フランスー香港

これは,中年おじさん2名,おじさんになりかかったことを忘れようとする中年移行期1名の,出張に名を借りたヨーロッパ,アジア放浪旅行の記録である.面倒くさがり屋の中年のことであるから,ビデオカメラなどは携帯しないし,カメラも,隊長の持つ「写るんです」一個のみという信じられない軽装備であり,旅の記録という意味ではほとんど何の成果も得られなかった.およそ昔から,旅は人間を成長させると言われてきた.芭蕉も己を磨くために吟行を行ったし,孫悟空も,デビット・コッパーフィールドも水戸黄門も,助さん角さんも,旅を経て成長したのである.我々も,おじさんとはいえ成長しなくてはならない.そのためには,旅の途中の様々な出来事を記憶にとどめ,折に触れて呼び起こし,時には恥ずかしさのあまり飛び跳ね,時にはばかばかしさのあまりやけ酒を飲むなどの行為を行うほうが,せっかく旅行した甲斐があったというものである.残念ながら,前述のごとく,こうした殊勝な心がけを持つものは私以外にいなかったため,やむなく渋る筆をすすめ,ここにことの顛末を記録する次第である.

 

欧州編

 いくつになっても外国へ行くということは,若干の面倒くささと不安が伴うものの心が浮き立つもので,それが今までに行ったことのない国であればなおさらである.バイトを変更し,外来を休診にし,海外旅行者保険もかけたおじさんたちにとっては,酒を飲んであたりをうろつきさえすればどうにかなる夢のような日々の始まりであるはずであった.しかし,出発ゲートの前には飛行機はなかった.土曜日の昼下がり,成田から一万キロ以上飛行することになったのに,その搭乗30分前になってもゲート前の空間にはむなしいほどの明るさが広がっているのみだった.すでにビール,ウイスキーを確実に摂取しつつあるおじさん2名は,早くも自堕落な態度となり,飛行機がどうなろうとどうでもよいという態度を明確にしつつ,ただアルコールの摂取につとめていた.(隊長は,帰国予定直後に,受ける予定のない人間にはサルでも通ると呼ばれている内科専門医の試験を受けねばならず,それに間に合うためには日本航空の直行便で往復する必要があったため,既に前日パリへ出発していた.)もしも,あのまま飛行機が到着しなかったら,成田空港で2名は泥酔状態となりどうなったかわからないところだったが,やはり当然というか,キャセイ航空香港行き,ただしタイペイ寄り道便は目の前についてしまった.どこから飛んできたのかは知らないが,この会社はとにかくできるだけたくさんの所に寄り道していくことを追求する,まるで小学生の帰り道のような運営を行っているようなのだ.どうせなら,熊本にもよっていけばいいのに,などと考えつつ乗り込む.機内アナウンスは,日本語,広東語,英語,などで行われた.まずい飯を食ううちにタイペイ到着.タイペイで客が降りた後,荷物の紛失,置き忘れ(爆弾テロ含む)がないかチェックするため,客室乗務員一同,日本野鳥の会会員となり,片手に計数機を持ち,棚の荷物の数をチェックするために走り回る.ついでながら,スチュワーデスは我が日本の航空会社の方々とは比較にならないほど,みてくれはよろい.しかし,エネルギー保存の法則がここでも働いており,愛想はひどいことがわかりがっかりする.しかし本当は,見てくれが悪くても愛想が良いよりも,愛想が悪くてもみてくれがよい法が,おじさん達にはうれしいのだった.タイペイで約1時間待ち,香港に着いたのは夜9時頃.すでに背中は痛み,目は充血し,地球を五十六周したかの様な気分になり,よろけつつ乗り継ぎに向かう.これからさらに九千六百キロ向こうに向かわねばならないことはとりあえず忘れ,ある種のオクスリ(合法的)と相変わらずのアルコールのお助けを借りてしばしの眠りにつく.この間,再び圧倒的にまずい飯を2回食わされ,トイレの前の長い列に並び,食っては出しを繰り返し,オリの中のブロイラーの気分を味わう.寝台飛行機もしくは,お座敷飛行機かなんかがあればいいのにと思う.さて,シャルル・ドゴール空港につつがなく到着し,我々はまだ真っ暗な空港のバス停に立ち尽くしたのだった.なぜなら,これから,贅沢にも成田から直行便ですでに前夜到着し,のうのうとホテルで惰眠をむさぼっているはずの木村隊長を,ホテルまでお迎えにあがらねばならなかったからである.しかし,隊長のホテルの名前が書いてあるバス停に立ち尽くすこと十分,何台もバスが通り過るのに,目的のバスがこない.じわじわと夜が明けつつある人気のないバス停に,みじめで貧相な東洋人が二人立ち尽くすうちに,M先生が持ち前の短気を爆発させ,通りかかったバスの運転手に,自らのフランス語ができないというハンデにひるむでもなく,ひとことするどく隊長の泊まっているはずのホテルの名を質問された.「XXホテル?」.運転手のうなづきを得て,M先生の後ろで傍観していた私は,すばやくバスに飛び乗ったのだった.ホテルはシャトルバスで行ってもわかりにくいところにあり,前夜の隊長のご無事を心配しつつフロントで訪ねると,幸いにも無事チェックインされたご様子.さっそく隊長の部屋にフロントからお電話をかけた.電話にでられた隊長は,ここがフランスであることをお忘れになったのか,「ハロー」と眠たげにおこたえになったが,よく考えると,隊長もフランス語はおしゃべりになれなかったのである.隊長の身支度を待つこと三十分,ようやく我が部隊三名は,その勇姿をそろえることができたのだった.

さて,空港からバスでモンパルナス駅にたどり着き,午後のTGVの切符を買うことになったが,すでに日本で旅行雑誌で知識を得ていた私は,旅の空で慣れない異国語を操る同胞の苦労を少しでも軽減させようとの慈愛の情で,自動販売機を使用することをおすすめした.かの名著「地球の歩き方」によると,TGVの切符は自動販売機で簡単に買えるそうだし,その案内は英語でも表示されるとの情報を得ていたのだった.駅に入ると,なんと雑誌でみたとおりの切符販売機が整然と並んでいるではないか.思わず抱きしめたくなり近づいて行った私だったが,他の二人の隊員は,のんびり時刻表を見上げているばかり.本当に旅慣れない人たちは困ったものである.二人がぼんやりしている間に切符をかってあげようと機械にふれたのだったがこの機械,ひどいことにうまく動かない.いわゆるタッチ式のキーが画面にでて,行き先を入力するのだが,Lを押してもKが入力される,KをおすとBがでるという風でおよそ暗号入力用としか考えられない.そこでまた,M先生が短気を爆発させ,緑の窓口風の切符売り場のカウンターに並ぶことになった.いざ買う段になって,誰もフランス語が話せない,聞き取れないことに気づき,急遽隊長が交渉に当たることが多数決で決定された.隊長は,突然めぐってきた重責におびえながらも,地図を指し示しつつ「とろあびって.らぼーる」と叫びました.その発音が良かったのか,地図を見せて,指を三本出したからわかったのか定かではないが,見事にこちらのねらいどうり目的地までの切符の入手に成功した.これ以後,隊長のフランス語は通じる(かもしれない)との定評をとり,他の隊員は全くフランス語を勉強しようとすらしなくなっていったのだった.

この時点でまだ朝十時ぐらいだっただろうか.朝御飯を食べることになり,駅の近くのカフェにぞろぞろ入った.日曜の朝だというのに,相変わらず隊長以外の二人はカフェオーレでも飲めばいいのにビールを飲み始めるしまつ.アルコール依存体質には困ったものである.腹もふくれたが,TGVの時間までまだ数時間ある.そこで,駅の近くを観光しようということになり,モンパルナス墓地へ赴いた.日曜の朝のことで人気は少なく,私の引きずるスーツケースのごろごろという音が死人も目覚めよとばかり墓地に響きわたった.たくさん並ぶお墓を拝見しても,すでに酒気を帯びた不謹慎な東洋人には格別な感慨が浮かぶはずもなく,サルトルの墓をみてもなんと言うこともない.M先生のご意見をうかがうと,「サルトルは最後の実存主義者だ」とのお言葉をいただいたが,M先生の知識もただそれだけだった.再び駅に帰ってきた隊員たちはモンパルナス駅のベンチにぼんやり座り込むのだった.なぜなら,出発ホームの番号が掲示板に直前まででないからである.我々の乗る列車が定刻にでることはわかっても,何番ホームからでるのかは直前にならないとわからない.日本であれば,出発ホームに早めに行って,いかくんとビールなどを摂取することができるのだが,出発ホームが未定なのでそれもできない.しかたなくベンチに座り,ジュースを飲んでいた.トイレに行きたくなったので,トイレを捜すと近くに有料トイレがあることを隊長が報告した.いちはやく,トイレのおばちゃんとフランス語を交わしたらしい.さすが隊長である.私も,隊長に負けじとトイレへ突入した.このころまでには,「めるし」くらいは言えるようになっていましたので,トイレのおばちゃんに「めるし」といったが,最初のフランス語会話の相手が有料トイレのおばちゃんであったことは少し残念である.駅で待つ間に,日本人の若い女性の団体がスーツケースをごろごろ押してやってきた.これを発見したM先生は,それまでの退屈そうな態度を豹変させ,「日本人だ!若い娘だ!隊長!一緒にお茶でもどうかと誘いなさい!」などとおはしゃぎになられた.まことに浅ましい根性と申せましょう.ちなみに,この方は,日本でも旅先で若い女性をみるとこのような振る舞いをなさることが多く,場所が海外でもその行動が全く変わらない点はあっぱれといえるのではないだろうか.

この時期は,ちょうどフランスが核実験を再開し,パリで爆弾テロが多発していたので,機関銃をかついだ兵士が駅構内を見回っており,置き去りにされた不審な荷物を調べたりしており,その様子などをぼんやりと見ている内にようやく時間がきて,列車の発車するホーム番号がわかり,そのホームへ,うちそろってぞろぞろあるいていると,私の旧友T嬢にばったり出会った.ローマからやはり同じ学会に向かうところだった.以前,フロリダの学会でも,ホテルで園木氏と朝食に向かう途中でばったりあったことがあり,この人とはなぜかバッタリあうことが多い.しかも会うたびに男を連れており,この男が会うたびに違っている.今回も,もちろん見たことのない男をつれておりました.

TGVは定刻発車で,静かで快適だったが,車内は新幹線より少し狭いようだった.途中,ナント,ルマンなどをすぎ二時間ほどの乗車だったが,見渡す限りの平野が続く.この間,隊長は早くも自分の立場を自覚し,もはや他の二人をあてにできないことがはっきりしたためか,旅行雑誌のフランス語日常会話に下線を引きつつ勉強し始めたのだった.

La Bouleの駅に着いたのは夕方だった.駅舎は大変小さく,水前寺駅よりやや小さいくらいだった.雨が降り出しており,タクシーは少ないため,タクシーのりばには長い列ができていた.ここで恒例の,M先生の短気が爆発し,我々はそぼ降る雨の中,ぞろぞろとホテルがあると思われる方角に歩き出したのだった.三十分以上歩き,やっとホテルが集まっている地区にたどり着いたのですが,ホテルの場所がわからない.典型的なひなびた避暑地のようで,案内板も完備されていない.しかし,どこにも親切な人はいるものである.ある店のショーウインドーの前に立ち尽くすうらびれた東洋人をみて哀れに思ったか,一人の年輩のご婦人が声をかけてくれた.「どうしましたか?」「ほてるどこ.わからないある.どういけばいいあるか」と英語で答えた.せっかくの親切なご婦人だったが,婦人の英語が片言で我々にはよくわからない.「えーっと,まっすぐいって,みぎいって,ひだいりって,みぎいかない」という風に聞こえる.ここでまた,M先生の短気が爆発「こりゃダメじゃ,めるしー」と叫ばれた後,我々は再び迷える東洋人と化したのだった.何度も目的のホテルの前を行ったりきたりした後に,やっと百万べんもその前を通り過ぎた建物が目的のホテルであることに気づき,濡れネズミとなってフロントにかけ込んだ.4人でいっぱいの小さなエレベーターで各々の部屋に落ちついたのがおそらく6時頃であっただろうか.そこに私の部屋をノックする音がする.あけてみると,M先生が困った顔で,「部屋のドアに鍵を入れてもドアがあかない」とのこと.このホテルはおんぼろで,ドアを引きながら強く鍵を回さないとあかないことを説明申し上た.私と隊長の部屋は海に面し,特に隊長の部屋は冷蔵庫完備だったが,M先生の部屋は海に面していないぼろ部屋で,もちろん冷蔵庫などなく,ドアに欠陥がある.やはりフロントの女の子(美人でした)が,すばやく誰が隊長であるかを見分けて部屋を割り振ったに違いないとの結論となった.

雨もやみ,また歩いて学会場へ.ここでネームバッジを受け取り懇親会場へ参上した.マイケル・ポッター氏の講演を眠気を抑えつつ拝聴し,晩餐会へ.まだ採れたての海のにおいのする大ぶりの生蛎をたくさんいただき,ワインで大変いい気持ちになった.同じテーブルにトロント大学のリンダおばさんがいた.骨髄腫患者の末梢血に,骨髄腫細胞の前駆細胞が山のようにあると一生懸命言っていたが,後日学会場でひどい反論をうけたごようすであった.M先生とお話が弾み,一緒に息子を連れてきていること,息子は空手を習っていることなどを話された.

翌朝,ホテルで朝食.といってもパンとコーヒー,牛乳のみ.ハムやその他のおかずはいっさいなしの朝食でこれはその後2日間続いた.学会場での出来事はここには記さないが,私は少なくともその後2日間は出席し続け,時にはメモを取り,学会出張の面目を保った.一方,隊長とM先生は二日目から行方がしれなかった.後で聞くところによると,ビールを買い出しに行ったのだが,どこが酒屋かわからない.片言のフランス語で「すうぱあまあけっとどこでしゅか」などと聞きながら歩いていたら,日本にいたというクリーニング屋の若者に出会い,日仏友好がとりおこなわれたらしい.やっと見つけたスーパーで酒や果物を買い,その重さにうめきつつ夕方,ホテルに這ってたどり着いたとのこと.私は冷房の効いた学会場で,知識欲を満足させ,隊長の部屋に帰ってそのビールをゆっくりいただいたのだった.まるで,グリム童話のような教訓的なお話ではありませんか.

その後,突然時は過ぎ,パリへ発つ日がやってきた.隊長によると,La Bouleのきれいな海も天草の海といっちょんかわらんとのご意見であったので,長居は無用とばかりにポスターを予定よりも1日早くはぎ取っていた私たちは,前日からTGVの切符を予約し,そのうえ朝早くタクシーを予約していた甲斐があって,今回は全く問題なく列車に乗り込み昼頃再び,モンパルナスの駅に着いたのだった.地下鉄に乗り換えホテルに向かおうとすると,いかにもみすぼらしい身なりをしたおばさんが,タオルを巻いたものを布でくるみ,赤ん坊に見せかけ「ナントカカントカ!」といって我々に迫ってきたが,これも無視し,往路とは違って,大相撲パリ場所の貴の花のポスターの張ってある薄暗い通路を慣れた足どりで通りぬけ,地下鉄に乗りこんだ.切符はやはり自動販売機の使い方がわからず,窓口で買った.地下鉄が地下からでて地上を走るようになると,エッフェル塔やパリのきれいな町並みが見え,本当にわくわくしたことだった.

ホテルは凱旋門近くの4つ星だったが,またこのホテルにたどり着くまでに,M先生の短気が爆発.日本のようにホテルの軒下に大きな看板が掲げてはないので,近くに行ってもどこがホテルかわからない.しかもパリの町は同じ様な大きさの同じ様な建物が同じように並んでいるので,日本のようにホテルが特に目立つと言うことはないのである.M先生がここがホテルだといい張った場所は,入り口に金属探知器がつき,なおかつナントカ役所と表示してあった場所で,私は違うというのにのこのことM先生は入っていき,すごすごと出てこられた.このM先生の行為は,短気と言うより,我々のためにあえて身を犠牲にして正しい道を捜していただいたのだと私は理解したいと思う.

ホテルはこじんまりとした良いホテルだった.やはりエレベーターは4人でいっぱいの小さなもので,男同士身を寄せあってゆっくり動くエレベーターにのるのはあまりいいものではない.どうしてフランスのエレベーターは畳半分くらいの小さなものばかりなのだろう.そういえば,ヘップバーンの,パリを舞台にした映画にも小さなかごのようなエレベーターが出てくるので,昔からの歴史というわけだろうか.

チェックインもそこそこにすぐに凱旋門に行くことになった.凱旋門はホテルから5ー6分歩いたところにある広場の真ん中にあって,門の回りは常に車の渦である.凱旋門に行くには地下道を通り門の下に行き,エレベーターか螺旋階段を上って門の上に上がることになる.当日は核実験の反対運動を警戒してかエレベーターが使えず,ひどく長く暗く狭い階段をヒイヒイ言って上った.凱旋門の上からみた町は大変美しく感動的だった.しかし真下をみると車が門の回りを渦状に走っておりよくも事故が起きないものだと思っていると,やっぱり事故が起きていた.凱旋門の上には,必ず日本人がおり,しかも若い女性が多い.日本の男が残業している間に彼女らは優雅にご旅行されているのだ.

その日の内にルーブル美術館にも参上した.しかし,隊長には,せっかくの人類の貴重な遺産もあまり貴重ではないらしく,ミロのビーナスをみても「ただの半ケツだ」他のギリシャ彫刻をごらんになっても「昔のヒトはみんなホーケイだったごつあるですね」などとくだらない感心をしていらっしゃるばかり.ゆっくりみれば何日もかかるという美術館を数時間で走り抜け,昼御飯を食べに行った.昼は隊長の希望でルーブルの近くにある札幌ラーメンである.完璧に日本風のカウンターに座り,膝に少年ジャンプを開いてずるずると麺をすする音も高らかにラーメンをむさぼる隊長.「フランスにきて一番幸せですたい」とのご感想をもらされた.別のラーメン屋にはパリジェンヌとおぼしき方が,慣れない箸使いで麺を高く持ち上げては,ぎこちなく食べていたが,これはこれでなかなかよろしいようです.

大きな公園にばかでかい塔が建っている.エッフェル塔かなと思ったら,やはりエッフェル塔だった.色は塗り替えたばかりのようで渋い茶色だった.塔は,石でできた建物が並び,セーヌ川がゆったりと流れるパリの町に大変よく調和してそれは美しく思いました.そこで一句「秋色の 街にちりばめる 塔と川」.そのき先生よりは良いできではないでしょうか.私はこのように芸術的に感動していたが,他の2名はぼんやり群がる鳩を眺めたり妙に静かにされていた.カフェでの酒がきれただけだったのかもしれない.

その後,遊覧船でセーヌ川下りをした.フランスの田舎からきた老人会の方々と一緒になったが,みなさん酔っぱらって大声で歌を歌われており,大変楽しそうだった.シテ島を回って一周する間に,ルーブル美術館,ナントカ美術館,カントカ宮殿,ノートルダム寺院などを拝見した.

その後,シャンゼリゼ通りのカフェで御飯を食べたが,あまりうまくない.観光地のメシまずいの法則を確認する.カフェでは英語が通じない.パリのアメリカ人は,パリの日本人と,言葉がしゃべれない意味で同格なのだ,いい気味だと思っていると,カフェに入ってきたアメリカ人はメニューをみると,辞書を取り出し一生懸命考え込んでいる.一方我々には日本語のメニューがでてきて便利なのだが,これはこれで少し情けないような気がする.隊長は,名著「地球の歩き方」にでていたパリ中の若者が行列をつくるおいしいアイスクリーム屋さんに是非行きたいとおっしゃるので,われわれものこのこ歩いてお供申し上げることとなった.ノートルダム寺院のあるシテ島にその店があるとのこと.本によれば,少しわかりにくい場所にあるが,長い行列があるはずだからすぐにわかるとのことである.だが,その地図にある場所には,うらぶれてとても行列などとは縁のなさそうな店があるだけであった.たぶん,パリ中の若者はこの店の味に飽きてしまったか,または核実験反対の運動にではらっていたかのどちらかだったのであろう.それでも隊長は,「あっ!この看板は本にでている写真と同じだ!」などとすっかりご満足のご様子.我々もアイスクリームをいただいたが,期待に反してなかなか美味であった.その後,ノートルダム寺院を見学し帰途についたのだった.

さてパリ最終日の夕飯は,インド料理かタイベトナム料理にしようと色々うろついたあげく,タイ料理を食し,大変おいしくいただいた.アジア系料理どこでもおいしいの法則を確認する.よくあさ凱旋門脇からバスに乗り空港へ向かった.ところが,バスには航空会社と降りるべきターミナルとの関係が明記されておらず,車内放送もない.「不親切だ.外国人に配慮がたらん・」とM先生が久しぶりにご立腹された.空港では我々の乗るキャセイ航空のカウンターにいたフランスおばちゃんが,コンピューター処理に手間取り,このぶんでは切符をもらえるのは数年後かと観念したところ,座席の好みも聞かずやっと切符をよこしやがった.やれうれしやと思っていると,このばばあ,この切符を破り又始めからやり直しだ.これを数回繰り返し,待つこと30分ようやく切符をいただいた.我々よりも数時間早く離陸する直行便で東京に行く隊長とわかれ,出国手続き後,搭乗口に行くと,なんと二つある搭乗口の一つにまたあのくそフランスばばあがいるではないか.これをすばやく発見したM先生は,「あいつは必ずトラブルを起こすから別の搭乗口から乗ろう」とおっしゃり,その通りにしていると,あんのじょう,ばばあの操作していた自動改札機に搭乗券がつまり,そちらにはたちまち長い行列ができ始めた.

 

香港編

香港には,朝9時頃に到着.空港には何やらザーサイの臭いが充満し,空港の外に出るとむっとした湿気の多い南国風の空気を感じた.タクシーに乗り,その名も恥ずかしいパンダホテルを告げると,運転手はホテルの予約表をしげしげと見つめ,頭の上に?をたくさん浮かべ,首もかしげつつ車をスタートさせたのだった.運ちゃんは「このほてるのほう,くるまこむからちがうみちいくよ」といったようでもあり,M先生は早くも「反対方向だ,道が違う」とぶつぶつ言いはじめ,ついにこらえきれず「わたしおもう,みちはんたいじゃないかある!」と英語で叫ばれた.運転手さんは不気味にも沈黙したままである.ラジオからは訳の分からない中国語がけたたましく車内にこだましている.「そうか.こいつは英語が全くわからないんじゃ」とM先生がつぶやく.はやくも我々は後部座席で不気味に黙り込み,これから起こるであろう様々なトラブルを考え,気を滅入らせていた.もしも山の中へ連れ込まれて,身ぐるみはがされた上に殺されそうになったら,M先生は見捨てて私だけは逃げよう,そうだ,M先生は既に家族にも見捨てられているし,奥さんは保険金が入る日を首を長くして待っているというではないか,などと考えている間に,なんと巨大なパンダが笹を食べている絵が壁に書いてある高層ビルに到着した.運ちゃんは「みちこんだからじかんかかった.」と怒ったような顔で言った.多めのチップを渡し,やっとチェックインしたのだった.部屋は27階にあり死ぬほど寒く冷房が効いており,窓から見おろすと,雑然としてごみごみした路地に,このホテルと同じぐらいの高さの細長い高層アパートがひしめき合っている.これらのアパート一つ一つが大変細いので,まるで鉛筆がたくさん建っているような印象を受ける.一世帯はおそらく2DKぐらいか.ベランダなどはなく,窓から棒を突き出してそこに洗濯物をつるしている.フランスとのあまりの差にやや呆然としつつも,すばやくロビーで香港ツアーを申し込んだ.約半日のツアーで3ー4000円くらいだった.ただこのツアーは香港の中心部からしか出発しないのでそこまでいく必要があり,近くの地下鉄の駅からそこへ向かうことになった.香港に着く前に隊長から,「香港の地下鉄は大変ですよ.乗り越したりしたら,ものすごい金額の罰金,汚したりしても払えないくらいの罰金ですけん」などと脅されていたのでややおびえながら駅に入る.この駅(ツエンワン)が実に巨大な駅で周辺の商店街を巻き込んだような巨大な駅ビルを構成しており,夜に帰ってきたときに迷ってしまう羽目になる.切符は,機械に所要料金を入れるとテレフォンカードのようなものがでてきてこれを改札機に通すしくみである.日本の地下鉄のような小さな紙切れではないが,これをなくすとこれまた信じられないような,数千ドルの罰金とのこと.どうもなんでも罰金にしたがる国で,いやな感じである.車内は広東語,英語の順でアナウンスがあり,駅の名前がリズミカルで,チャンツエーモン,チムヤンツイなど響きがおもしろい.子どもが日本の漫画を読んでいたり,セーラームーンのバッグを持っていたり,ゲームボーイをしていたり,やはりアジアに帰ってきた気がする.九龍(カオルン)の中心部で降り,昼御飯を食べることにする.ちょうど,日本で言えば,繁華街のビル裏の,電柱の陰にゲロが残っているような路地に,にぎやかな店が軒を連ねている.その内の一軒の小さな,しかしこぎれいな店に入った.ここはいかにも地元のヒトがいっぱいで,M先生によると,こういう店がうまいに違いないとのことだった.しかし,座るといきなり「らーめん?ぎょうざ?」と日本語で聞かれてがっくり.店には日本語のメニューまである.ラーメンとビールを注文した.中国風の長いプラスチックのはしでラーメンをすする.いわゆるしょうゆ風味で,めんは柔らかめだが腰があって大変おいしく,久しぶりにうまいものを食った感激で疲れも吹っ飛んだ気になる.やはりうまいのは中華料理だとの結論をに二人で達して店をでた.

ツアーの待ち合わせのホテルに行く.この辺のホテルは,我々の辺鄙なホテルと違って,都会的で高そうで,欧米人が多い.そういえば,我々のホテルは欧米人が少なく,その夜わかるのだが,週末は中国本土やその他から中国語を話す人々でいっぱいになり,皆ドアを開け放しで大騒ぎするので,ちょうど温泉宿におばさんたちの団体と泊まり併せたような状況であった.これは,我々のホテルが格安であることと関係するのだろう.ツアーに参加することを示すワッペンを胸に貼って待っていると,美女が登場して,マイクロバスに案内された.どうも香港は,飯はうまいしねえちゃんはきれいだし,フランスとは大違いである.バスにはすでにイスラム教徒らしい二人が乗り込んでいる.私は運転席の後ろの方に座ったが,M先生はガイド状のすぐ後ろに,彼女と向かい合わせに座ってにやにやしている.彼女はおそらく24才くらいでなかなか美形であり,超ミニスカートなどはいており,私としてもすぐそばに座りたかったのだが,M先生のすばやくも破廉恥な行動に後れをとってしまい,その後数時間後悔し続けたのだった.いくつかのホテルを回った後,フランス人カップル,中国人カップル,イスラム教徒風カップル,アメリカ人おばちゃんなどをのせ,バスはビクトリアピークに向かった.ここはまあ金峰山みたいな所だが,ここでM先生はガイド嬢(ジェニーという)のミニスカートが実はキュロットスカートであるという重大な発見をしたのだった.

その後,なぜか寄る必要のないダイヤモンド工場(ここで無理矢理宝石を買わせようととのツアー側の魂胆),などを経由して,水上生活者のいるナントカと言うところに行く.ここにはきらびやかな水上レストランがある反面,いまだに小さな船で生活している人々がいる.これらの船の回りを中国人のおばちゃんの操るエンジン付きの小舟で覗いて回る趣味の悪いツアーだった.その後,香港島の外人居住区に行く.ここには九龍にみられるような高層アパートはなく,誠に広々した土地に悠々と邸宅が立ち並び,その差は歴然としている.この近くに何とかというアーケード街がありそこで買い物をする.アーケード街といっても,子飼商店街をを百倍汚くして,狭くし,暗くしたような場所である.そのうえ,おりからの雷雨で道には水たまりができ歩きにくい.ここで我らがM先生は,奥様からの厳命を遂行するつもりなのだ.つまり,中国製のやせる石鹸を合法的に持ち込めるぎりぎりまで購入しようと言うのである.あろうことか私にまで同数をを購入させようとなさったので,重いものでもあるし,私はその約半数を購入した.石鹸はあちこちの店で微妙に値段が違っていたが,店員が日本語で「やせるせっけんやすいよやすいよ.たったよんひゃくえんよ.にほんでうればせんえんよ.」などど息も尽かせずに迫ってくることから考えて,相当の日本人がここにもやってきているのであろう.石鹸の他はさほどみるべきものはなく,集合場所へ早めに戻った.ガイド嬢がなにを買ったかと聞くので「やせるせっけんかったよ」と答えると,M先生はすかさず「にほんではやせるとひょうばんよ.あなたもつかうといいよ.」とガイド嬢によけいなことをおっしゃった.ガイド嬢は一瞬むっとしたようにみえた.そこに別の売場のおばちゃん店員がやってきて,やせる石鹸を見せろと言う.M先生は例によって「これやせるせっけんよ.にほんではひょうばんよ.やせるかどうかわわからないけど,わたしのおくさんかってこいといったからかったよ.やせるとおもってつかうとやせるかもしれない.」などと懸命に説明したところ,そのおばさんは「ひゃー.これでやせられるのか.わたしゃはじめてみたわい・」といった.日本ではあれだけ有名なのに,香港では誰も知らないとはどういうことか.ちなみに,帰国後医局の補助員さんに石鹸を渡すと,石鹸の入った袋を覗いたとたん「きゃー!うれしいー!」と悲鳴を上げた人がいたくらい日本では有名なのに.

石鹸の他はみるべきものもなく,小雨の中をバスに戻る.一同さすがに疲れ気味で,既に暗くなりかかり,雷雨が激しくなってきている.うとうとしながら市内へラッシュの中を戻る.ガイド嬢も途中のホテルで降りてしまった.M先生は,性懲りもなく,ガイド嬢を食事にでも誘えば良かったと残念がった.その夜は,中華料理の少しきれいなレストランに入ろうということになり,なるべく日本語がおもての看板にでていないところを選ぶ.そうして選んだレストランにつながるエレベーターにたどり着くと,大きく日本語で表示がありがっくりする.もちろんメニューも日本語がある.そこは,かなり大きなきれいなレストランで,客は西洋人,東洋人入り乱れている.隣のテーブルの中年男性(一見やくざふう)とその母親の会話ははおもしろかった.男はひたすら威張りまくり,日本語はあまり話せない給仕に「お茶だ,お茶!.熱いやつ!」「とりあえずビール持ってきてよ!」などと叫びまくっていたが,どうにか注文が通じてしまった.料理は美味であったがやはり少々高めであった.話はそれるが,中国では大きな丸テーブルに二人で座るとき,必ず隣同士に座らせるようである.そうすると,大きな7ー8人は座れそうな丸テーブルの片隅に男二人が片寄せあって座ることになり,我々はなるべく円の直径をはさんで向かい合って座ろうとするのだが,給仕は許してくれない.おそらく風習の違いであろう.

翌日はM先生の提案で鯉麗門「ユウレイモン」へ行く.別に幽霊がでるわけではなく,香港新空港建設地の近くの港の名前である.そこでは,水槽の中の生きている魚をその場で料理してくれるらしい.そこへ向かう地下鉄の途中,香港で一番大きなお寺があるというので,途中下車する.駅をでたとたん,線香のにおいが鼻を突く.黄色や金色,緑などのけばけばしい色で飾られた山門の前にたくさんの人が行列をつくっており,それを警官が整理している.行列の前には出店があり,巨大なろうそく(線香か?)やお供え物を売っている.なかには,板に載せた豚の姿焼きらしきものを2ー3人で抱えているヒトもいる.そのうち,警官が人々を門に通し,我々もぞろぞろとなかへ押し流されるようにして入っていく.M先生は「すごいすごい」とよろこんでいる.どうもこの人は,未開な土地,野蛮な風習,土着の文化,ゲテモノの食べ物などを前にすると喜ぶようである.境内は人々が座り込み,お供え物を並べて祈っている.線香の煙で見通しがきかないほどたくさんの人々がなにかを叫んでいる.M先生は「今日は人がいっぱいだが特別な日なのか,神殿の前で列を作る人にきいてみようか」という.ここにいるヒトは英語はしゃべらないのではないかと思っていたが,我々の前に並んでいた男性は,以外と流暢に,今日は神様の誕生日で特別な日であることを教えてくれた.やはり何でも聞いてみるものである.M先生は「特別な日にお参りしたから御利益があるはずじゃ」とさかんにはしゃいでおられた.その後,近くの市場を見学.市場は日本のそれとあまり変わらず,露天に近い店の台にいろんな果物が山盛りに売られている.M先生は,娘が好きだからという理由でマンゴスチンを一山購入.これが重くて,この後たいそう疲れる原因になったのだった.地下鉄をさらに乗り継いで鯉麗門(ゆうれいもん)へ行くはずであったが,地図によると直通はなく,手前の駅で降りて少し歩かねばならないようである.その駅で降りてみるとそこは,なにもない山の上で,バスもタクシーも通わない場所であった.それでも,ガイドブックに「いけすの魚を選んでその場で料理してくれるレストランがたくさんある」という言葉をこころのささえにしつつ,強い日差しの中を歩きはじめた.歩くにつれ,ますます人家は遠のき,ついに道は高速道路の脇の細い作業道になってしまった.この道は高速道路が九龍から香港島へ潜るトンネルの入り口にある料金所につながっていて,そこには制服の警官がいるのが見える.不審な日本人がふたり,ふつうヒトが歩いていないような場所からのろのろと交通の要所に近づくのをみて警官はなんと思うだろうかと内心おびえつつ,いざとなったらM先生は見捨てて逃げる決意を再度固めつつ道を下っていった.目の前には高速道路とそれに続くトンネルの巨大な入り口,その向こうにはまばゆく光る海,さらにその向こうに香港島,それらをおおう真っ青な空が見え,景色としては申し分ないのだった.警官に「ゆうれいもんにいくにはどうしたらよいですか」と聞くと,その角を曲がってしばらく行けばよいとのこと.やや胸をなで下ろしつつ,またてくてくと歩き出す.今度は山から下りて,海沿いの倉庫が立ち並ぶ殺風景な場所を歩いた.歩くこと約十五分,ようやく小さな入り江に囲まれたみすぼらしい集落が見えてきた.集落と見えたのが実はまさに子飼商店街のような場所で,しかも全ての商店が魚屋なのだった.商店街の中にこぎれいなレストランが数件あり,その中の一軒に入る.主人がでてきて,商店街の中を案内するという.市場の中の,どの魚屋の魚でも料理の対象になるらしい.数件の店で数種類の魚をビニール袋に入れてもらいレストランのテーブルに戻った.炎天下を歩いた後なので,香港ビールを注文する.たちまちほろ酔いとなり,料理を堪能したがすぐに九龍に戻らねばならない.夕方から香港文化中心(Hongkong Culture Centere)でミュージカル,オペラ座の怪人をみる予定なのだ.何しろ本場イギリスから来演のふれこみなのだ.食後,近くの船着き場に急ぐ.ここから九龍の近くまで船でわたり,地下鉄で会場まで行こうというのであるが,船着き場はさびれていて,乗客が一人だけ待っている.一時間に2ー3本運行している様子だが乗り場には切符を売る人もいない.そのうち船が着き,金も払わずそのまま乗船.十分ほどして到着後に料金を払った.そこから地下鉄の駅までの道がわからず,選挙のビラ配りのお兄さんに道を聞く.(このとき香港は返還前の最後の総選挙の前日であった.)お兄さんはこちらが恥ずかしくなったことに,大変きれいな英語で道を教えてくださった.感謝しつつ地下鉄に乗り込み,会場へ.会場は立派なホールで,英国から本場の役者が来演し,2ー3ヶ月公演しているようであった.客は,若い人が多く,もちろんアジア人が大半であったが,白人の家族連れなどもいて,いい雰囲気であった.終了後,すっかり暗くなった香港島を見渡すホール裏手の海辺で,しばらくぼんやりする.香港島のネオンがまぶしく,恋人たちが群れる中をおじさん二人がネオンをぼうっとみているさまは思い出すだに恥ずかしい.しかしオペラ座の怪人はそれほどまでに感動的であったのかもしれない.M先生はオペラ座の怪人をロンドンでもみており,もう飽きたかと思っていたらそうでもなく,オペラ座の怪人の純愛についてひとしきり講義された.その後,近くのなるべく汚い食堂を選んで夕飯.地下鉄で,凍えるほど冷房の入った高層ホテルへ戻った.

翌日は,午後2時頃の飛行機でようやく日本に帰る予定なので,午前中ホテル近辺を散歩する.このあたりは,ごくふつうの庶民の町と言った感じで,様々な店がみられにぎわっている.しかし大きな店は少なく,品揃えは豊富ではないので観光客は見あたらない.3階建ての市場に入る.中は昼なお薄暗いといった感じで,裸電球の光がぎらぎら光っている.エスカレーターはあるが,野菜くずや得体の知れないものが挟まって動いていない.魚屋,八百屋などは日本とさほど変わらないが,鳥肉屋の一角がすごかった.20メートルほどに5ー6軒の店が軒を連ねていて,あたりには鶏の鳴き声が響きわたり,店の奥には一辺一メートルほどの鳥小屋がいくつも積み重ねられ,中で鶏が叫んでいる.店には腰のあたりまである大きなドラム缶がおいてある.客が注文すると,店のがっしりした女将さんが鶏を檻からつかみだし,首を鋭い包丁で切りドラム缶に投げ入れふたをする.頃合を見計らってふたを取り失血死した鶏をつかみあげる.やはり殺したてがうまいのであろうが,農耕民族としては受け入れがたい光景ではあった.

途中に病院もあった.さして広くない待合い室にかなりの患者が座っていた.そのころ二人とも下痢をしていたので診てもらおうかという話になったが,さすがに遠慮した.

空港へ向かうホテルのシャトルバスまでにはまだ時間があるので,ホテルの階下にあるヤオハンデパートに行ってみた.ここはかなり大きく清潔で,先ほどの鶏屋とは大違いであるが,人がほとんどいない.これでは大赤字であろうとひと事ながら心配しつつバスで空港へ.ようやくこの旅も終わりにさしかかった,あと数時間で福岡だ,やれうれしやと掲示板を見上げるとなんと,我々の乗る便は直行ではなく,またタイペイに寄ることになっていた.旅行会社の旅程表にはそう書いていなかったので,代理店をののしりつつカウンターへ.その後の飛行については,さしたることもなかったが,M先生が検疫の必要なマンゴスチンを持ち込んだかどうかは知らぬ.やせる石鹸は合法的なおみやげだがいかんせん重すぎた.貴重品と見えて,うちにはまだ使わずにおいてある.家内は,床の間があったらそこに飾る気かもしれない.

 

あとがき

複数の国をしばらく時間をかけて初めて旅行したので,記録に残そうと思いました.ヨーロッパとアジアの両方を短時間に経験できて大変良い経験だったと思います.本当は,パリから日本へ直行便で帰るはずだったのに,満席で予約できず香港による羽目になったものの大変おもしろい経験ができてよかったよかった.約3ヶ月にわたって暇なおりに書きつぎましたが一部に不適切な表現があるかもしれません.平にご容赦下さい.これだけの文章を書くエネルギーは,論文に費やすべきではなかったかと反省しております.

平成8年二月

旅行中唯一の冷徹な観察者であった著者記す