西漢官制表
Chinese Bureaucratic System Chart of Former Han Dynasty

まだ建築中ですがいちおう載せます。Under Construction!

《注》下記文中の(××年第×節註×)は拙訳『德田本全訳資治通鑑』および電子版徳田本全訳資治通鑑の文中に付けた註です。(×は漢数字)
 官名の漢字は旧字体、日本語説明文の漢字は新字体で表記します。暫定表記です。逐次追加します。誤記その他、ご意見あればメールにてご教示ください。身元の守秘義務は遵守します。2015/09/01

 
目次
   ( )は説明。 〔 〕は西漢後期の官名。 【 】は漢字の読み。 『 』は参考書名。

皇帝
Emperor  錄尚書事(皇帝執政権代行。成人まで)



1.三公
Three Highest Ministers (末期は、大司馬、大司徒、大司空)
   丞相
Chancellor〔大司徒Master of Government〕
   太尉
Grand Commandant〔大司馬Grand Marshal〕
    御史大夫
Imperial Secretary〔大司空Secretary of Government〕


中央Central Government

2.九卿【けい】
Nine Highest Ministers 中二千石Officials of the Middle Two Thousand picul Class
  1奉常〔太常〕、2郎中令〔光祿勲〕、3衛尉、4太僕、5廷尉、
  6典客〔大行令、大鴻臚【たいこうろ】〕、7宗正、8治粟【ちぞく】内史〔大農令、大司農〕、9少府

3.五曹尚書、詹事、将作大匠、城門校尉

4.内史、執金吾 (司隸校尉は京官つまり中央官僚ですが6で論じます)
首都圏 Metropolitan
       ↗ 左内史→左馮翊【ひょうよく】
   内史 
       ↘  右内史→右馮翊
              →京兆尹

5.八校尉、内朝官(中朝官)と加官。

6.司隸校尉、十三部州刺史

地方Local Government

州の下に郡県(武帝時初めは、州刺史は中央から派遣され巡検する監察のみ)
十三部州 州刺史
Six items(六條問事) 『漢儀』

7.諸侯王、郡、県、里、亭、里
  郡        県         郷        亭       里
 郡太守    県令、県長         三老       亭長      里正

8.西漢職官秩禄表

9.両漢官吏実俸表

1.三公
 (西漢王朝の初期は、丞相、御史大夫【ぎょしたいふ】、太尉。末期は、大司馬、大司徒、大司空。東漢王朝は司徒、太尉、司空)


1-1.丞相【じょうしょう】Chancellor(上級宰相を相國【しょうこく】と称す。よって室町幕府第三の足利義満が開いた京都五山第二の相国寺は「しょうこくじ」)
     
      長史(漢三公、将軍府属官の長、秩【ちつ】千石【せき】。郡の属官の長。秩六百石)
       Chief Secretary

      丞相司直Director of Rectitude under the Chancellor

1-2.太尉 長史Chief Secretary

1-3.御史大夫 中丞Middle Aide (of Imperial Secretary) 侍御史Secretary of the censorate
    Imperial Secretary
      御史丞   繍衣【しゅうい】直指Imperial Inquisitor in brocade robe
            繍衣使者Special Envoy in his brocade robe



2.九卿【きゅうけい】
1奉常Imperial Master of Ritual〔太常Master of Ritual〕、2郎中令〔光祿勲【こうろくくん】〕、3衛尉、4太僕、5廷尉、6典客〔大行令、大鴻臚【たいこうろ】〕、7宗正、8治粟内史〔大農令、大司農〕、9少府

2-1.奉常Imperial Master of Ritual〔太常Master of Ritual〕:天子宗廟の祭祀。景帝中元六年に太常。九卿の筆頭。
太楽令、丞Grand Musician, Aide。樂人【がくじん】Musician of the Music Bureau。太祝令、丞Grand Invocator, Aide。太宰令、丞Grand Servant, Aide。太史令、丞Grand Historian, Aide。太卜令、丞Grand Diviner, Aide。太医令、丞Grand Physician, Aide。均官長、丞Head of the office of Imperial Burial Places, Aide。都水長、丞Head of Water Control at the Imperial Parks, Aide。諸廟寝官令、長、丞Chief of the Inner Chamber of the Funerary Temple。諸廟園官令、長、丞Chief of the Park of the Funerary Temple。諸廟食官令、長、丞Chief of food offerings at the funeray temple。廱【よう】太宰祝令、丞(廱【よう】太宰は雍県にて五畤【じ】五帝祭祀の熟食prepare cooked food for Five Gods)。廱太祝令、丞(祝詞読み、神の送迎)。五方五帝(the Five Directions Cardinal Gods. Center; Yellow God, West; Blue God, South; Red God, West; White God, and North; Black God. Not SanHuang-WuDi)
五経【ごきょう】博士(Erudit of Five Classics:儒家の経典である五経を教学する学官。五経:易経、書経、詩経、春秋、礼記【らいき】。The Five Classics: The Book of Songs, The Book of History, The Book of Changes, The Book of Rites, The Spring and Autumn Annals)。

2-2.郎中令Chief of Palace Corridor Attendants:宮門宮殿内の総責任者。宮中警備長官。九卿【きゅうけい】の二。
〔光禄勲Keeper of the Palace Gate〕:宮中警備長官。武帝太初元年(前104年)に改む。
大夫:太中大夫(掌論議。無定員Non-limited seating。秩【ちつ】比千石【せき】)、中大夫Palace Counselor〔光禄大夫Councelor to the Keeper of the Palaceへ太初元年に改む。秩比二千石〕、諫大夫Admonisher(論議官。秩比八百石、元狩五年(前118年)設)。多い時は数十人。皇帝の顧問格なので、郎より遥かに重職。
郎【ろう】:議郎(秩比六百石。顧問応対)、中郎(秩比六百石)、侍郎(比四百石)、郎中(比三百石)。多い時は千人。郎は、良家の子弟出身が任ぜられる。つねに皇帝側に扈従【こじゅう】するので、将軍、郡太守、県令などに転出し、さらに出世していく文武官の登龍門であった。日本の江戸幕府の旗本に似ている。
三署:五官中郎将、左中郎将、右中郎将の三署(秩皆比二千石)。中郎将は宮殿掖門(正門の脇門)の警備隊長。毎一署に若干の中郎、侍郎、郎中がいる(議郎“不属署,不直事”)。
郎:三将の秩皆比千石。車将(車郎を主管)、戸将(戸郎を主管。主戸衛)、騎将(騎郎を主管)。車騎将軍と車将、騎将の関係は不詳。
謁者僕射【ぼくや】(秩比千石)、僕射(秩比六百石。員七十人。年齢は五十歳未滿。美髭朗声。賓礼進行係。一年後には県令、長史に転出できる)。大謁者、中謁者の区別は不明。
期門、羽林【うりん】。期門の武士(殿門にて期す、つまり控えていたため)。期門は「執兵送從」つまり武器を執り、扈従【こじゅう】供奉【ぐぶ】(および宿衛侍従つまり近辺警護)する役目。武帝建元三年に初めて置き、郎に比し(準ずる)、定員なし、多い時は千人に至る。僕射あり、秩比千石。平帝の元始元年に虎賁【こほん】郎と改称、虎賁中郎將を置く。秩比二千石。
羽林も天子の「送從」つまり扈従【こじゅう】供奉【ぐぶ】をつかさどり、期門に次ぐ。武帝太初元年に初めて置き、名を建章營騎と言ったが、後に名を羽林騎と改めた。また從軍して死んだ者の子孫を羽林にて養い、武官を派遣して五兵(戈、殳、戟、酋矛、夷矛。詳細は一八八年第十七節註二注疏一)を教え、羽林孤児と称した。羽林に令と丞あり。宣帝は中郎將、騎都尉に羽林を監察するよう命じた。羽林中郎将(秩比二千石、主羽林郎)、羽林郎(比三百石、無定員、宿衛侍従、来源は隴【ろう】西、天水、安定、北地、上郡、西河六郡の良家子弟)。東漢では羽林左監(一人、六百石、主羽林左騎、丞一人)と羽林右監(一人、六百石、主羽林右騎、丞一人)を置いた。
奉車都尉、駙馬【ふば】都尉、騎都尉、車騎都尉、軍門都尉は不詳。

2-3.衛尉:皇居警備長官。九卿の三。
宮門屯営。丞あり。南軍(皇宮警衛隊。司令官は衛尉。兵力二千。未央宮警衛司令官。他に長楽宮、建章宮、甘泉宮にもそれぞれ衛尉がいたので、とくに最大の未央宮衛尉率いる警衛隊を南軍と称したのではないか)
景帝の初めに名を中大夫令と改め、景帝後元年(前142)に再び衛尉に復した。
属官に公車司馬令、衛士令、旅賁令の三令と丞があり、衛士のみは丞が三人。又諸屯衛候、司馬二十二官皆属す。長樂衛尉、建章、甘泉衛尉は皆、その皇宮を掌【つかさど】る。職略【おおむ】ね同じ、不常置。

2-4.太僕:畜牧・御用車馬大臣。九卿の四。
輿馬【よば】を掌【つかさど】る。兩丞を有す。屬官には大厩【たいきゅう】、未央【びおう】、家馬の三令を有す。各五丞一尉あり。又車府、路軨【ろれい】(厩舎名のひとつ)、騎馬、駿馬四令と四丞あり。又龍馬、閑駒【かんく】、橐泉【たくせん】、騊駼【とうと】、承華(いずれも厩舎名)の五厩監の長丞あり。又六つの邊郡の牧師、菀令【えんれい】と各三丞あり。又牧橐【ぼくたく】、昆蹄の令と丞が太僕に皆屬す。
中太僕は皇太后輿馬を掌る。不常置。武帝太初元年(前104)に家馬を挏馬【とうば】に改名し、初めて路軨を置く。

2-5.廷尉:司法大臣。九卿の五。
刑辟(大辟は死刑)を掌る。正と左右の監を有す。秩皆千石。景帝中六年(前144)に大理と改名。武帝建元四年(前137)復して廷尉とす。宣帝地節三年(前67)初めて左右平を置く。秩皆六百石。哀帝元壽二年(前1)復して大理とす。王莽は作士に改名。

2-6.典客:外務大臣。景帝中元六年(前144)に大行令、武帝太初元年(前104)に大鴻臚【たいこうろ】。九卿の六。
秦官(秦代に設けられた)。諸歸義蠻夷を掌る。丞を有す。屬官に行人、譯官、別火三令三丞及び郡邸長と丞を有す。武帝太初元年(前104)に行人を大行令と改名し、初めて別火を置く。王莽は大鴻臚を改めて典樂と言う。郡國邸(江戸時代の江戸藩邸に似る)を置いて初めは少府に属し、中頃には中尉に属し、後には大鴻臚に属した。
典属国(属国管理長官。中二千石。列卿つまり国務大臣待遇)

2-7.宗正:宮内大臣。九卿の七。
秦官。皇族を掌る。丞を有す。平帝元始四年(紀元後4)に宗伯へ改名。属官に都司空の令と丞、内官の長と丞を有す。又諸公主の家令、門尉は皆、宗正に属す。王莽はその官を秩宗に併合した。内官は初めは少府に属し、中頃には主爵に属し、後に宗正に属した。

2-8.治粟【ちぞく】内史:国家財政。景帝後元年に大農令、武帝太初元年に大司農。九卿の八。
治粟都尉、大司農、捜粟都尉については、前一一〇年第四節註三参照。捜粟都尉(農耕屯田担当官、非常置)は大司農の属官。
穀貨を掌る。兩丞を有す。景帝後元年に大農令と改名。武帝太初元年(前104)に大司農と改名。属官に、太倉、均輸、平準、都内、籍田の五令と五丞、斡官【かんかん】、鐵市の兩長と兩丞を有した。又郡國の諸倉、農監、都水の六十五官の長と丞は、皆、これに属す。騪粟(捜粟)都尉は武帝の軍官で不常置。王莽は大司農を改めて羲和と言い、後に改めて納言とした。斡官は初めは少府に属し、中頃には主爵に属し、後に大司農に属した。

2-9.少府:山海地沢の税を掌り宮廷御用に供す官庁の長官。皇帝衣食御物、医薬娯楽葬儀も管理。九卿の九。
山海池沢の税を掌り、以て皇帝への供養に給す。六丞を有す。属官は、尚書、符節、太醫、太官、湯官、導官、樂府【がふ】、若盧【じゃくろ】、考工室、左弋【さよく】、居室、甘泉居室、左右司空、東織、西織、東園匠の十二官の令と丞を有す。又胞人、都水、均官の三長と三丞。又上林の中の十池監。
又中書謁者、黃門、鉤盾【こうじゅん】、尚方、御府、永巷、内者、宦者八官の令と丞。諸僕射【ぼくや】、署長、中黃門(黄門内で奉仕する宦官。秩比百石、後に比三百石)は皆これに属す。武帝太初元年(前104)に考工室を考工に改名し、左弋を佽飛【しひ】に、居室を保宮、甘泉居室を昆臺,永巷を掖廷【えきてい】に改めた。佽飛【しひ】は弋射を掌り、九丞兩尉を有す。太官は七丞、昆臺は五丞、樂府【がふ】は三丞、掖廷【えきてい】は八丞、宦者は七丞、鉤盾【こうじゅん】は五丞兩尉。成帝建始四年(前29)に中書謁者令を中謁者令(略称を中書。宦官が尚書つまり奏上文、詔勅を扱う秘書官に代わって宮廷の文書、詔勅を扱った)と改名し、初めて尚書を置く。定員五人、四丞を有す。河平元年(前28)に東織を省【はぶ】き、西織を改名して織室とす。綏和二年(前7)、哀帝は樂府【がふ】を省く。王莽は少府を改めて共工と言う。
水衡都尉(上林苑総監)


3.五曹尚書、詹事、将作大匠
録尚書事(皇帝に代わって公文書を決裁する、非常に権威がある大職。本官がある。西暦75年第9節註参照)
尚書僕射【ぼくや】(尚書台次官。秩六百石だが皇帝の政策立案で重職)
五曹尚書(奏上文、詔勅を扱う皇帝官房審議官)
五曹:常侍曹尚書、二千石曹尚書、民曹尚書、客曹尚書、三公曹尚書。

詹事【せんじ】。秦官。皇后の家中の事務を取り仕切る皇后詹事。太子の家中は太子詹事。秘書官長。秩二千石。
属官には太子率更、家令丞、僕、中盾、衛率、廚厩の長と丞を有す。又中長秋、私府、永巷、倉、厩、祠祀、食官の令と長と丞があった。成帝鴻嘉三年(前18)に廃止され、職務は大長秋に合併。また長信詹事は皇太后宮の家を掌っていたが、景帝中六年(前144)に長信少府と改称。平帝元始四年(紀元四年)に長楽少府に改名。『後漢書・百官四・大長秋』、『通典【つでん】・職官十二・太子詹事』にも記述あり。

將作大匠(將作少府)。皇室建設担当大臣。九卿以外の列卿。秩中二千石、真二千石あるいは二千石。
秦官。宮室の修理保全を掌る。兩丞と左右中候を有した。景帝中六年(前144)に將作少府から將作大匠と改名。属官に石庫、東園主章、左右前後中校の七令と七丞を有す。又主章の長と丞。武帝太初元年(前104)に東園主章を木工と改名。成帝陽朔三年(前22)に中候及び左右前後中校五丞を省いた。


4.内史、執金吾 (司隸校尉は京官つまり中央官僚ですが地方官6で論じます)

内史(首都圏および首都圏知事。前一四〇年第五節註一参照) 地名と官名が同じ。
周官。秦はこれに従う。京師を治めるを掌る。景帝二年に左右内史に分置す。右内史は、武帝太初元年(前104)に京兆尹と改名。属官は長安市、長安廚の兩令と兩丞を有す。又都水、鐵官兩長と兩丞。左内史は左馮翊と改名す。属官は廩犧令と丞と尉を有す。又左都水、鐵官、雲壘、長安四市と四長と四丞があり、皆これに属す。
わかりにくいのでまとめると、
4-1.高祖九年(前198)に渭南郡、河上郡、中地郡を内史とした。
4-2.景帝二年(前155年)に左右内史に分割。渭南郡と中地郡を右内史。河上郡を左内史。景帝中二年(前148年)に主爵郡尉を主爵都尉に。武帝元鼎四年(前113年)に左右二輔都尉に改む。
4-3.武帝太初元年(前104)に、右内史の旧渭南郡を京兆尹(中央首都圏知事。秩二千石)に、右内史の旧中地郡を右扶風(西部首都圏知事。九卿と同格。長安県も統括)とす。左内史(旧河上郡。北部首都圏知事。九卿と同格)を左馮翊【ひょうよく】に改む。『漢書・百官公卿表上』には、武帝太初元年(前104)に主爵都尉を右扶風に改むとある。
 再びまとめると、中地郡→右内史→右扶風  河上郡→左内史→左馮翊  渭南郡→右内史→京兆尹
 三輔(三地区からなる長安地方行政地区長官あるいは首都圏の総称。即ち、京兆[長安県を含む東部]、左馮翊[北部]、右扶風[西部])
內史の地図予定

主爵中尉
中尉
護軍都尉

5.八校尉、内朝官(中朝官)と加官

6.司隸校尉、十三部州刺史

7.諸侯王、郡、県、里、亭、里

8.西漢職官秩禄表  各級秩禄と官職名リスト
上の文字をクリックするとその表へ移動します。

9.両漢官吏月俸表  秩禄の石高は年俸だが、それを毎月の月俸に直した表
上の文字をクリックするとその表へ移動します。

漢軍建制

将軍が出征するときは、幕府(参謀機構)を開き、軍務を補佐させる。その高級幕僚及び一般属僚は数十人に達する。「上孫家寨漢簡」に依れば、漢朝軍の基本編制は下記の表のようである。:

         
 指揮官名称  単 位 定員(人) 編制序列 直轄単位
 大将軍、
 将軍
 
  
 校尉、司馬   1000から2000。戦時に6、7000人  左部、前部、中部、右部、後部 1部は5曲から成る
  候、千人  約200から500人  左曲、前曲、中曲、右曲、後曲 1曲は2官から成る
 五百将、卒長、二隊将  約100人  左官、右官 1官は2隊から成る
 士吏、隊将、 隊率  約50人  前隊、後隊(或いは上隊、下隊) 1隊は5什から成る
  什長  約10人   1什は2伍から成る
  伍長   5人   1伍は5士から成る

 「軍」は漢代作戦時の最高基本単位。軍も将軍も非常設。作戦が終了すれば解散。漢代前期は将軍位も返還。長官は大将軍、驃騎、車騎、衞将軍などで朝廷が任命。毎軍の下に前、後、中、左、右など五部(増減あり)を置く。将軍位はしだいに常設。一個軍の規模は、現代の旅団に相当。
 「部」は、「校」、「営」とも言う。作戦の基本単位。一個営の規模は、現代の大隊に相当。指揮官は校尉。軍司馬一人を副将。校尉を置かない部は、軍司馬が指揮官。その下の軍仮司馬(副統制官。校尉の属官)、仮候は副職。「部」の下に、「左、右、中、前、後」の五曲(増減あり)を置く。「部」の総兵力は多いときは6、7000人(騎兵ではなく歩兵だろう)、少ないときは1000 or 2000人。平時も1000 or 2000人。
 「曲」は「部」の下の編制単位。軍候あるいは千人が指揮官。兵力は200から500人。200人が平時。下に左右両「屯」がある。
 「部」と「曲」を合わせて部曲という単語は、指揮下の部隊、さらに魏晋南北朝時代には、私兵から、奴隷兵、奴婢の意味も持つようになった。
 ちなみに、営や校、尉という言葉は、現代中国でも使われている。たとえば、営長は大隊長。大校、上校、中校、少校は、日本の佐官クラス。上尉、中尉、少尉は日本の尉官クラス。
 現代中国軍の編制(カッコは日本など他国軍の名称):集団軍(軍)― 師(師団)― 旅(旅団) ― 団(連隊)― 営(大隊)― 連(中隊)― 排(小隊)― 班(分隊)。軍の近代化を進めていく過程で、師と団の中間に旅をしばしば入れることになったようだ。

参考資料:
*朱国炤著『上孫家寨木簡初探』(『文物』1981年第2期、総297号、文物出版社)。大通上孫家寨簡文釋文(西漢兵制)について。

漢代兵力表
Chinese Military Power Chart of Han Dynasty

《注》下記文中の(××年第×節註×)は拙訳『德田本全訳資治通鑑』および電子版徳田本全訳資治通鑑の文中に付けた註です。(×は漢数字)。
 官名の漢字は旧字体、日本語説明文の漢字は新字体で表記します。暫定表記です。逐次追加します。誤記その他、ご意見あればメールにてご教示ください。

胡宏起著『漢代兵力論考』(『歴史研究』1996年第3期第29頁から第40頁。歴史研究編輯委員会、中国社会科学雑誌社)その他を参考にして要約した。2015/09/11

 漢代兵力の概観

    1西漢兵力  2東漢兵力    備註 
中央軍    10万   1万2千  西漢は武帝時期以降の数字
郡国兵    42-70万   14万4千 西漢は戦時には100万以上を徴兵。東 漢の戦時も増強可能。
 辺防兵   15万  最少2万4千  西漢は武帝時期の数字。元鼎(前116-前111)年間は60余万。宣帝時は2万に減少。
 属国兵   4万   11万 東漢の少数民族人数は和帝以降は大きく減少。
 合計  77-99万人   29万  



1.西漢兵力
 
1の1.中央軍の兵力
中央軍は、①郎中令(武帝以降は光禄勲)率いる郎衛、②衛尉率いる衛士、③中尉(武帝以降は執金吾)率いる京師衞戍部隊、④城門校尉(武帝が巫蠱【ふこ】の乱の時に設けた)率いる城門兵からなる。

 ①郎中令。皇帝の侍衛軍。郎官は多い時は1000人。諸大夫や謁者は皇帝の顧問応対、議論や迎賓などで戟を持って侍衛しない。武帝は期門、羽林を設け、郎中令に属さす。不定だが多い時は1000人。よって郎中令が率いる郎官は、武帝以前は1000人、武帝時に2000人。郎官から政府高官が輩出。高級官僚の登龍門。
 ②衛尉。京師宮門、墓陵、御苑を守衛。平民男子は一生に二年間の兵役義務。一年は本人の戸籍がある郡国で郡国兵。もう一年は首都の衛士あるいは辺地防衛。武帝前は衛士は2万人、以後は1万人。だが、それ以降は大幅増。一衛司に衛士2000人から数千人。よって衛士45000(諸屯衞候、司馬二十二官×2000人)。宣帝時に、諸帝、后の寝廟176個所、苑陵30個所、衛士45129人。
 ③中尉。京師衞戍部隊。未央宮(南に朝会する前殿。その北に皇帝起居の禁中と後宮、さらにその北側に諸官庁)、長楽宮(太后起居)以北に駐屯、よって北軍と称す。
西漢時には三輔(三地区からなる長安地方行政地区長官あるいは首都圏の総称。即ち、京兆[長安を含む東部]、左馮翊[北部]、右扶風[西部])の郡国兵も中尉の指揮下。北軍の総兵力は4、5万人。
 武帝の太初元年(前104)に執金吾に改称。京師を衞戍する職責は、北軍から分化させ、皇帝儀仗に特化。武帝は八校尉(前一一一第五節註参照)を新設。即ち、中塁、屯騎、歩兵、越騎、長水、胡騎、虎賁、射声八校尉。東漢では一校700人であったので、八校尉は5600人。
 ④城門校尉。征和二年(前91)に武帝の皇太子が起こした巫蠱【ふこ】の乱後に京師防衛を増強するため、長安十二城門の守衛、城門校尉、司馬及び十二城門候を率いる。人数は東漢の例から類推して3000人。
①から④を合計して中央軍は10余万人

長安城内と城門、未央宮内の宮殿群、禁中、後宮建築物群などの地図  クリックしてください。

 
1の2.郡国兵の兵力
兵役。男子は一生に二年間の兵役義務。一年は本人の戸籍がある郡国で郡国兵。もう一年は首都の衛士あるいは辺地防衛。兵役開始年齢は西漢初期は17歳から。景帝二年(前155)には20歳から。昭帝時には23歳から。年限は昭帝初期は有爵者は56歳、無爵者は60歳。昭帝時に56歳に統一。武帝時は20歳から56歳。資料から計算すると、3500万人の人口で1400万人が徴兵適齢期にあり、服役は(20歳から56歳)で毎年42万人。平帝元始二年(紀元2)の最盛期には、戸数1223万3062戸、人口5959万4978人(当時の王朝が徴税、徴兵のために把握した戸数と人数。実際の人数とは無関係)、郡国兵は70万人。よって西漢の郡国兵は42万から70万人

 1の3.辺防兵の兵力
 ①辺郡部都尉の率いる戍卒、②農都尉が率いる屯田卒、③属国都尉が率いる属国兵、辺地に長期駐屯する屯兵。
 適齢男性は一年は郡国兵、もう一年は中央の衛士あるいは辺地の防衛に服役。よって「
郡国兵の人数=中央の衛士人数+辺防兵人数」となるはず。よって「辺防兵人数=郡国兵の人数-中央の衛士人数」のはず。
 しかしながら、実際には史料には郡国兵は免役された記載はないが、辺疆衞戍を免除される記載は多い。漢初は服役適齢期の男子は一生に一年は辺地防衛に行かねばならなかったが、武帝が匈奴に大打撃をあたえて辺疆は安寧になったため、昭帝は毎年三日を辺疆に服役すれば良いとし、さらにその三日の代わりに銅銭300銭を毎年(23歳から56歳まで)官府に納めれば免役となった(更賦)。年間300銭は重税ではなかったので、ほとんどの平民は更賦を選んだはず。
 よって
実際は「辺防兵人数<<郡国兵の人数-中央の衛士人数」の数式となる。
西漢初期は辺防は長期の屯兵20万人以上。武帝は疆域の強化と拡大のため、辺地には以下の①部都尉56個、②農都尉4個、③属国都尉8個の辺疆防御体系(註1)を設けた。
 
①部都尉56個が率いる戍卒。障、塞、候望(見張り台)(註2)。辺疆偵察、警戒(見張り台、烽火台)システムを主管。
 部都尉の下には五個の候官(偵察隊隊長)。一候官は吏卒300人を率いる。よって一部都尉は1500人を率いる(この人数は威力偵察ができる)。よって56部都尉は84000余人を率いると推定
②農都尉4個が率いる屯田卒。武帝が初めて置く。屯田吏卒5、6万人(註3)。武帝元鼎(前116から前111)には戍卒と屯田吏卒が激増。①の戍卒と②の屯田卒を合わせて60万人(註4)。武帝後期から北辺は安定したため、2万人ほどに激減(註5)。宣帝時の名将趙充國が金城に駐屯した屯兵は1万0200人、西域屯兵は1、2千人。
③属国都尉8個(安定、上郡、天水、西河、五原、張掖、金城、北地)が率いる属国兵。15万人。匈奴など帰順した部族組織はそのまま温存した。
 使匈奴中郎将(南単于の監視と守護。比二千石。五〇年第三節)は使官(使、使者、使臣。詔を奉じて事務を行う臨時職)。塞外にいる烏桓【うがん】に対する護烏桓校尉(武帝が幽州に置く。擁節監領、秩比二千石。長史一人、司馬二人、皆六百石。并領鮮卑。客賜質子、歳時胡市馬。応劭『漢官儀』一五四頁)、護羌校尉(一一〇年第十六節註)が担当。宣帝末年の属国兵は4万人(張掖属国兵1万を含む)と推定



2.東漢兵力
 
2の1中央軍の兵力
 東漢の中央軍は、①光禄勲が率いる郎衛。②衛尉が統率する衛士。③北軍中候が統制する北軍五校兵。④執金吾(首都圏警察長官)が統べる京師消防、警察部隊。
⑤城門校尉が統領する城門兵。その他に、⑥霊帝が西園八校尉兵(霊帝一八八年第十三節)を新設した。
 『後漢書・百官志』及び注引く『漢儀』、『漢官』などの史籍には、光禄勲、衛尉などの属官、職責、兵額など比較的詳細な記載がある。

 ①光禄勲。「宿衛宮殿門戸の宿衛を主管する」など。属官は、五官中郎将、左中郎将、右中郎将。彼らが指揮する諸郎は記載がないので計算には入れない。虎賁中郎将は、注引く蔡質の『漢儀』に「虎賁千五百人を率いる。無常員。多くとも千人」。羽林中郎将は、また引く『漢儀』に「羽林郎百二十八人」。また応劭の『漢官儀』によれば、羽林中郎将の下属の「羽林左監は羽林八百人を率い、右監は九百人を率いる」。すなわち、光禄勲が指揮する郎衛の人数は2828人。宮門の内側の護衛。
 ②衛尉。「宮門衛士を掌【つかさど】り、宮中を巡邏(徼循【きょうじゅん】)する」。皇居内で各宮殿の外側と宮門の護衛。属官は、公車司馬令が率いる衛士の数が不明であるのでそれを除いて、その他の属官の南北宮衛士令、左右都候及び諸宮門司馬、合計で衛士2454人を指揮する。
 ③北軍中候。「五営の監察を掌る」。北軍五校尉(歩兵、屯騎、越騎、長水、射声)を統率。西漢では八校尉(前一一一第五節註参照)であったが、東漢では北軍五校尉に縮小。それぞれ戦士700人を率い、北軍五校尉は合計で兵士3536人を指揮する。その中で長水校尉については、注引『漢官』に「属官人数(員吏)百五十七人、烏桓胡騎七百三十六人」とある。応劭の『漢官儀』には「長水は士千三百六十七人を領す」とある。二者の記載の差は大きい。本文では736人と計算する。皆、宿衛の兵、即ち近衛兵。七七年第五節註一参照。
 ④執金吾。首都圏警察長官。秦、漢初に北軍中尉。漢武帝が執金吾に改め。建安十八年(213)、中尉に改名。「宮外の非常警戒、水火の事を」つまり皇居外の警察、消防。宮城内の警衛を担当する衛尉と宮城内外を対にする。
 『漢官』に「執金吾緹騎【ていき】(現代の刑事)二百人、持戟五百二十人」とある。衛士720人を指揮する。
 ⑤城門校尉。「洛陽城門十二所を主管」。馬端臨の『文献通考・兵考二』によれば、「城門屯兵の数は考証できない。宮掖門司馬が指揮することから推定して、多くて七百二人、少ければ三十人に止まる。まして十二門を一校尉が統率するのだから、必ずや重兵ではない。多くとも三千人にすぎない」。馬氏の推論は大いに道理がある。城門校尉配下の十二門の各指揮官が門候。合計、兵士3000人と計算する。
 ⑥西園八校尉(霊帝一八八年第十三節)。別に『後漢書・霊帝紀』の記載によれば、中平五年(一八八年)の「八月、西園八校尉を初めて置き」、京師洛陽の防衛力を増強した。西園八校尉とは即ち、上軍、中軍、下軍、典軍、助軍左、助軍右、左校尉、右校尉。各校尉の率いる兵数は、史書には載っておらず、考証できない。
 以上によって、東漢中央軍の兵力総数は、12538人と推定する。
 曹魏の時代に、王郎が東漢中央軍の情況に話しが及んだとき、「旧時に虎賁、羽林、五営兵及衛士は、合計しても一万人(註6)にすぎない」と語った。これは『後漢書・百官誌』、『漢官』などの史書が記している東漢中央軍兵力総額の数字と近い。よって、東漢中央軍兵力総額は12000人ほどであることは、ほとんど疑いがない。東漢中央軍兵力は西漢のそれと比べて大いに減少した。これは漢の光武帝の精兵簡政の政策により、中央軍を圧縮した必然の結果である。

 
2の2郡国兵の兵力
 東漢では光武帝劉秀が建武六年(紀元30)に内郡の郡国都尉の官は廃止(内郡兵はない)、翌年三月には、各種軍隊の常備兵を廃止して、36個の辺郡(註7)のみ郡都尉と属国都尉を置いた。よって郡国兵とは辺郡兵を指すことになった。辺郡の動員数は史料から毎一郡4、5千人。よって東漢郡国兵は14万4千人と推定
 郡国兵は、郡国から徴兵。司令官は郡太守。兵士は農民からの徴兵。臨時的。作戦終了すれば解散。下記の営兵と郡兵の指揮系統は異なる。辺郡の郡兵(西漢中期以降は辺疆には封国は置かない方針)は常備兵である。
 常備の辺防兵の人数は多くないが、辺疆が緊張すれば、東漢王朝は内郡兵及中央軍を徴発して辺地に送り、辺防兵、辺郡兵と協力して戦った。たとえば、『後漢書・西羌傳』の安帝の永初から元初年間(107-119年)の条に、「叛乱をおこした羌族を平定するため、東漢王朝は中央軍、司隸、冀、涼三州の辺郡兵と内郡兵(内郡兵は臨時徴兵)20余万人を動員した」とある。
 
 
德田註:州兵について。よく誤解されるが、西漢、東漢時代では州兵はない。すなわち州刺史あるいは州牧の直属部隊はない。州兵の常備兵も制度的にない。東漢初めの州兵は天下統一の途中にあった臨時的なもので、すぐに解散された。一州内の数個の郡国兵を合わせれば数万人に達する。
 もともと将軍職は臨時職である。目的を達すれば、軍の指揮権は回収される。常時、数万の軍を指揮できるような司令官がいれば、統治者にとっては、危険に過ぎる存在だ。唐の安禄山は3つの節度使を兼任し、十数万の部隊の指揮権を有したために叛乱をおこした。宋代以降、常時に指揮出る部隊は一万人ほどを過ぎない。そのうえ、その一万人を指揮できる制置使は文官である。
 ちなみに使という意味は、使者、使臣、つまり詔を奉じて執務を行う臨時職である。目的を達すればその職は回収される。使節の節は、皇帝の象徴で代行専断を示す大きな杖。先端にヤク牛の尾で作った房を下げる。先端がかぎ状に曲がっている牧羊杖Sheep Crookに似ている。
 ともあれ、東漢の黄巾の乱以降は、臨時的に州牧も臨時募兵はした。だが、拙訳資治通鑑をご覧になれば、おわかりになるように、黄巾の乱以降でも、州牧は郡太守の指揮する郡国兵を、郡太守の頭ごしに直接に指揮できず、郡太守を通じて命令していた。
 もともと内郡の農民叛乱は一郡を越えないと想定していた。しかしながら、黄巾の乱や州牧の軍閥化によって大乱は一郡内から、一州内に広がった。よって州刺史に軍政権をあたえた州牧(将軍の印綬も持つ)を設けた。
 だが、さらに複数の州まで大乱が広がると、都督制(督某某はすでにある)が発生し、三国時代から都督制(複数州の軍を統一指揮する司令官)が固定化されることになる。すると数州の軍を指揮する強力な軍事力を持つ武人が実権を握るようになり、それを恐れて歴代皇帝は、軍事力削減のひとつとして、南北朝から隋唐にかけて州の統治面積を縮小させ、漢代の13州から300余州もの小さな州になっていく。


 
2の3辺防兵の兵力
①五営兵(註8)。光武帝は幽州騎兵と冀州【きしゅう】騎兵によって天下を取ったため、黎陽【れいよう】(河南省浚県)に軍営(騎馬常備軍)を立て、謁者が監領つまり監察と司令官の代行した。騎兵千人。
 明帝(57年から75年在位)以後は、又、毎年郡国と、中都官死罪繋囚(京師諸官庁で働く刑徒だろう)を募兵、辺疆防衛の兵士とし、妻子をつれて辺疆県に移住させた。移住者には、皆弓弩と衣服食糧を給した。北胡の変乱に対しては度遼営を置き、南蛮叛乱に対しては象林兵を置き、羌族が首都圏を犯せば長安、雍二尉を置き、鮮卑が居庸県(上谷郡に属す。北京市延慶県)を略奪に対しては漁陽営を置いた(註9)。五営はいずれも精鋭騎兵の常備軍。一営1000人、合計5千人。
②部都尉と後に属国都尉に変更された部都尉、合計17個都尉の率いる戍卒。1万7千人(一営1000人)。西域都護(人数不明)、副校尉300人、戊己【ぼき】校尉(前四八年第九節註)500人、西域長史(西域都護代行。延光二年[一二三]以降は、西域都護を置かず長史が長官職を代行)500人。①五営兵5000人と②部都尉の戍卒1万7千人、西域1300人の合計は2万4千人
③属国都尉(少数民族の集団たる部落毎に設けた、羈縻【きび】政策つまり関与政策的な、少数民族に対する軍事的管理組織。勧農、牧畜などの生産に関わる官兵はいない。一三二年第六節註)。東漢では郡県とは別に属国を設けたので、属国兵ではなく、少数民族兵ともいうべき存在。
 使匈奴中郎将が率いる匈奴。和帝時の南匈奴は「戸3万4千、口23万7千、勝兵(兵役対象者)5万0170」。勝兵1:少数民族人口4.7。漢軍と協力して、北匈奴や鮮卑などの侵略を撃ち破った。
 護烏桓校尉が主管する烏桓。東漢初めは数万から数十万。霊帝時には1万5千800余落(落はテント、パオ、ゲルつまり戸【こ】。ここでは邑落【ゆうらく】)。一邑落200人として310余万が動乱に乗じて内地に移住。
 護烏桓校尉は鮮卑も主管した。史料より鮮卑13万から14万人と推測。護羌校尉が主管する羌族はきわめて少数。
以上、東漢に帰順した烏桓人は15万、羌族は数えない。南匈奴人と合わせて55万人。勝兵1:少数民族人口4.7の比率を用いると、少数民族兵は約11万人





(註1)①部都尉56個、②農都尉4個、③属国都尉8個。即ち、敦煌郡の中部、玉門關、陽關、宜禾【ぎか】部都尉;酒泉郡の東部、中部、北部部都尉;張掖郡の日勒、居延、肩水部都尉と張掖屬國都尉、番和、居延、張掖農都尉;金城郡の西部、廣武部都尉と金城屬國都尉;武威郡の北部部都尉;隴西郡の南部部都尉;西河郡の南部、西部、北部部都尉と西河屬國都尉;天水郡の屬國都尉;安定郡の屬國都尉;北地郡の北部、渾懷部都尉と北地屬國都尉、上河農都尉;上郡の匈奴、高望北部、望松北部部都尉と上郡屬國都尉;朔方郡の東部、中部、西部部都尉;五原郡の東部、中部、西部、受降部都尉と五原屬國都尉;雲中郡の東部、中部、西部部都;定襄郡の東部、中部、西部部都尉;雁門郡の東部、西部部都尉;代郡の東部、中部、西部部都尉;上谷郡の東部、西部部都尉;遼西郡の東部、西部部都尉;遼東郡の東部、中部、西部部都尉;樂浪郡の南部、東部部都尉;會稽郡の西部、南部、東部部都尉;廣漢郡の北部部都尉;蜀郡の西部、北部部都尉と牂柯【しょうか】郡の南部部都尉。
(註2)部都尉は北部辺疆警戒の役割。毎百里に一候、あるいは障、塞の設備に、候官(偵察隊隊長)あるいは障尉、塞尉を置き、部都尉に隷属。
候宮の下にはまた候長、烽燧帥等がいた。『漢律』に「近塞郡皆置尉,百里一人」。『後漢書・百官志』に、「邊縣有障塞尉」。本注曰「掌禁備羌夷犯塞」。『破城子漢簡282.15』に「右塞尉一人,秩二百石」とある。
(註3)『史記・匈奴列傳』の漢武帝元狩四年(前119年)の条に、「漢渡河自朔方以西至令居,往往通渠置田,官吏卒五六萬人」とある。「朔方以西至令居」の地理範囲は、おおむね朔方、定襄、雁門、西河、上郡、北地、安定、金城、天水、武都、隴西等11郡を含む。「官吏卒五六萬人」とはこの時の西北辺地のあらゆる屯田吏卒の総数であろう。
(註4)戍卒と屯田吏卒が60万人。『史記・平準書』の元鼎六年(前111)の条に「初置張掖、酒泉郡,而上郡、朔方、西河、河西開田官,斥塞卒六十萬人戍田之」とある。
(註5)『漢書・趙充國傳』に、宣帝の時に「北邊自敦煌至遼東萬一千五百餘里,乘塞列燧〔隧〕有吏卒數千人」とある。
(註6)『三国志・魏志・王郎傳』注引『魏名臣奏』。
(註7)東漢邊郡は約36個。即ち玄菟【げんと】、樂浪【らくろう】、遼東、遼西、右北平、漁陽、上谷、代、雁門、定襄、雲中、朔方、北地、武威、張掖【ちょうえき】、五原、酒泉、敦煌、金城、隴西【ろうせい】、漢陽、武都、犍為【けんい】、越巂【すい】、永昌、益州、廣漢、蜀、牂柯【しょうか】、交趾【こうし】、日南、九真、南海、蒼梧【そうご】、鬱林【うつりん】、合浦【がっぽ】。
(註8)五営兵。営兵について、張鶴泉著『東漢時期的屯駐営兵』(『史学集刊』2006年5月第3期)では、下記のようにいささか分類の見解が異なる。
①内郡営兵つまり内郡駐屯兵。騎兵の常備軍。黎陽営、虎牙営(長安営。一四〇年第九節参照)の司令官は京兆虎牙都尉。雍営の司令官は扶風都尉。各1000人かそれ以上、黎陽営、虎牙営(長安営のこと)、雍営の三営の合計約3000人の騎兵部隊。
②辺疆営兵。辺疆郡駐屯兵;護羌校尉(一一〇年第十六節註)、護烏桓校尉など。部隊は営兵。兵源は弛刑(囚人兵。五〇年第五節註二参照)や募兵、羌族、匈奴出身兵。主に騎兵部隊。各郡おおむね数百騎から1000騎。常備軍。ただし明帝の永平八年(紀元六五年)第三節に、北匈奴と南匈奴の交流を遮断するために、黎陽営(河南省浚県)から虎牙営(精鋭騎兵部隊の意味)を抜いて度遼営を五原郡の曼柏(内蒙古準格爾旗ジュンガルと西北の達拉特旗の中間。度遼将軍の虎牙営駐屯地)に置いたとある。
(註9)元朝馬端臨撰『文献通考・兵考二』に、「明帝以後,又歲募郡國、中都官死罪繫囚出戍,所以妻子自佔邊縣,以為常。凡徙者,皆給弓弩衣糧。於是北胡有變則置度遼營,南蠻或叛則置象林兵,羌犯王輔則置長安、雍二尉,鮮卑寇居庸則置漁陽營」とある。


参考資料:
論文:
*朱国炤著『上孫家寨木簡初探』(『文物』1981年第2期、総297号、文物出版社)。大通上孫家寨簡文釋文(西漢兵制)について。
*勞榦著『論漢代的衛尉與中尉兼論南北軍制度』(『中央研究院歷史語言研究所集刊』第29本下冊、中央研究院歴史語言研究所集刊編輯委員會編)
*胡宏起著『漢代兵力論考』(『歴史研究』1996年第3期第29頁から第40頁。歴史研究編輯委員会、中国社会科学雑誌社)より抜粋。
*張鶴泉著『東漢時期的屯駐営兵』(『史学集刊』2006年5月第3期)