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WHITE MAGNOLIAは『海のホーチミン・ルート』の著者グエン・ゴックさん の来日(11月1日~10日)を目指しています。

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忘れ得ぬ人々(ベトナム戦争やドイモイで活躍した人々)

写真でたどるホン・ニャットさんの思い出

小森香子作詞、大西進作曲の「青い空はベトナム語で作詞し、元女性政治囚の仲間とともに歌ったダン・ティ・ホンニャットさん(昨年12月12日、病気のため死亡)との交流を写真でたどります。


2017年1月、元女性政治囚の獄中闘争を描いたミュージカルを演ずるホン・ニャットさん(写真中央、ホーチミン市の女性博物館で日本のツアー一行に披露)


同上


昨年12月大西進さんの指揮で「青い空は」の合唱練習する元女性政治囚(右端がホン・ニャットさん、女性博物館で)


2016年8月、日本のツアー一行との交流夕食会で記念撮影(ホーチミン市)


サイゴンで秘密活動をしていた当時のホン・ニャットさん(自宅の壁に掲載)


日本の友人たちとホーチミン市のホテルのロビーで(昨年1月)


故郷メコンデルタのミトの自分の革命家族の記念館で

メコンの戦士ムオイ・ベさんとの30年ぶりの出会い

ムオイ・ベさんとは1975年4月の南ベトナム完全解放直後の同年6月のメコンデルタ取材の際、メコンの中心都市カントーで出会った。まだ若いベさんは市内のアンギエップ区の人民委員会の委員長(区長)であった。サイゴン軍第4軍区(メコンデルタ地域全体)の司令部があったカントーを無血解放し、サイゴン軍第4軍区司令官を絶望のための自殺に追いやった優秀な戦士・活動家であった。当時の取材ルポは、木谷八士「赤旗」特派員の『サイゴンは解放された』(新日本出版)の第6章 「ゆたかなり メコンデルタ」に収められている。ここに紹介するのは30年後の2005年のムオイ・ベさんとの再会のルポである。1975年6月当時の写真は赤旗編集局にネガごと送ったので、私の手元にない。
  鈴木勝比古

余生を若い世代の教育に ある女性戦士との30年ぶりの再会
 【カントー市(ベトナム南部)∥鈴木勝比古】カントー市で、三十年前の赤旗で紹介した女性戦士と再会しました。グエン・ティ・ムオイ・ベさん(65)です。ムオイ・ベとは「小さな十番目」の意。通称です。子沢山のベトナム南部では、生まれた順に数字で呼びますが、最初の子を二番目として数えるので、彼女は九人目の子どもです。
 一九七五年六月、解放後間もないメコンデルタを初めて取材する外国人記者団に参加し、カントー市の中心、アンギエップ区の人民委員会で、委員長のムオイ・ベさんからカントー市解放のたたかいを聞きました。
 当時、同区のベトナム共産党員は彼女を含め、二人だけでした。二人が中心になって、銃を持たず、ビラで市民の決起を呼びかけて、サイゴン軍を降伏させた話しに驚きました。七五年七月十五日付赤旗に「二人の女性党員、ビラで敵を降伏さす」の見出しで紹介されています。
 今回の取材に協力してくれた同市人民委員会のディエップさん(女性)に、この思い出を語りました。「長身の美しい女性でした。なぜ『ベ(小さいの意)さん』と呼ばれていたのか、疑問に思いました」ディエップさんは「今も背が高く、美しいですよ」と笑いながら、ムオイ・ベさんの家の電話番号を教えてくれました。
 ムオイ・ベさんが自宅で、ドリアンやマンゴーにワインまで用意して迎えてくれました。「当時、私と同じ活動の部署に、私を含め三人のムオイと呼ばれる女性がいました。私が一番、若かったので、ムオイ・ベと呼ばれたのです」三十年越しの記者の疑問に、ムオイ・ベさんが答えました。
 豊かな農家の末っ子として、何不自由なく育った彼女が兄や姉に続いて解放闘争に参加するのを、母はさびしがりました。「毎日、顔を見せてくれたら」との条件で許してくれました。「一、二カ月はそうしましたが、三カ月目からはもう帰れませんでした」その母は八九年に九十一歳で亡くなりました。
 彼女は五七年に十七歳で解放闘争に参加しました。六八年から七五年の解放までカントー市で非公然活動に従事しました。七一年にはカントー市特別部隊の副隊長に選ばれました。サイゴン軍の兵士に拘束されかけたこともあります。解放後、九二年まで党や人民委員会などで活動し、その後、引退しました。引退後も、旧戦士会で活動しています。
 ムオイ・ベさんはこれまで独身で通して、解放闘争で犠牲となった姉夫婦や他の戦士の遺児たち九人を自分の家に引き取って育てました。「私の誇りは、一人として道を踏み外さず、りっぱな道徳心を持った人間に育てたことです」
 ムオイ・ベさんが心を痛めているのは、郷土の再建を担う若者たちの教育です。「両親は子どもに金を与えるだけで教育しようとしません。家族一緒の食事もなくなっています。一日に一回でも一緒に食事して、子どもたちと話をする機会を持つべきです」
 彼女も参加するカントー市の旧戦士会は積極的に若者たちと話す機会を持ち、彼らの親たちがどのようにたたかって、祖国を解放し、平和を実現したかを聞かせています。


写真は、ムオイ・ベさん(右)と私(2005年3月撮影)


もう1枚は自宅の壁をかざる、解放前の 若きムオイ・ベさんのポートレート
 

ダン・ティ・ホンニャットさん

ダン・ティ・ホンニャットさんはご自身がベトナム語に翻訳し、中心となって元政治囚の仲間に広めた日本の反核の歌「青い空は」をホーチミン市文化大学の大講堂の舞台で歌うことなく、昨年12月12日、81歳の誕生日になくなられた。しかし、彼女がこの歌を教えた元政治囚の後輩たちが、日本の「青い空は」合唱団とともにこの舞台で歌い上げた。これは昨年、富士国際旅行社発行の「いい旅、いい仲間」9月1日号のトップ記事として掲載された私の寄稿文と写真(2017年1月、ホーチミン市の女性博物館で田辺七郎氏撮影)である。

トゥイ・チャムの日記

◎ワールドリポート/ベトナムでベストセラー/抗米戦争最前線/女医の思い/
〝日記の中に燃えさかる炎〟

2005年の南ベトナム解放30周年の記念の年に、ベトナムで出版されたトゥイ・チャムの日記はベトナムで大ベスト・セラーとなりました。私が取材・送稿し、2005年9月12日付の赤旗に掲載された記事の原稿を紹介します。この記事には、私が直接、取材したグエン・ゴックさんの貴重なコメントが紹介されています
                2005年9月12日 鈴木勝比古
女医ダン・トゥイ・チャム

 「トゥイ・チャムの日記」は、一九七〇年六月二十日で終わっています。彼女は、二日後の六月二十二日、米兵に銃撃され死亡しました。二十七歳でした。抗米戦争最前線の解放軍野戦病院に勤務した女医ダン・トゥイ・チャムが残した二冊の日記がこのほど出版され、感動をよんでいます。
(ハノイ=鈴木勝比古 写真は、ベトナム作家協会出版社が2005年7月に出版した『ダン・トゥイ・チャムの日記』所蔵の写真から)

 トゥイ・チャムが勤務した野戦病院は中部クアンガイ省ドゥクフォー県にありました。米軍との最激戦地域の病院は、森林の中に隠され、地下に手術室や避難所を持った特殊な施設です。敵に発見されればすぐに移動します。米軍は病院さえ容赦なく標的にしました。彼女が犠牲になる直前には、米軍に野戦病院の存在を知られ、すでに患者とスタッフの大半は避難を終えていました。残ったのは五人の身動きできない重傷者とトゥイ・チャムを含めた三人のスタッフだけでした。彼女は翌々日、病院の外に出、米軍部隊に遭遇し、銃撃されて死亡しました。
 トゥイ・チャムが残した二冊の日記は、六八年四月八日から七〇年六月二十日まで二年余りにわたります。六七年三月からの一冊はみつかっていません。

過酷な戦争を理解
 彼女は日記にさまざまなできごと、それについての自分の思いをつづっています。重傷で死にゆく若者たちとの会話。彼らをいつくしむ気持ち。ハノイの母、父、妹、そしてハノイへの思い。野戦病院の幹部の自分に対する偏見に対する憤り。恋人と心が通わず、別れが迫るせつなさ。そして、次々に自分の周りの人々が犠牲になっていくつらさと米軍の非道への憎しみ。
 ベトナム作家協会出版社は、七月中旬に「トゥイ・チャムの日記」を出版、これまでに十八万五千冊が印刷されました。ベトナム各紙が日記を紹介、国営テレビも特集番組を放映しました。
 ハノイ在住の青年ディン・ミン・チさん(男性)はその感想をこう記しています。「日記を続けては読むことができませんでした。こみあげる感情を抑えるためです。わが民族がたどった過酷な戦争への理解を深めることができました。ありがとう」(インターネット新聞ベトナムネット)
 日記はふしぎな運命をたどりました。日記を入手したのは、当時、クアンガイ省の地域に駐屯した米軍情報担当士官フレデリック・ホワイトハースト氏です。彼は、押収した文書類を整理し、この日記を燃やそうとしました。しかし、通訳のベトナム士官グエン・チュン・ヒエウ氏が止めました。「燃やさないでください。この日記の中にはすでに炎が燃え盛っています」。ヒエウ氏はトゥイ・チャムの日記をすでに読んでおり、そこにあふれる情熱の炎を知っていたのです。フレデリック氏はヒエウ氏の助けを得て日記を読み感動し、手元に保管していました。

私たちはみな同じ
 フレデリック氏は、日記の筆者の親族の消息を求め、ベトナム完全解放から三十周年の今年、日記を母親のゾアン・ゴク・チャムさん(79)に届けました。
 フレデリック氏はこの三十五年間、自分も参加したベトナム戦争について自問し続けました。彼はベトナム紙トゥオイチェに寄稿し、「トゥイ(・チャム)の言葉は、世界に語りかけています―私たちはみな同じです。みな夢があり、家族があり、みな同じ恐れがあり、泣いたり、慈しんだりしているのです」(同紙八月三日付)と述べています。

戦争を知るために
 トゥイ・チャムは、外科医の父と薬剤師の母のもとにハノイで育ち、ハノイ医科大学で眼科を学びました。女四人、男一人のきょうだいの長女です。六六年に卒業すると、すぐ南ベトナムの戦場で兵士たちを治療する道を選び、前線に赴きます。三カ月後に野戦病院に到着。父親から外科手術の手ほどきを受け、母親から薬草について学んでいたトゥイ・チャムの医者としての技能は野戦病院で歓迎され、すぐにこの病院に欠かせない医師となりました。
 ハノイ市内に住む母親のゾアンさんが語ってくれました。
 「トゥイ・チャムは人々に光を届けるといって眼科を選びました。前線への出発のとき、必ず戻ってくると言いました。私は子どもたちには日記をつけるようしつけました。どんなことでも、自由に書く日記です。自分の成長に役立つからです。私は、日記の公開には反対でしたが、若い人たちが戦争を知るためにと思い同意しました」
 当時、中部の激戦地で活動した作家グエン・ゴク氏(72)は「トゥイ・チャムの日記」について次のように語りました。
 「当時の青年たちは、トゥイ・チャムにかぎらず、みな勇敢にたたかい、人間としてもすばらしい青年たちでした。現在の青年たちがトゥイ・チャムに学んでほしいのは当然ですが、親たちも学ぶべきだと思っています。親たちがかつての美しい生き方を忘れてしまっては、若者たちに祖国への貢献や美しい生き方を求めることはできないからです」

「トゥイ・チャムの日記」の抜粋
 1970年6月14日「レコード盤が回り、青きドナウの流れの歌が流れている。笑い声、話し声。友だちが遊びにきた。これは夢、寝ているときでないときの夢」
 70年6月16日「私は傷病兵の兄弟とともにとどまることにした。それ以外の解決策はない。この状況下で、なさけないことに病院の政治委員の同志は私とともにとどまることを拒否した。炎が黄金を試し、困難が力を鍛えるのだ」
 70年6月18日「いつの日か帰って、つつましく暮らし家族を助けよう。その平和の1分、1秒の尊さがわかるだろう。ああ生活はどれだけ多くの血肉、青春であがなわれるのか。どれほど多くの人生が、他の人生をうるおすために終わるのか。北部よ、あなたは南部の心を理解しつくしているのでしょうか?」
 70年6月20日「1日、2日、そして9日たったが、だれも戻ってこない。とどまった私と数人の頭の中に疑問が繰り返される。なぜ、なぜだれも戻ってこないの?」「誰か来て! 私の手をしっかり握って、孤独な私の手を。私に愛と力を与えて! 目の前の困難を乗り越えるために」


トゥイ・チャムの遺族とトゥイのお墓

トゥイ・チャムの遺族トゥイのお墓
 2005年のベトナム解放30周年では『ダン・トゥイ・チャムの日記』が出版され、ベトナムの広範な読者の感動を呼びました。ハノイの大学を卒業した直後、志願して南ベトナム中部のクアンガイ省の野戦病院に医師として参加し、1970年6月22日、27歳の若さで米兵の銃弾で命を奪われた女性医師ダン・トゥイ・チャムの残した日記がそれをアメリカに持ち帰った元米兵によって35年後に遺族のもとに返されました。私はこの遺族(母親と妹)をハノイ市内のお宅を訪ねて、取材しました。その時の写真とその後、お墓を訪れた写真です。右が母親のゴック・チャムさん、左が妹のキム・チャムさん。もう一つの写真はハノイ市内のトゥイ・チャムのお墓。

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