8月22日から31日まで富士国際旅行社のベトナム縦断ツアーの解説者としてベトナムを訪問しました。8月24日にはグエン・ゴックさんの故郷ホイアンのホテルで、グエン・ゴックさんから約2時間半にわたってお話を聞きました(写真①)
まだ17歳になる前に解放軍に参加し、連絡役からはじめたこと、旧日本軍将校が教官となったクアンガイの陸軍士官学校で教練を受けたこと、ホイアンがチャンパ民族の伝統を受け継いで平和な国際交易都市として栄え、ベトナムでも独特な平和・国際交流の文化を発展させ、著名なすぐれた文化人を輩出したこと、現在につながるドイモイの時期にベトナム作家協会で、若手のすぐれた文学者を見い出し、育てる活動に従事したことなど貴重なお話をうかがいました。1932年9月5日生まれですから、もう86歳になられましたが、お元気な様子でした。
私たち一行がホーチミン市に飛び立った8月26日にはグエン・ゴックさんも別便でホーチミン市入り。その日の夜、グエン・ゴックさんに同行して来日する若手2人とともにグエン・ゴックさん一行来日歓迎委員会の私と宮原彬さんとベトナム側3人で日本への渡航準備の打ち合わせをしました。
翌8月27日には私たちツアー一行がフオックハイに住んでいる元船長のレー・ハーさんを訪問するのに合わせてグエン・ゴックさんとチュン・ズン記者(来日同行予定の1人)が同行しました。
片道2時間の小型バスの旅でしたが、グエン・ゴックさんは久しぶりのレー・ハー元船長との再会を喜び(写真②)

「海のホーチミン・ルート開拓者の1人」であるレー・ハーさんの母親ムオイ・リウ母さんの遺影に手を合わせました(写真③)。ムオイ・リウ母さんは長生きし、2015年に95歳で亡くなりました。

このあとツアー参加者はグエン・ゴックさん、レー・ハーさんの案内で元秘密の船着き場跡に建てられた記念碑を訪れて記念撮影をしました(写真④)

ハノイでは8月23日に郊外の枯葉剤障害児などの治療・養育施設「国際友好村」を訪問しました。4月の訪問の際に「国際友好村」の教員の方々から希望が出ていた「プロジェクター」を、東京の商社9条の会有志が8月の私たちのベトナム訪問に合わせて用意してくれたので、私から「国際友好村」の責任者にお渡ししました(写真⑤) 教官のみなさんが障害児たちに教えるのに、プロジェクターを使って映像を利用すると、子供たちの理解が容易になるとの理由からでした。

ホーチミン市ではインドネシアのジャカルタで開催されていたアジア競技会のサッカーでベトナム・チームが勝ち進み、韓国と対戦直前の夕刻には、グエンフエ大通りに大画面が出現し、観戦の市民であふれかえりました。残念ながら韓国戦で敗退しました(写真⑥)

(鈴木勝比古記)
羅允正さん作曲の作品の多くが憲兵隊に押収されて、残されたのは二十曲です。「青年と春」(青年興春天)は羅さんが憲兵隊に追われる日々に作曲したものですが、「情愛と生活の喜びあふれる作品」(タインニエン紙一月十九日付け)です。今も時々ラジオで流れているといいます。
週金曜日の夜に国会前で反原連の原発反対デモ(金デモ)に参加している仲間たち7名で、解放記念日に行くベトナム縦断の旅に参加しました。ハノイでは枯葉剤の被害を受けた子どもたちの施設である 国際友好村を訪問しました。3代目となる子どたちにも今なお重度の障害がでていることを目のあたりにし、被害の大きさに心を痛めました。ホイアンでは「海のホーチミンルート」の著者、グエン・コックさんのお話を伺い、ランタンまつりも楽しみました。ホーチミンではテト攻勢の戦士のご家族宅を訪問したり、充実したベトナムの旅でした。金デモ仲間への報告とハノイの施設への支援をお願いした時の手紙「7人の女ベトナムの旅」、参加者のTさんが地元誌に寄稿した「ベトナムの旅にて」を送っていただきました。旅の様子が伝われば幸いです。
夜9時きっかり、ホーチミン市の中心街を流れるサイゴン川の対岸から花火が 猛烈な音を発てて連発で打ち上げられた。夏空の情感を味わうように打ち上げ
られる日本のそれとは大分違う。迫力そのものである。しかしこれこそが解放 記念日、ベトナムの歓喜なのだ。エネルギーなのだ。 またその後がなんとも凄いのである。花火が打ち上げられていた15分間が終
了し通行止めのバリケードが外されるや否やオートバイの大波が堰を切ったよ うに車道を占領した。否、歩道も占領された。走行の津波が1時間は続いたで
あろうか。一台に4人の家族がまたがっているのはざらである。 1975年、4月30日サイゴンは解放された。 43年目の解放記念日の夜、私は花火の感動を味わう間も無くオートバイの騒
音と排気ガスの中に立ちすくんでいた。
「解放記念日に訪ねるベトナム縦断の旅」のツアーに4月26日から友人たち と参加した。ハノイ~ダナンからホイアン~ホーチミンという北から南下する
コースは20年近く前に去年亡くなった夫と2回訪れている。 今回は元赤旗ハノイ特派員、鈴木勝比古さんが同行する旅である。参加者は早 くも真面目な学習モードに入って、すでに車中でも鈴木さんの解説を熱心にメ
モしている。朝早い起床でウトウトと子守唄代わりに聴いていた私は少し慌て る。ハノイから車で一時間ほどのところに「ハノイ国際友好村」はあった。
枯葉剤の被害を受けた120名の子供たち、ベトナム戦争を戦った60名の旧 兵士たちが今は入所している施設である。旧兵士たちは解放記念日メーデーと
続く連休のため自宅に戻っているということであった。私たちを迎えてくれた のは無邪気に手を差しだし声をかけてくれる10歳前後の子供たちであった。
彼らは差こそあれ誰もが身体や脳に枯葉剤の障害をもっている。アメリカはベ トナム戦争での10年間、枯葉剤作戦と名付けて除草剤を南ベトナムの地の2
0%に散布したのである。ダイオキシンの毒性は三世代にわたって消え去るこ となく、有効な治療もないままに人体に異常を来して現在に至っている。 20年前にアメリカ軍の一人の兵士が悪を償いたいと、この施設の設立をよび
かけたという。残虐な戦争をするのも人間であり、手を差し伸べる優しさも同 じ人間なのである。何故に人間はかくも悲しき矛盾の生き物なのだろう。
翌日はベトナム戦争中アメリカ軍最大の軍港都市ダナンから世界遺産の町ホイ アンへとバスで向かう。ホテルに着くや否や休む暇もなく「海のホーチミンル
ート」の著者グェン・ゴックさんの2時間の講演会。ベトナムがアメリカのよ うな大国に勝利できたのは、功績を誇ることもない名もなき多くの人びとのおかげであったのだ。特に農村女性たちの力強い働きに因ることは大である。グ
ェン・コックさんは最後に今の政府への危惧する胸の内を遠慮がちに明かした。 経済発展の陰にどんどん広がる貧富の差、幹部の汚職等々にこんな筈では無か
ったと思っているのだろうか。 ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の理想とする国から少しずつずれて来ている のだろうか。
最後の訪問都市はホーチミン市。「戦争証跡博物館」を訪れる。 ここは、ベトナムを訪れた世界中の旅行者が行くべきところではないだろうか。 いいえ、是非に訪れてほしいと願う。枯葉剤による被害、農民や市民に加えら
れた残虐行為を展示品や写真で告発している。私は写真の一枚一枚をショック で正視することが出来なかった。枯葉剤による人体に及ぼした被害の実態は、
到底言葉で言い表すことができない。虐殺した農民たちの頭を得意げにぶら下 げるアメリカ兵、どれも戦争の残虐性を如実に写し出していた。 売店で働いていた枯葉剤被害者の若い女性の一人に日本から持ってきた私の描
いた反原発のポスターを手渡すことが出来た。毎週金曜日、国会前で原発反対 を訴えて6年になる。私の初めての孫が生まれて数か月で福島原発事故は起こ
った。その孫が蟻んこを見つめるあどけない姿に放射能から子供を守ろうとい う願いを重ねて描いたポスターである。 この6年間、金曜日に集まる仲間たちはこのポスターを毎回掲げてくれている。
その7歳になった孫娘が描いた小さな絵も一緒に貰っていただいた。 命こそ宝!と大声で叫びたく、戦争は嫌だ!と心底思った6日間の旅であった。
今年1月に日本の核兵器反対の歌のシンボル的な存在になっている「青い空は」の作詞者の小森香子さんと作曲者の大西進さんが、合唱団「コールかるがも」と全国各地の参加者を加えて「青い空は」合唱団を編成してベトナムを訪問し、1月15日にホーチミン市の文化大学での約300人が参加した合唱と舞踊の交流会を開催し、1月17日にはハノイの「ベトナムの声」放送局で合唱を披露した。ここに紹介するのは参加者の柳沢清美さん(東京都大田区在住)がまとめた「ベトナム訪問記」である。柳沢さんの承諾を得て、このホームページに紹介しますー鈴木勝比古
サイゴン解放、南ベトナム完全解放43周年を迎えるベトナムを4月26日から5月1日まで富士国際のツアー参加者とともに訪問しました。ハノイ(首都、北部)、ホイアン(中部、中世の国際交易都市、当時日本人町があった)、ホーチミン市(市民は今もサイゴンと呼ぶ、ベトナム最大の都市)を短期間に縦断する旅でした。4月28日にホイアンのホテル会議室に『海のホーチミン・ルート』の著者である作家のグエン・ゴックさんをお招きし、「海のホーチミン・ルート」の取材・執筆にまつわるお話をしてもらい、小国ベトナムが大国アメリカの総力をあげた侵略戦争を打ち破った秘密について聞きました。
ホーチミン市では1968年の世界を震撼させたテト攻勢で解放軍のサイゴン進攻の指揮をとり、犠牲となったグエン・テー・チュエン大佐(当時)のご家族を5月1日の午後に訪問し、妻のカムさんや長女のテー・タインさん、次女のタイン・ヒエンさんから夫であり、父であるグエン・テー・チュエン大佐や戦争時代の思い出を聞きました。
解放記念日の4月30日にはホーチミン市の戦争証跡博物館で手芸品を販売しているアンフック障害者センターの人びとと交流しました。
写真は①お話をするグエン・ゴックさん(右)、②『海のオーチミン・ルート』(日本語版)にサインするグエン・ゴックさん、③グエン・ゴックさんと記念写真(以上、4月28日撮影)④グエン・テー・チュエン大佐の家族の家で記念写真(5月1日撮影)⑤アンフック障害者センターの人びととの交流(4月30日撮影)
2017年6月にホーチミン市の若者出版社が出版した『父と子』に掲載された長女のグエン・テー・タインさんの手記『歴史の中の人となったわが父』を合わせて紹介します。
2018年5月7日記 鈴木勝比古

①お話をするグエン・ゴックさん(右)

②『海のオーチミン・ルート』(日本語版)にサインするグエン・ゴックさん

③グエン・ゴックさんと記念写真

④グエン・テー・チュエン大佐の家族の家で記念写真

⑤アンフック障害者センターの人びととの交流
追加資料
私の父、歴史の中の人―グエン・テー・タイン(ホーチミン市若者出版社が2017年に出版した『父と子』から)
1-私には他の多くの子どもたちのように、産声を上げた時から父親の腕にしっかりと抱かれる幸せはなかった。私が母親のおなかの中にいたころ、私の父は任務のために20歳になったばかりの若い妻と別れて最北の遠い戦場に赴かなければならなかった。私の母は語ったー別れの時、私の父は母のおなかに手をやって、さとしたー『私たちの最初の子どもには、男の子でも、女の子でも、私の名の1字と君の名の1字を子どもに付けよう』 それから数カ月後、党組織は私の母にサイゴン市内で活動する任務を与えた。妊娠しており、都市での活動経験も浅かった母は、敵に捕らえられカティナ監獄(現在のホーチミン市文化・スポーツ局)に拘禁された。一緒に捕えられた仲間には、ナム・バック(四女のバックの意)叔母さん(その後、第10区の党委員長になったこともある)、タム・フオン(七女のフオン)叔母さん(その後、ホーチミン市女性連合会の常務委員になったことがある)、リー叔母さん(ホーチミン市文化・スポーツ局の事務局長ハイ・ゴック(長男のゴック)さんの妻) 母は敵の尋問の時には、おなかに鞭を受けないように必死になってしのいだ。母は語ったーその時、母は痛みを恐れたのではない。父母の美しい記念である最初の子を流産することを恐れただけだ。冷たいセメントの取調室の床に横になり、母は、父の名と母の名の1字ずつを結んで名付けた子どもにひそかな願いを込めた。「わが子よ。産声をあげなさいよ、お前!あなたのお父さんに会いなさい」
2-妻とまだ生まれていない最初の子どもを南部に送り返して、私の父は銃を手に、北の方角に向かった。そこで彼は短期間、外国での軍事学習に送られた。それから、1958年にベトナム人民軍最初の軍の階級授与のさい少佐の階級を授与された。この軍の階級授与式には各伯父・叔父たちがいたーチャン・バン・チャー、レー・チョン・タン、チャン・ド、トー・キー(以上は大佐)、チャン・ディン・スー(中佐)、ホアン・カム、チュオン・バン・バーン(少佐)、グエン・トイ・ブン(上尉)などなど。詩人のグエン・ビンが書いたように、南部東地域の抗仏の戦場でその幾年月、肩を並べてたたかった私の父と多くの軍隊仲間は、今ではまた「昼は北部、夜は南部に」想いをはせる同じ境遇を分かち合っているー「満天に星が満ち、星が一晩中明るく照らす。夜の星は地域を分かたず照らす。空には時として星が昇ることを忘れるが、私はどんな夜も君を想わぬ夜はない」 まさに、そのように「昼は北、夜は南」の境遇で多くの年月を重ねたために、1958年の春は、私の父にとって真に特別の春であった。彼は軍機関からザーラム(空港)に出て妻と子を迎える準備をするよう報告を受けた。その同じ飛行機には、若干の幹部の妻子が乗っていた。その中には音楽家のダック・ニャン、チャン・キエット・トゥオン…の妻子もいた。私の父が母に語ったことだが、妻子を迎える準備のために彼は何度も西北地方(父の赴任地)とハノイの間を行ったり、来たりしなければならなかった。何回も喜びがふいになり、妻や子を胸に抱く思いを裏切られて、むなしく一人で帰らざるをえなかった。飛行機が来なかったのである。そして、結局、幸福感に満たされる再会の瞬間を迎えた。夫婦と父子が互いの腕にしっかりと抱き合った。歓喜の涙にまみれて抱擁が交わされた。私の父は友人たちに繰り返し語ったー「最初の娘のタインは4歳半まで父に会っていなかった。それでも、飛行機のタラップから降りると、まっすぐに私のところに走ってきて、実に大きな声で「お父さん」と叫んだ。自分は幸福の絶頂だった。まったく、歓喜のきわみさ、みなさん! 妻子の傍らで幸福な数日間を過ごしたのち、私の父は自分の部隊に戻らなければならなかった。そのころ、彼は副連隊長兼西北地方ナサンの参謀長だった。わずか数日間の間に、彼は私の食事や立ち居のくせや性癖を見抜いた。いたずらで、強情。5歳近くになっても、コップでミルクを飲むことができず、ほ乳瓶を吸っていた。さらに肉や野菜を噛むことができない。このため、どんなものも細かく砕かなければならない!彼は母に指示するかのように言った。軍人の子どもなのに、こんな、金持ちの子どものような育て方ではだめだ。いますぐ「改造」すればなんとか間に合う。離れ離れの幾年月ののちの、父と母の最初の「衝突」は結局、私が原因で始まったのだった。母はいらだちをあらわにしたーお父さんの言葉は厳しすぎる。母は祖母に子どもをあずけてようやく、手足が解放されて活動に参加できる。祖母は養母に頼んで乳を飲ませる。こうしてこの子のくせができたのだ。それでは、お父さんが軍隊を訓練するように子どもを訓練したいなら、どうぞ連れて行ってくださいー。そんなわけで、父は私を抱き上げて、部隊に連れて行った。父と子が初めて出会った最初の週のことだった。そこでは、彼は来る日も、来る日も辛抱強くコップでミルクを飲むことを教え、ゆでたザウムオン(空芯菜)のくきを数十分間噛むことを教えた。小さく砕いた肉を飲み込むまでに、私が吐き出したり、飲み込んだりするのを辛抱強く待ち続けた。その「恐ろしい訓練」のあと、父は私の汗と涙をふきながら、私の娘はなんとかしこい、軍人の娘はそうでなくては!と私をほめたり、あやしたりした。それから半世紀余の歳が過ぎた今になっても、彼が私を抱いて、公舎の庭に出て、つやつやした産毛の生えた半ば青く、半ば赤い、美しい桃の実をもいで、食べさせてくれた時の父のあたたかい息を感じることができる。ハノイの母の元に帰って、「改造」の1カ月間後に私があいさつ代わりに出した言葉は「お母さん、ザウムオンはとてもおいしかったよ」だった。
3―生前、チャン・バン・チャー、トー・キー、レー・チョン・タン、ルー・クアン・トゥエンなどの伯父さんたちはいつも私に父のことを話してくれた。私の父にとって職務上は上級者であり、生活上は兄であるこうした伯父さんたちの眼には、グエン・テー・チュエンはりっぱな人格をもち、かつ、才能のある一人の指揮官だった。バー・トー・キー(次男のトーキー)伯父はいつも言っていたー「チュエンは戦場の将軍だ。聡明で、とても勇敢だ。チュエンのような人間には、南部が戦闘しているときに、平穏な北部に座っていることが我慢できない。それでこの甥(チュエン)は私に南部の戦場に戻る指令書を書くようしつこく要求し続けているのだよ。チュエンは私とナム・ビー(四女のビー)(ホー・ティ・ビー大佐、女性)にこう託したー「私はカム(妻)と子どもたちを北部にとどめて、バーさん(バー・トー・キーさん)とナムさん(ナム・ビー大佐)に面倒を見てもらうお願いします。私を南部に戻して満足させてください、バーさん」 私はチュエンのことを理解し、この甥が行くことに同意した。まさしく、南部の戦場はチュエンのような人々を非常に必要としているのだ。私は手首に巻いた時計をはずして、チュエンに渡した。それは同意のあかしであり、信頼のあかしでもあった。
抗仏(戦争)のころ、中隊長の地位から、その後、大隊長になった父について、父の軍隊仲間の叔父たちは、彼(父)は陣地攻撃もすぐれているが、遊撃戦(ゲリラ戦)にもすぐれていると評した。1948年8月、彼は中隊を指揮して、サイゴン・チョロン・ザディンで有名なランレー・バウコーの戦闘を闘った。父が大隊長であった時期もある第302大隊は、特殊部隊による攻撃の方法をあみ出してベトナムの軍事史に記録されたこともあり、当時の南部東地域分連区で最強の大隊であった。1975年以前の抗米(戦争)の中でバーザー、ビンザー、ドンソアイ、バウバン、ニャードー・ボンチャン、ザウティエン、バウコー、ベンカウ…など祖国の軍事史の転換点となった大きな戦闘には、いずれも連隊長としての、その後は師団長としてのグエン・テー・チュエンの足跡を記す貢献があった。深謀遠慮、具体的、決断と果敢、私の父と活動を共にした幹部たちはいつも父についてこのような共通の評価を下した。1968年の戊申の春季攻勢(テト攻勢)を準備するとき、まさに父がこの作戦に責任をもつ司令官である戦闘部隊と分区の主要な攻撃の方向を事前に調査・研究するために、サイゴン市内に自分自身が潜入する意見を提案したのである。この大胆でありながら、合理的で、実現可能な提案は上級の承認を得て、南部解放軍情報局によって実行に移された。特別に危険であるが、大きな意義のある私の父の行動には、A20情報員グループが配置され、H3情報員が直接、任務を担当した(H3はその時はサイゴン国会議員で、1975年以降はベトナム人民軍大佐のバー・ギア=次男のギア=、フン・ディン・クン少将が書いた1998年、ホーチミン市文芸出版社の『幾層もの煙幕の下のサイゴン』の中の人物) 私の父のこの行動が特別であるのは、(南部東)地域の軍事委員会と司令部が、かつて師団長であり、当時、サイゴン・ザディン北部分区の司令官であった幹部を、初めてサイゴン市内の敵の中枢部に派遣し、タンソンニャット空港を視察させ、情勢を調査・研究させたからである。この準備活動の人選は、南部の各主要な都市で同時に決起する最初の大きな作戦の中で不可避的な人的な損害を最小限に抑える目標に沿ったものであった。1968年の戊申の総攻撃・総決起(テト攻勢)の中で、第1次攻撃の激烈な数日間の戦闘ののち、私の父は前線指揮所を離脱して、地域司令部の会議に参加するよう命令を受けた。私の父と行動を共にしていた人物の中にはナム・スアン(四男のスアン)叔父(マイ・チー・トーのちの政治局委員、公安相)がいた。ナム叔父は語ったー「私の父は彼に約束した『君が先に行きなさい。私はすぐ後に行く。会議で会おう』 しかしながら、直後、指揮所の塹壕をねらった敵の砲撃が彼の移動を阻止した。私の父を想起して、『30年戦争の終結』の本(1983年、ホーチミン市文芸出版社)の中で、チャン・バン・チャー上将は書いているー「勇敢無双の師団司令官、グエン・テー・チュエンは1968年の戊申のテトに、かいらいの首都に入り、ある日…、激烈な戦闘地域で勇敢に犠牲になった」 レー・チョン・タン大将は1976年12月、第4回党全国大会に出席した機会にハノイの自宅に彼を訪問したホーチミン市の幹部たちに語ったというー「グエン・テー・チュエンは聡明、果断で、果敢な人物である。彼が指揮をとった戦闘、彼の生活と彼の犠牲がこのことを伝えている」 戦争が間もなく終結する時に生存していた人々の中の一人として、レー・チョン・タンは、サイゴン軍参謀本部に進撃した部隊の指揮をとっていた。そこで彼は敵が逃走する時に残していった散乱する資料の山の中から1枚の写真をすばやく取り出した。写真の裏にすばやくメモ書きをして彼の秘書官の士官に手渡したー「すぐにこの写真を、グエン・テー・チュエンさんの妻のカムさんに渡しなさい」 この写真は、サイゴン解放の数日後に、ハノイの私たち母子の手元に届けられた。写真には数行の添え書きが記されていたー「『カム姉さんに送る。姉さんと子どもたちの栄誉として』―バー・ロン、1975年4月30日、11時」(バー・ロンというのは、レー・チョン・タンさんの偽名) 写真はサイゴンとの境界の前線地区での会合を写していた。そこにはレー・チョン・タン、チャン・ド、ホアン・カム…などの指導者と私の父がいる。私の家族にとって無限の価値があるこの写真はこの時から今まで大切に保管されてきた。
4-今から少し前、全国が1968年の戊申の総攻撃・総決起40周年を準備しているとき、国土防衛戦争のなかで特別の功績のある人に武装勢力英雄の称号を授与するための最後の審査提案のための経歴書をあちこちで人々が作成しているという知らせをある人が私に伝えたことがあった。過ぎし時期に終止符を打ち、新しい時期に移行するためのある種の総ざらいの機会である。この知らせをくれた人は旧空軍中佐のレー・タイン・チョンさんである。彼は心配そうに言ったー「何回もあなたの父は英雄称号の名簿に載っていたが、いまだに実現していない?あなたはもっと積極的に聞きに行くべきだ。そうしないでこの機会を逃せば、年寄りがかわいそうだ」 私はチョン中佐のこうした心からの不安げな申し出に心を動かされたー「はい、聞いてみます」 実のところ、不安がのり移ったのではなく、内心、英雄称号は国に特別の貢献をした人々に人民の委任にもとづいて国家が贈る高貴な記録である、それゆえ、もし、私の父に対して称号を贈るために質問し、結果が得られるなら、このことをすべきである。それから数日間、私は、この問題を担当する人に手紙を書いて送るべきかどうかという、一つの疑問に苦しんだ。それから、私は自問自答した。いいえ。なぜなら、こうした決定を下す権限のある人々の中に、私の父がどのような人間なのかをはっきり知っている人たちがいないとは言えない。そして、確かに、もし誰かが本当に父のように、十分に基準を満たす人を評価すべきであることに関心を寄せるなら、彼らは第4軍団―書類を作成するところーに電話して、これまでの手続きを訂正して私の父に称号を与えるよう提案する記録書類を作成するよう要求する電話をかけるであろう。私は考えた。もし、英雄称号を与えられるべき人の家族が陳述の手紙を送るなら、それはどうしても、要求という影をもたらすことになる、たとえ、それが正当な要求であるとしても。そして、その要求は、時として自身が志願して前線に赴き、祖国を解放する戦闘の中で倒れた人を汚すことになる。グエン・テー・チュエン大佐、私の父は銃を手に戦場に出て、背後に若い妻と3人の幼い子たち、どの子も10歳に満たない子たちを残して戦場に出た時、彼は果たして、もし幸運にも生き残ったとしたら、どのような勲章あるいは称号を与えられることになるかと考えたであろうか。彼が2つの行軍の間の短い静かなひととき、色あせた草色のパラシュートの布でつくったハンモックの上に横になってゆらゆらと揺れながら連綿と考え、連綿と想い起していたのは、演劇『ルバ』を観ての帰り、1961年、ハノイのグエン・ビエウ18Bにある集団住宅の階段を興に駆られて妻を腕に抱え上げて昇っている彼の姿であったかもしれない。軍隊指揮官の士官のこのロマンチックな行動は、中央統一委員会の指導者であり、チュエンさんの年配の隣人であったハイ・ドック(長男のドック)さんに目撃されてしまった。チュエンさんは恥ずかしくて赤面したが、ハイ・ドックさんは逆に激励したー「OK、OK。そのまま続けなさい、指揮官同志!」 あるいは、チュエンさんはこの話を想いだしていたのではないだろうか?-看護士の小さなアインさん(ドン・ティ・アインさん、のちのホーチミン市人民裁判所の裁判長であり、ホーチミン市法律家協会会長)は彼が指揮官への配給基準のヌックマムを幹部付きの兵士たちのためにとっておいて食べさせていたことを覚えているだろうか。かわいそうに、兵士たちはヌックマムを欲しがっていたが、小さなアインはまじめ一本で、ボスが自分が十分に食べないで、兵士のためにとっておくことを恐れていたのだ…。そして、彼は思い出していたのであろうかー1962年に彼が妻と別れたころグエンズー通り一帯に乳の花の香りが満ちていたことを。グエンズー通りには、近くB地区(南部)に行く人々が客を迎えるさいの(秘密保持のための)家を機関が用意していたが、彼はそこで妻の手を握って、再会の日を約束した。会うのはどこでも構わない、1950年に彼らが最初に会ったサイゴン周辺の場所でもいい。あるいはハノイでもいいーハノイは彼が最初にあたたかい家族生活を彼女とともにした場所であった。しかし、それはあまりにも短い期間であった。乳の花の匂いと若い妻の手の温かさが、20年間続いた戦争生活の最後の6年間、彼にずっとまとわりついていた。グエン・テー・チュエン大佐がサイゴン・ザディン北部の前線の司令部地域で帰らぬ人となったとき、彼は40歳を迎えていた。その年、私の末の妹は机の高さよりほんの少しだけ高くなったばかりであった。彼女は、大きく拡大された父の肖像写真の1枚を見て驚いた様子であった。写真の前には強い香りを放つ線香の椀が置かれていた。そして、彼女は、父が帰還し、彼女が想い描いていたように彼女を腕の中に抱き上げることはもはやないことを知らされたとき、だれかに彼女のものに違いない何かを取り上げられたばかりであるかのごとく、彼女はむせび泣いた。しかし、少し経つともう彼女は集団住宅の庭で小さな友人の群れとともに走り回っていた。かわいそうな妹よ。彼女は父についていかなる思い出もないのだ。父が戦場に向かったとき、彼女はわずか生まれて10カ月だったのだから…。
(翻訳・鈴木勝比古)□

ホイアンの旧市街でのベトナムの歌舞の公演を観賞

ホイアンの郊外の水田の中に残る日本人・谷弥次郎兵衛(一六四〇年没)の墓を訪問
訪問地の一つ、ホイアンに中華会館があり、そこに日本占領時に「抗日分子」として憲兵隊に捕らえられ斬首刑にされた在越華人青年13人の遺影と記録が残されていました。その中に23歳の作曲家、ピアニスト、ギタリストの羅允正さんの写真がありました。
彼の作品は憲兵隊に押収され、ほとんど残っていないということでしたが、鈴木さんが「青年と春」という曲のコピーをお持ちでした。私は帰国したら演奏してみようと思い、その楽譜を見せていただきました。
帰国後、習いたてのフルートで演奏してみましたが、どんな思いが詰まっているのか、どうしても歌詞の意味を知りたくなりました。
ベトナムの友人=ホアン・ティン・バオにメールすると、「LA HOIは私の親戚だ」と返ってきました。ビックリ。しばし思考停止するほどでした。
彼によると、米・ミネソタで音楽家兼画家として暮らしているお姉さん、その夫の祖父がLA HOIの兄弟だというのです。また、「この歌は有名で、誰でも知っている」とバオが自分で歌って録音し、送ってきてくれました。
彼はどんな思いでこの歌を歌ったのでしょうか。この歌の背後にある残虐な歴史、青年の無念と怒り…… あれこれが私の中で複雑に絡まりました。
「この歌の存在とその意味を伝えるのは自分の責任ではないか」とも感じ、バオにお願いして歌詞を英語にしてもらいました。それを妻が日本語で歌えるようにしました。
その年、ある寺のお彼岸でベトナムの歴史とともに「青年と春」を妻と二人で紹介させてもらい、ベトナムの旅で背負った荷を少しだけ下ろすことができたような気がしました。
2006年9月 鈴木勝比古
ベトナム中部にかつて交易都市として栄えた町ホイアンがあります。現在はダナンが海港の中心となっていますが、古代から近代にかけて海上交易の中心でした。十七世紀から十八世紀にかけては日本人町、中国人町ができ、今も木造家屋が残り異国情緒豊かな町並みです。ホイアンに日本とベトナム、東アジアの交流の歴史を探りました。(ハノイ∥鈴木勝比古)
昭和女子大学とハノイ国家大学が地元クアンナム省、ホイアン市と協力して発掘作業を進めていました。旧市街の通称、日本橋手前の通りなど四カ所で市と民家の同意の下に数㍍四方の穴を掘ってかつての日本人町、中国人町の遺物をさがす作業です。
三十五度を超す炎天下で菊池誠一助教授と昭和女子大修士二年生の小野田恵さん、同修士一年生の吉田泰子さん、上智大修士一年生の高橋怜奈さんが汗だくで堆積土の中から日本製、中国製の陶器の破片を探し出していました。「古伊万里焼きの破片が沢山見つかりました。十七世紀の日本人町がこの地域にあったことが推測できます」|グエン・ティ・ミンカイ通りの民家の庭の発掘現場で菊池さんが語りました。
ハノイ国家大学のハン・バン・カン助教授や日本の東京大学への留学経験があるグエン・バン・キム助教授らが日本製、中国製、ベトナム製の陶器をていねいに選り分けていました。キム助教授は「発掘作業はホイアンの町をつくってきたベトナム人、日本人、中国人の交流の歴史をひも解く重要な意義があります」と語りました。
十七世紀には伊勢の商人、角屋七郎兵衛や長崎の商人、荒木宗太郎がホイアンで活躍しました。荒木宗太郎はこの地を支配していたクアンナム・グエン朝の王女を妻に迎えて、ともに日本に帰国して日本で亡くなりました。二人の持ち帰った品々は今も長崎の博物館に保存され、二人の墓も長崎にあります。
ホイアン市人民委員会のレー・バン・ザン委員長(市長)はこの故事を引いて「ホイアン市と長崎市の姉妹都市提携をぜひ実現したい」と語りました。
江戸幕府の鎖国政策により、最盛時千人を超えた日本人の数はしだいに少なくなり、やがて日本人町は、数を増してきた中国人の町へと代わりました。ホイアンで亡くなった日本人、谷弥次郎兵衛(一六四〇年没)の墓が今も水田の中に残っています。
日本橋もかつての日本人がつくった橋から中国人の橋へと代わっています。屋根付きの木造の太鼓橋で、橋の両端に犬とサルが鎮座するこの橋は観光客の人気の的です。京都の町屋に似た奥行きのある木造家屋も中国人が建設したものです。
「十七世には日本人、中国人、ベトナム人がホイアンを舞台に平和な共同社会を形成していました。こうした前史を明らかにすることが、今後の東アジア共同体づくりの刺激になればいいですね」菊池助教授が語りました。
【ハノイ∥鈴木勝比古】ホイアンは日本人町がなくなってからは中国人の町として栄えました。今も残る旧市街の町並みは中国人が建てた家々です。中華会館、福建会館など中国系の公館も沢山あります。ほとんどの中国系住民(華人)がベトナム人と混血していますが、広東省や福建省出身の華人としての意識が濃厚です。