる。そこで以下のような組織改革や宣教の方策を提言したい。
○ ワーキング・マザー(働く母)に的を据えたバザー、環境にやさしいバザーなどを工夫し、地域の人々に開かれた教会を目指す。
○ 多様な伝道を目指す。子供達に対しては、学校で出来ない補完的プログラムを行ったり(現在の「こひつじ文庫」の発展)、音楽コンサートも、み言葉の種まきとして行ったりする。
○ 包括的教会として、精神的な問題やしょうがいを抱えた人々と共生するというような特化した教会をも目指す。(例えば、「若木の会」の充実や盲伝への協力)
○ 教会の施設設備の拡充やパーキングスペースの将来的確保など。特に、教会学校の分級、求道者や若者の交わりや教育のための集会室の確保が、必要不可欠であろう。
○ 創立60周年を機に、隣接地の取得や集会施設の建設を含む伝道の将来計画を研究、検討するための「中長期計画委員会」を組織し、推進する。
4.神の未来
この項では八王子栄光教会の信仰のアイデンティティーないし教会の基本理念とも言うべき事柄を述べてみたい。
まず、教会とはキリストの臨在を自覚するもの達がキリストの継続的働きに自らを委ね、成長、完成へと導かれるための媒体である。教会の権威は、この仕えることから生まれる。教会においてキリストの現実(リアリティー)はより強く意識され、経験され、増幅される。それ故に教会がこれを外れ、瑣末的な形態を取ろうとする時、教会は恵みの媒体ではなくなる。教会はその意味で常に創造的な自己変革に対して開かれていなければならないように思われる。
次に、組織としての教会を考えてみよう。新約聖書がキリストの体、つまり、頭なるキリストの有機的体としてキリストの体なる教会とするのは、会員が相互関係において全体としての体という有機体を形づくり、しかも、頭としてのキリストに仕える共同体であるということを言わんとしたのである。キリストが言ったように互いに仕え合い、全体として主に仕える構造をもった共同体が教会であろう。
さらに具体的に言えば、み言葉の宣教者である牧者と信徒が、有機的な共同体を形づくるのが教会であろう。プロテスタント教会はみ言葉にキリストがご臨在されると考えてきた。そして、個々を結ぶ糊に当たるものが、愛としての聖霊の働きである。相互にみ心を尋ね求め、祈りあい一致や調和を求めなければならない。信徒は牧者を思いやり、そして支え、牧者は信徒を気遣う、相互の愛と祈り(とりなし)の共同体でなければならず、公の徳を高め、神の栄光と喜びを増し加えるのである。牧者とて人間であり、信徒と同じ地平にある。いや、むしろ信徒の方が優れた資質を持ちうる場合がまれではない。しかし、み言葉を担うという一点において敬愛の対象たりうるとするなら、そこに礼が生まれ、正しく健康な関係が生まれると言えよう。もしも、それが叶わなければ、この共同体には決断主体もなく、秩序もなく、そこから生まれる機能も失われる。そして、それはもはやキリストの体なる教会とは言えなくなる。
従って、キリストの体なる教会とは、それ自身が健康であることを目的とするような目的的価値的共同体なのである。体なる教会組織が第一に目指すことは健康であり、そこから良い働きが生まれてくる。
では健康とは何か。変わらないことと変わることとが均衡を取っている状態と定義できよう。新しさや変化のみに偏ることも、そして、同じ瑣末性が続くことも健康体とは言えない。その両者が調和し、バランスを保ち、一定の秩序形態を維持する時、真の健康体があると言える。
また、個人と教会の関係では、教会が個に先立ち、個を抑圧する構造に自らを投じる過去もあった。我が国の文化的集団性の場合、知らず知らずに、み言葉に立つことから生まれる権威と集団の権威を混同する嫌いがある。後者の場合、教会は最も閉鎖的集団と化することがある。み霊こそがみ言葉における教会の一致を生み出すのであり、両者を決して混同してはならない。
従って、聖礼典は健康な形で執行されることが求められる。秩序を重んじると同時に形式に流れることなく、主体的な決断と信仰の成熟に供するような聖礼典が執行されることが望ましい。聖礼典の真の執行者は恵の主に他ならない。この原点を忘れると牧師や教会がキリストを差し置いて恣意的に行うようなことが起こる。主は恵の座へと全ての人を招き給うが、われわれの決断と参与を求められるのである。
教会形成を考える際に、最後に、「使徒信条」の教会に冠せられた三つの形容詞、「使徒的」、「聖なる」、「公同の」という三つの言葉の意味を解明しておこう。
まず、「使徒的」という言葉であるが、これはイエス・キリストとの直接的連続性を示す言葉である。これによって教会の基本的アイデンティティーが作られる。八王子栄光教会はイエス・キリストを主と信じ、その贖罪(atonement)のわざを信じる教会である。ただし、キリストの人格とわざは時代の問いに応えることと相互関係にあるゆえ、内容もそれと相関するものと理解する。イエス・キリストは真の神にして真の人であって、そのわざによってわれわれの罪を贖い、全きもの(the wholeness)としてくださる。従って、全きものへの回復としてのキリストのわざは、人のみならず、森羅万象を含むものであると信じる。従って、全体性を目指す教会の全てのわざは贖罪のわざでもある。教会はキリストの贖罪のわざに応答する贖罪の共同体である。
したがって、使徒的という言葉の意味は神の国の福音を宣教する使命を帯びてイエス・キリストによって派遣された者ということになる。次には、上げられたキリストが自己を啓かに示してくださり、その方を証言するのだという意味である。パウロは自己の「使徒性」を主張し、使徒の権威において福音宣教にあたっていることを繰り返し証言した。教会とキリストとの関係性は使徒によるという意味と、歴史的源泉がキリストにあるという意味の両方を含むのが「使徒性」ということであろう。だから、新約聖書の正典も「使徒性」という基準によって集められた。
次に、「聖なる」という言葉が教会に冠せられるのは、教会自身の聖を示すのではない。教会は依然として罪びとの集まりだという現実を背負うものである。教会の聖は信者の現実ではなく神の現実と聖である。教会がみ言葉によってその権威を与えられているように教会の聖はみ言葉に呼び出され、世から分かたれ、区別されたものとしての聖である。であるから、「使徒的」であることは、「聖」であることと同義と受け取って良い。
最後に、「公同の」という言葉は英語でカトリックという言葉であるがこれは現行のカトリック教会を指すのではない。公同とは普遍的という意味である。もともと、ギリシア語のカトホルーがラテン語のカトリクス(catholicus)となり、全体を意味する言葉として用いられた。教会が普遍的であるという主張は伝道の源泉となる。
従って、教会の未来は神の未来でもある。それは人間の計らいや意図によるのではなく、神のみ旨に従うものとしての教会に他ならない。八王子栄光教会はこうした信仰のアイデンティティーをもって、神に従う教会として、信仰を証し、この地にあり時代に則した神の宣教のわざを担い続けるものである。そうであれば、八王子栄光教会は永遠であり続ける。了