「わかりました」が聞いて呆れる。
元恋人の訃報を耳にした男は、苦々しげな表情を浮かべて舌打ちをした。だからさっさと実家に帰れとあれほど繰り返したというのに、あの女はどこまでも自分の出世の邪魔をする。
「大尉……」
「何だ。さっさと下がれ」
まだいたのか、と雄弁に語る冷たい目を最近配属されたばかりの部下に向けると、はっ、と敬礼してあたふたと部屋を後にした。足音が遠ざかるのを無意識に確認しながら、黒い革張りの椅子を小さく揺らすと、キィ、と椅子が啼く。毎日聞いているはずの音を何故か懐かしく感じながら、彼はゆっくりと目を閉じた。最近夜もあまり寝ていない。そのために疲れて、感傷的になっているのだろう。あんな傲岸不遜な元ヒラ軍医が流れ弾に当たったくらいで、涙など、出るはずがないのだ。そんな甘い優しい関係ではなかった。お互い廊下ですれ違えば睨み合い、口を開けば憎まれ口を叩きあった。敬うという感情を母親の胎内に置き忘れたとしか思えないほどの無礼な彼女は、順調に出世していく自分を鼻で笑って言っていた。
「Hi,Captain.お気の毒様」
「……そんなに出世したいものかね」
軍の健康診断のときだった。カルテにちらりと目を落として、注射器片手の女は唐突にそう言った。意図が分からなかったから自分は黙ったまま腕を差し出していた。
「すっかり有名人らしいね。お気の毒様」
ぺらぺらと喋りながら手を動かし、確実に腕から血を採取していた。アルコールが皮膚の体温を奪う。
「……お前もな」
口を開くと、女はおや、といいたげに眉を跳ね上げた。
「何だ、喋るのか」
「当たり前だ」
さっきからずっとだんまりだっただろう、と言いながら、てきぱきと手を動かし続ける。
「私が有名だって?ただのヒラ軍医が?」
「華国服の上から白衣着てりゃ有名にもなる。制服を着ないのか」
自覚がないのか、と呆れた目で見るが、堪えた様子もなくにやりと笑って見せた。
「そんなだっさいの、誰が着るか」
ほれ次がつかえてる、と肩を叩かれ、立ち上がる。ドアの前で振り返ると、カルテになにやら書き込んでいた彼女が不意にこちらを見た。
「何だい?」
「何も」
そして自分は診察所を出た。
次に会ったのは廊下だった。
「こんなとこで油売ってていいのかい?」
「仕事をこなせないほど無能ではない」
あっそ、と呆れたように彼女は横目で自分を見て、薄い珈琲を口に運ぶ。自分も同じようにしながら、無意識に傍らの彼女を観察した。顔つきや目の色からして、王国の人間ではない。それなのにどうしてこんな戦場にいるのだろう。彼女には関係のない戦いのはずなのに。自分の視線に気付いたのか、彼女はこちらに目をやった。
「何だい?」
「何も」
答えて、目を逸らす。彼女はじっとこちらに目をやったまま、唐突に、薄く笑んだ。
「趣味が悪いね、お互い」
俗に言う恋人同士になったのは、それからだ。ある同僚は驚き、ある同僚は悔しがり、ある同僚は奇異の目で自分を見た。しかし皆、最終的には納得した。変わり者同士、ということだろう。そう言って頷きあう同僚たちの好奇の視線の中、糖度ゼロの関係は続いた。
そして、始まりと同様、唐突に終わった。
「違うな」
彼女の言葉が引き金だった。自分はただ頷くだけだった。それで、終わりだ。
実際違和感はあった。言うまでもなく、別れに涙は不要だった。書類をシュレッダーにかけたかのように、その瞬間までの彼女との関係はなかったことになった。そういうと語弊があるか。振り出しに戻った、というべきだろう。実際感情が薄れたわけではなかった。会ってたったの2度目に、並んで珈琲を飲んだときの感情を、それ以降ずっとお互い持ち続けていた。
稀に、一緒に珈琲を飲む機会があった。お互い距離を保ちながら、決定的な言動は避け、物足りなさを味わいながら別れた。一見険悪な雰囲気を楽しんでいるところもあった。
それだというのに。
「何の断りもなく……」
思わず舌打ち。2度目だ。2度もあんな女のために舌打ちをしてしまった自分を悔やむ。今頃彼女は自分の背後でにやにや笑っているのではないだろうか。負けていられない。
溜息ひとつ。彼女のためにくれてやる時間はこんなものでいいだろう。仕事をしよう。出世して墓の前で笑ってやるのだ。
そしてペンを手に取る。
Fin.