素直になれない
菫は疲れていた。
肉体的な疲労もさることながら、精神的な疲労が酷かった。
長い廊下が、いつもよりずっと長く感じた。
強豪校の部長をやっていると、色々ある。
学校や教師から、友人や見知らぬ生徒から、勝手な期待を押し付けられる。
相手の悪気のない一言に嫌な思いをする事もある。
部員同士のトラブルの収拾に奔走する事もある。
いつも気丈に振る舞い、心を強く持って行動している菫でも、
さすがに心が弱ってしまう日くらいあるのだ。
そして今日は、色々な事が重なりすぎた。
普段ではありえないようなトラブルが舞い込み、
いつもなら笑って済ませられる些細な事も癇に障り、
それを表に出さないよう自分を無理矢理抑え、
無責任な雑誌の論評に心を痛め、
気が付けば心身共にくたくたになっていた。
何もかもが空回りして上手くいかず、
自分のやる事に自信が持てなくなり、
自分以外の周りが全て敵に見え、
抱えているものを全て投げ出したくなる。
さすがの菫にも、そんな精神状態の日はあるのだ。
深い溜息をつきながら、菫は部室のドアを開ける。
西日が差し込む部室で、照が一人で読書をしていた。
他の部員の姿はない。
既に下校時間は過ぎていた。
おそらく、皆もう帰ったのだろう。
「まだ残ってたのか」
「…ん。お疲れ様」
いつもならこういう時、本から顔も上げない照だが、
なぜか今日は顔を上げ、菫に労いの言葉をかけた。
それはきっとただの気まぐれで、深い意味などないだろう。
それでも照の顔を見た瞬間、菫は心の弱った部分がほどけていくのを感じた。
もしかして、待っていてくれたのかもしれない、と菫は一瞬考える。
だが、その考えをすぐに消去する。
そんな都合の良い事などあるはずがない。
都合の良い想像は、後で失望に変わるだけだ。
それに照はそんな可愛げのある奴じゃない。
菫は、そう自分に言い聞かせた。
荷物を置き、菫は照の隣、ソファの空いた場所に座る。
そして照に気付かれないように、ジッと照の横顔を見る。
長い睫毛、サラサラな髪、綺麗な肌、時折動く視線、ページをめくる指先。
見ていて飽きなかった。いくらでも見ていられた。ずっと見ていたかった。
ぼんやりとそんな事を考えていると、照が不意に菫の方を見た。
一瞬で現実に引き戻される菫。
そして照が口を開く。
「見られてると気になるんだけど」
「え……あ、あぁ…す、すまん…」
菫は慌てて立ち上がり、戸棚へ向かう。
そして取り繕うように、照に聞く。
「な、何か飲むか?」
「いらない」
照は簡潔な答えと共に、再び本の世界へ戻っていった。
菫は特に飲みたくもないインスタントコーヒーを入れながら、思う。
(照に触れたい…)
照の隣に寄り添い、頬を寄せ、体温を感じ、いつものように触れられたかった。
ただそれだけで、世界は全てが上手く回るような気がした。
だがいきなりそんな事をしたら、照に変な目で見られるに決まっている。
それでも、その衝動に抗うのは難しかった。
(どうしても、今、触れたい―)
要は、甘えたい気分なのだ。
それに気付き、菫は心の中で自分に毒づく。
(何を馬鹿な事を…)
考えを振り払うように、頭を振る。
(こんな可愛げのない女が『甘えたい』なんて、滑稽もいい所だろ…)
だが、それでもその欲求は消せそうになかった。
菫はコーヒーカップを持って、再びソファに座る。
今度は、さっきより少しだけ照の近くに座った。
照との距離、30センチ。
この30センチを縮めたい。
1分後―
菫は自分のいくじのなさに絶望していた。
(手すら繋げそうにない―)
まるで臆病な中学生男子のように、何も出来ない自分が信じられなかった。
思えば、いつも肌が触れ合うようなスキンシップは照の方からだった。
こんなに近くにいるのに、甘える事すらも出来ない。何故だか、とても心細くなる。
他人に甘えた事などない菫にとって、何をどうすれば甘えられるのか、想像もつかなかった。
もっと素直になれる性格であれば、こんな風に悩む事などなかっただろう。
例えば淡のように、傍若無人に振る舞う事が出来れば、何も問題はなかった。
だがあんな可愛い女になれるなどこれっぽっちも思ってもいない菫には、それはハードルが高すぎた。
好きな人に触れて、触れられたいだけなのに、それが出来ないもどかしさ。
今日に限っては、いつもされているように滅茶苦茶にされても良かった。
だがそのきっかけすら作れなかった。
そして菫は、左肩に重みを感じる。
照が頭を乗せてきたのだ。
突然の行動に、息を詰まらせる菫。
「……っ」
「………」
「な、なにを……急に…っ」
「なんか、菫がくっつきたがってるみたいだったから」
「……っ、そ、そんな事は…」
「違った?」
「ち………ちが…、くも、ない…」
照は下から菫を見上げ、尋ねる。
「ねぇ、菫」
「な、なんだ」
「今日、何かあった?」
「な、何かって…」
「なんだか、ずっと疲れてる顔してる」
「照…」
「甘い物を食べれば、元気になる」
そう言って、お菓子を差し出してくる照。
そして、菫の手を握る。
「私がいれば、元気になる?」
そのセリフに、思わず何かがこみ上げてくる菫。
照に抱きつく。
「よしよし」
少しだけ子供扱いするように、菫の頭を撫でる照。
「いつも頑張ってる菫にご褒美」
「……」
「もうちょっと頼ってくれてもいいのに」
「…お前が頼りになるとでも?」
照の言葉が嬉しいのに、思わず憎まれ口を叩いてしまう。
だが、そんな本心と裏腹な菫の言葉も、照は簡単に見透かす。
「もっとわがまま言ってもいいよ、って事」
「…………が…とう」
「ん?何?聞こえなかった」
「………ありがとう」
「…私の方こそ、いつもありがとう」
少しだけ泣いた後、菫はいつもの菫に戻っていた。
だけど、手は繋いだままだ。
「ねぇ、菫」
「なんだ?」
「今日、一緒に寝てあげようか?」
照からの提案。
だが、それは嬉しさの反面、とても嫌な予感がした。
菫は釘を差す。
「……変な事するなよ?」
「しないよ。変な事なんてした事ないでしょ」
「どの口が…」
「この口」
そう言って、照は菫にキスをした。