そこにいてくれるだけで

 


 

ある日、Weekly麻雀TODAYの最新号を読んでいた健夜はある記事に目が止まった。

その記事の扱いはとても小さく、特に気にする事もなく素通りしてしまう人も多いだろう。

ただ簡潔に事実を伝えるだけの味気ない文章に、申し訳程度の写真が添えられている。

だが、健夜にとっては衝撃的なニュースだった。

 

『新加入の赤土晴絵の活躍で、エバーグリーン初戦突破』

 

エバーグリーンは福岡にある実業団チームだ。

健夜にはその程度の知識しかない。

そのチームに、あの赤土晴絵がいる―

健夜は持っていたコーヒーカップを落としそうになる。

震える手を押え、カップを置く。

そしてもう一度、その短い記事に目を通した。

記事に書いてあるのは、大まかに3つ。

赤土晴絵は今年チームに加入した新人選手であるという事と、

初めて出場した公式戦で活躍をし、チームを勝利に導いた事、

そして今後チームの中心選手となって活躍するであろう、という論評だけだった。

 

雑誌を置き、意味もなく部屋の中をウロウロと歩く健夜。

2度、3度と深呼吸をして気持を落ち着かせる。

そして携帯電話を手に取り、電話をかけた。

「もしもし〜?」

旧友であり、プロ仲間でもある瑞原はやりの間延びした声が聞こえる。

その声を聞くや否や、健夜は堰を切ったように話し始める。

「もしもし?はやりちゃん?今大丈夫?朝からごめんね」

「はや?どうしたの〜?」

「ねぇ、今週の麻雀TODAY読んだ?」

「まだ読んでないけど?」

健夜は雑誌を手に取り、記事を見ながらはやりに言う。

「赤土さん覚えてる?」

「赤土さん?えーっと…阿知賀の」

「そう。その赤土さんが、実業団の試合に出てるよ」

電話の向こうではやりの声が若干弾む。

「え、本当に?とうとう復帰?」

「うん、そうみたい」

「へ〜、何年ぶりだろう」

「早く打ちたいな…」

「そうだね〜☆」

「うん…」

「………」

「………」

しばしの沈黙。

はやりは話の続きを待つ。

だが、健夜の方からそれ以上の話が始まる気配はなかった。

「…それだけ?」

「え、あ…う、うん…」

そう、用事はただそれだけだった。

用事というよりも、誰かに言いたくていてもたってもいられなくなり、

その相手がたまたま共通の知人であるはやりだった、というだけであった。

はやりがくすりと笑う。

「すこやちゃん、ホント赤土さんの事好きなんだね〜」

「なっ…そ、そんなんじゃないからっ」

「え〜?」

「違うからっ」

 

健夜にとって晴絵は過去の対戦相手であり、それ以上の何物でもなかった。

6年前にインターハイで一度だけ対戦し、破った相手。

個人的な会話などをした事もないし、当然連絡先も知らない。

友達などと呼べるような間柄ではない。

それどころか向こうにとってみれば憎き敵かもしれない。

それでも健夜は、晴絵に対して特別な感情を持っていた。

それは戦友、と呼べるようなものだった。

確かに、結果だけ見れば健夜は晴絵に勝った。

それも圧倒的な差をつけて。

だが、健夜は彼女に一つ、大きな傷を負わされていた。

跳満の振り込み―

それは健夜にとって、記録の残る公式試合では初めての経験だった。

そしてそれは健夜から一時的に自信を失わせるに十分な出来事であり、

初めて麻雀を『怖い』と思った瞬間でもあった。

だがそれと同時に、健夜はその打ち筋に素直に称賛し、感動し、興奮した。

こんなに凄い人が全国にはいるんだ、と素直に思ってしまった。

 

当時、健夜はその強さ故に、麻雀に対して可能性を見出せなくなっていた。

全国の舞台であっても、自分より強い人には出会えなかった。

勝つのが分かっている競技に身を置いて、これ以上何が得られるのだろう。

でもそんな自分に期待してくれる人が、応援してくれる人が、大勢いる。

自分が勝てば、周りの人が笑ってくれる。

それが健夜にとって麻雀を打つ、唯一の理由になっていた。

だけど期待に応え続ける為だけに打つ麻雀は苦しかった。

いつしか麻雀を打っている時の表情も歪んでいった。

「健夜はいつも泣きそうな顔して打ってるよね」

それは誰に言われた言葉だっただろう。

自分はそんな顔をして打っているのだろうか。

確かに画面の中の少女は泣きそうな顔をしていた。

それは本当に泣きたかったのかもしれない。

もう息苦しさ中で麻雀を打つのは嫌だった。

でもやめる事はきっと周囲が許さない。

だから打ち続けるしかないのだ。

そんな閉塞感の中で、健夜は勝ち続けていった。

 

周囲の人間は、健夜はプロに行くのだろうと、勝手に決めつけていた。

そして、そう期待されている事を健夜自身、痛いほど知っていた。

でもそれは健夜にとって身震いするほど恐ろしい事だった。

一度プロになってしまったら、今以上の期待を背負う事になるだろう。

そして、今以上の苦しみの中で麻雀を打ち続ける事になる。

まるで檻のない牢獄のように思えた。

だから、高校を卒業するタイミングこそが唯一の、そして最後の離脱のチャンスだった。

最後のインターハイで麻雀を打つ意義を見つけられなければ、もうやめよう。

この麻雀という競技は、きっと自分に何も与えない。

そう考えていた。

 

だがその考えは間違いだった。驕りだった。

それを晴絵が教えてくれた。

あんなに凄い人がまだいる。

それは健夜にとって、希望だった。

牌譜を見ながら、赤土晴絵という人について想いを馳せた。

どういう人なのか、どういう理屈であの打ち筋を導き出したのか、

どういう想いを背負って麻雀を打っているのか―

2つも年下のその少女の事を空想していると、

麻雀が楽しかった頃の気持ちが戻ってくるようだった。

あの子とまた打ちたい。

それは健夜が久し振りに抱いた、純粋な願いだった。

 

やがて季節は秋になった。

そしてある日の記者会見で健夜は宣言した。

「プロになって、もっと広い世界で麻雀が打ちたいです」

それは、日本中の誰もがそうなるであろうと思い込んでいた、

だけど健夜にとっては本来あり得なかったはずの未来だった。

それを選択した理由は、ただ一つ。

もう一度晴絵とどこかの卓で会う為に、

彼女がいずれ来るであろうプロの世界で、彼女を待つ。

そんな希望を胸に、あれだけ苦しかった道を、健夜はもう一度歩き始めた。

 

 

 

だがそれ以降、健夜が晴絵の名前を聞く事はなかった。

秋季大会、春季大会、インターハイ。

どの試合にも彼女は出てこなかった。

新聞の隅から隅まで読み尽くしたが、晴絵の名前はなかった。

もしかしたらどこかの学校へ転校しているのかもしれない。

そう思って、全国の強豪校を調べた。だが名前はどこにもなかった。

そもそもあれだけの選手が転校などすれば嫌でも噂は聞こえてくるだろう。

麻雀の世界にいて、あれだけの選手の話が聞こえてこないなどあり得ない。

だから、きっともう、彼女は麻雀を―。

その可能性を胸の中に押し込んで、健夜は名前を探し続けた。

それを2年間続け、一度もその名前を見つける事が出来ないまま、

晴絵が高校を卒業した年の春に、健夜はようやく諦めた。

彼女は麻雀をやめてしまったのだ。

そんな事実を受け入れるのに、2年もかかってしまった。

 

やっと見つけた希望が健夜の手の平から逃げていった。

 

 

電話口のはやりが言う。

「でもさ、すこやちゃん?」

「ん?」

「向こうはすこやちゃんの事、覚えてないかもよ?」

「うっ…」

「片想いだもんね〜☆」

そう、その可能性もある。

それならまだいい。

恨まれている可能性すらあるのだ。

むしろ忘れられているよりも可能性としては高い。

それと同時に、はやりに言われて気が付いた。

この気持ちは片想いなのだ。

晴絵が自分の事をどう思っているか。

それを知るのは、とても怖かった。

同じように再会を待ち焦がれていてくれるとは限らない。

でも、それでも、どう思われていようとも、

これだけははっきりと言えた。

「でも…また打ちたいな」

「うん、そうだね」

 

もう二度と会えないと思っていた。

悲しい事もたくさんあった。

それでも前を向いて歩いてきた。

これはそのご褒美だろうか。

あの時逃げた希望がひらひらと漂い、

もう一度手の中に帰ってきてくれた。

あの時選んだ道は、間違いではなかった。

 

あの夏の続きを、どこかの卓で―

 

それはいつの日になるかは分からない。

10年後かもしれないし、永遠に来ないかもしれない。

だけど、あの赤土晴絵が麻雀に戻ってきてくれた。

それだけで、健夜にとっては暗闇の中の太陽に等しい輝きを放つ。

そう、彼女がそこにいてくれるだけで、これ以上なく嬉しいのだ。

 


 

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